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女優 有馬稲子

女優 有馬稲子(『読売新聞』西部本社版連載より)(1) 「大女優」という呼称が、聞かれなくなって久しい。魅力的な若い女優さんは、たくさんいる。だが、親しみやすい半面、近寄り難いようなオーラには乏しい。かつての日本映画界は、大女優の宝庫だった。巨大な銀幕の中で、大輪の花が競い合っていた。 そのひとり、有馬稲子さんと知り合ったのは平成29年(2017)秋、東京の企業が主催した幕末の長州藩士・高杉晋作に関するシンポジウムである。僕を含む四人のパネリストの中に、有馬さんがいた。芸能人枠で選ばれたらしい。 「なんで私が」と言いながらも、有馬さんは事前に数冊の関連本を読破し、夏の終わりに山口県に来て、晋作の足跡を歩きまわった。その熱心な取材ぶりに、圧倒された。普段の役作りも、このように取り組むのだろう。 昭和7年(1932)生まれの有馬さんが歩んだ道のりは、戦後史そのものである。少しでもお話を聞ききたいとの思いが、強く沸いて来た。 有馬稲子さんは終戦を朝鮮半島の釜山で迎えた。十三歳の時である。帰国するため、実の伯母である養母とともに、密航する16トンのイワシ船に潜り込んだ。同行者は30人ほど。いつ、アメリカの監視船に見つかり、撃たれるか知れない状況下で、玄界灘を渡った。 3日かかって下関に着いたが、その時有馬さんの脳裏に初めて「祖国」という言葉が思い浮かび、明るい未来を感じたそうだ。しかし、下関の光景は無惨なものだった。「驚いたことに、港は空襲で沈んだ船のマストだらけだった。優に五十本くらいのマストが枯木の株のように海面からにょきにょき突き出ていて、うっかり船は近づけない。マストとマストの間を網の目をくぐるように、引っかからないように接岸するのに二時間もかかったろうか」(有馬稲子『バラと痛恨の日々』) 「ドラマチックですね」と僕が感嘆していると、「ドラマチックですよねえ」と有馬さん。なぜかこの帰国の話が、小津安二郎監督のハートを掴んだ。あるいは華麗な風貌からは想像も出来ない、凄絶な体験とのギャップが面白かったのかも知れない。「一回(話を)したらね、お酒飲んでいる時に、ネコちゃん(有馬さんの愛称)、またしてよって。三回くらいしたんじゃないかな」 昭和一桁生まれの方が生きて来たのは、日本史の中でも未曾有と言っていいほど激動と混迷の時代である。戦争の中で子供時代を過ごし、時には生死に関わるような危機をくぐり抜け、ようやく平和を手に入れた。 銀幕の中の有馬さんや同世代の女優さんたちからは背筋をピンと張り、生きてゆこうとする決意が滲み出ている。独特の凛とした美しさ、逞しいまでの存在感の秘密は、そこにあるのだと思う。現代の女優さんに、同じものを求めるのは、やはり無理があるのかも知れない。時代が人をつくるのである。 さて、無事帰国した有馬さんは、大阪で実の両親や兄弟と暮らすが、上手くゆかなかったという。実の父の暴力に、悩まされたのだ。逃げ込むような思いで昭和23年(1948)、宝塚音楽学校に入り、翌年4月、初舞台を踏んだ。つまり今年4月は、有馬さんのデビュー70年となる。 それから昭和26年に映画界に入り、はじめ東宝、次に松竹で多くの作品に出演することになった。(平成31年1月19日号)(2) 有馬さんは昭和26年(1951)から40年までの間に約70本の映画に出演した。日本映画黄金期と呼ばれた時代が、そのまま重なる。以後は舞台が主になり、映画は現在に至るまで、数本の作品に出ただけである。 当時の日本映画は、どのように作られていたのか。有馬さんの出演作中、僕が最も好きな今井正監督『夜の鼓』(昭和33年)撮影時のエピソードを伺った。ちなみに『夜の鼓』は近松門左衛門の『堀川波の鼓』が原作で、脚本は橋本忍と新藤兼人。鳥取藩士が参勤交代に従い家を留守にした間に、妻が鼓師と過ちを犯したことから起こる悲劇を描く。 26歳の有馬さんが扮する武士の妻に、同僚の別の武士(金子信雄)が刀を突き付け、関係を迫る場面がある。追い詰められた有馬さんは「待って!」の台詞を4回繰り返す。ところが一週間近く監督のOKが出ず、連日「待って!」を言い続けた。もちろん、その間カメラは止まったまま。有馬さんは精神的にくたくたになり、結局なにが良かったのか分からないまま、OKが出たという。 あるいは浮気が発覚して、帰国した夫(三国連太郎)に何度も顔を殴られる場面がある。テスト前、有馬さんは「あなた、テストなんだから殴らないでよ」と、三国に頼んだ。にもかかわらず三国は容赦なく殴って、「あっ、ゴメン、ゴメン、気をつける」と謝る。「また、2回目でガーン。あなた殴らないでって言ったでしょと言ったら、またゴメン、ゴメン。何回殴られたか分からなかった」 それでも本番を終えて「やれやれ」と思っていたら、監督が「落ち着いたらまたやろうか」。それから顔が腫れて来たので、氷で2時間冷やして、撮影を再開させたという。 僕が「いま、テストで女優の顔を殴ったら、どうなりますか」と尋ねたら、「大変ですよ、プロダクションが連れて帰りますよ」と有馬さん。ただ、当時は芸術というのは、そんなものだと思っていたとも言う。 それでも70年の女優人生で、ここまでひどい目に遭ったことはなかったそうで、いまでも怒っている節がある。「あの大きい手で」と、憎々しげに、あちこちで話したり、書いたりするものだから、晩年、「(三国は)ン十年経ってから、殴って悪かったって言っていたみたいよ」とのこと。 やたらと無味無臭が好まれる現代から見ると、クセ者揃いの映画界は隔世の感がある。有馬さんが映画から距離を置いた一因は、その辺りにあるのかも知れないと思った。(平成31年1月26日)(3) 有馬さんは昨年12月、10年ぶりにパリを訪れた。日仏友好160周年記念で開催中の「日本映画の一〇〇年」で主演作『東京暮色』(1957年)が上映されたため、ゲストとして招かれ、小津安二郎監督の思い出など語ったそうだ。 『東京暮色』は小津映画群の中でも、ひたすら暗い雰囲気の異色作である。戦時中、ふたりの娘を残した母(山田五十鈴)が、愛人と満州に家出した家族の十数年後の物語だ。 姉(原節子)は一見しっかり者だが、夫と上手くゆかず実家に戻って来る。有馬さん扮する妹はいかにも感受性が強そうで、母の問題で心を病み、いつも憂鬱な表情をしている。あげくは遊び人風の大学生の子を堕ろし、事故か自殺か不明のまま汽車に轢かれて死んでしまう。姉妹の父(笠智衆)は無気力、無表情で何を考えているのかよく分からない。 有馬さんは、この作品が好きだと言う。ただ、撮影当初から、自身の役の最期が納得出来なかった。「『なぜ私が死ぬの』ってプロデューサーに尋ねたら、『監督に聞けよ』って言われた。私も女性として未熟だったから、聞けなかったけど」 「死にたくない」と呟き息絶える娘を、父も姉も静かに見守る。それも有馬さんは「不思議でしょうがない」そうだ。 『東京暮色』は、近年国内外で再評価されている。有馬さんが60年を費やしても解けない謎があるように、観客の心に何か引っ掛かるものを残す、不思議な映画だからかも知れない。 この家族が、戦争の傷痕を引きずりながら生きていることは、なんとなくうかがえる。最近、高度経済成長期をノスタルジックに捉え、美化する風潮があるが、現実はそんな甘っちょろい時代ではなかったことを教えてくれる。 有馬さんが演じ続けた同時代人の生きざまは、もはや戦後史の記録と言っていい。 例えば米軍基地のある町を舞台にした小林正樹監督『黒い河』(1957年)の、やくざに暴行され、人生を狂わせる女性などは鮮烈な印象を残す。有馬さんはロケで滞在した福生の町の荒んだ、猥雑な光景が忘れられないという。「娼婦だらけで衝撃を受けました。東京の街中にいたのではわからなかった世界です」と振り返る。そこにも戦争の傷痕が残っていたのだ。そういえば、松本清張原作、野村芳太郎監督『ゼロの焦点』(1961年)も、有馬さん扮する元アメリカ兵相手の娼婦が過去を隠して生きようとするも、そのために殺されてしまう話だった。 あるいは田坂具隆監督『はだかっ子』(1961年)の優しく知的な小学校教員役も、貧しい暮らしの子供たちに対する視線が温かく、涙が出るほどいい。 有馬さんが女優として凄いのは、どの役にもはまり切っていることだ。だから、一貫したイメージが無い。「カメレオン俳優」の走りだと思う。(平成31年2月2日)(4) 昭和36年(1961)、有馬さんは俳優の中村錦之助(のち萬屋錦之助)と結婚して家庭に入り(のち離婚)、映画から遠ざかる。だが、昭和38年(1963)の『浪花の恋の物語』からは舞台で活躍を始めた。その代表作は水上勉原作、木村光一演出『はなれご女おりん』である。昭和五十五年から平成十六年まで、二十四年間で六八四回も上演された。 大正のころ、北陸地方を旅する盲目の三味線芸人の物語。「男とも寝るし、だらしない女ですが、心のどこかに無垢なものがある」と有馬さんが言うおりんは、脱走兵の平太郎と出会い、人間愛に目覚めてゆく。 おりんは憲兵に捕らえられた平太郎が処刑される前、面会する。平太郎は身寄りが無いと言っていたが、母が健在で、おりんと稼いだ中から密かに送っていたと打ち明け、謝る。おりんは平太郎の誠意に触れ、「いまほど目が見えないのが、哀しいことはない」と嘆く。その場面が、とても良いと有馬さんは言う。 エンディングは平太郎が残した大八車を、おりんが曳きながら舞台を廻る。「多分どこかで野垂れ死んだと思わせるような終わり方」である。悲惨な話のようだが、おりんの時にとぼけたキャラクターのせいもあり、十分間に一度は観客の笑いが起こったそうだ。 有馬さんは、おりんは自分の分身だとも言う。苦手だった三味線も、猛特訓した。右膝を痛め、ついには人工関節を入れた。全国の演劇鑑賞会に招かれて上演してまわったが、九州各地や下関も訪れている。 「どこか印象に残っている土地はありませんか」と尋ねたが、愚問だと気づいた。物見遊山的な余裕は皆無で、精神的に張り詰めた旅だったようだ。それでも佐世保の木下央子さんや下関の藤田典子さんら鑑賞会の事務局長と食事をしたこと、魚が美味しかったことなど、思い出してくれた。 僕も7年間ほど鑑賞会に入っていた。その際、第一線で活躍し、スターと呼ばれる俳優が安宿に泊まり、驚くほど安いギャラで身命を削って地方に演劇を届けてくれることを知り、日本の芸能界も捨てたものではないと、妙に感心したことがある。 平成3年(1991)、『おりん』の海外公演が実現。イギリスでは、日本の皇太子殿下もご覧になった。スイスではカーテンコールが8回もあり、感動のあまり楽屋まで訪ねて来た観客もいた。言語や習慣の壁を越え、心に訴えるものがあったのだろう。「素晴らしい舞台でした」と、有馬さんは繰り返す。ただ、全編通しての映像は残っていないそうだ。残念だが、それもまたライブの良さなのかも知れない。(5) 22歳の有馬さんが同世代の岸惠子・久我美子と3人で「にんじんくらぶ」を結成したのは、昭和29年(1954)のこと。 当時、日本映画界には五社協定が存在した。五大映画会社にそれぞれ属する俳優は、他社作品に出演出来ないという鉄の掟である。 ところが、戦地から帰って来た左翼系の有能な監督たちが独立プロで映画を撮り始め、有馬さんらにも出演のオファーが来る。ぜひ出たいが、協定があるから無理。「ならば年間一本だけは、他社出演を認めさせよう」と、若手女優三人が団結し「にんじんくらぶ」が誕生した。美しく聡明な女性の「決起」を、川端康成・井上靖ら文壇のお歴々なども応援し、映画会社は要求を認める。有馬さんらはスターよりも、女優の道を貫きたかったのだろう。映画界に新風が巻き起こったのは言うまでもない。「いまなら、二十代の女優が自分の意志で会社に楯突く行動を起こすなんて、考えられないですよね」と言うと、「楯突くつもりもなかったんですけどね。楯突いたことになっちゃったんですよね」と有馬さん。「岸さんが言い出したんです。あの人頭いいから」と振り返り、「たいしたもんですよ。若い女の子がね」と、65年前の自身を客観視して感心する。ひと世代前の映画界なら、ありえない話だろう。 半面、いまの若者や日本の将来には不安を感じることも多いと言う。昨秋、ハロウィーンの夜、渋谷で若者が暴れ、他人の自動車をひっくり返して歓喜する姿をテレビで見た有馬さんは、嘆く。「世の中に対して不満があるのなら、解決するために正面から取り組んで、一直線に進んで欲しいと思うんですね」。 理想のリーダー像を尋ねたら、戦後、吉田茂の側近としてGHQとの折衝にあたった白洲次郎の名を挙げられた。有馬さんは白洲とは、パリで知り合ったという。のち、京都の錦之助と暮らす家に訪ねて来たてくれたので、手料理をふるまったこともあるそうだ。 いま、有馬さんは横浜郊外のケア付きマンションで、ひとりで暮らしている。毎日4000歩の散歩を欠かさず、年に数回、朗読劇の舞台をこなす。昨年末はパリの日本館で『良寛さまと貞心尼』を語った。お元気で活躍されていることは、この国にとっても幸福なことだと思う。 有馬さんの原点のひとつは13歳の終戦時、釜山から16トンのイワシ船で下関まで帰って来た体験だ。すさんだ風が吹く下関の闇市で、高価な薩摩芋の天ぷらを買い、明日からの暮らしに不安を覚えたという。「苦しい時に必ず引き揚げの時のことを思い出しますよ。ひょとしたら死んでいたかも知れない瞬間を生きたんだから、頑張らなきゃって、しょっ中思いましたよ。映画に入ってからも、苦しい時は一杯あったから」 戦後日本を牽引し続けて来た「大女優」のひと言は、昭和一桁生まれの子供世代である僕にとり、どんな映画の名台詞よりも身が引き締められる思いがした。(平成31年3月2日)付記 有馬稲子さんから昨年10月と本年1月の二度に渡り、いろいろなお話しを聞かせていただいた。録音は5時間以上におよぶ(その上電話で何度もお話しを聞いた)。その中から、選んで書かせていただいたのが、以上の記事である。有馬さんは、記憶力が抜群に良い。早口でいろいろな話をして下さる。私の亡くなった両親と同世代であり、そんなことを考えながら聞いていると懐かしいようでもあり、感無量だった。それだけに、お話のごくごく一部しか紹介出来なかったことが残念でならない。すべては私の非才のせいである。 有馬さんの代表作「おりん」は、原作者水上勉みずからが書き下ろした朗読劇バージョンもある(CDもあり)。だが、おりんの故郷福井県小浜市では一度も上演されていないと知り、残念に思った。そこで、以前からお世話になっているもと小浜市長の村上利夫さんに相談したところ早速ご尽力くださり、隣町ともいうべき大飯町の水上勉生誕100年の記念行事として、本年10月26日(土)に実現していただけることになった。 有馬さんには、いつも無理ばかり聞いていただき申し訳ないと思っている。そしてついに「おりん」の舞台を生で見たいという、最大の我がまままでお聞き届けくださることとなった。いまから楽しみで仕方ない。 本当にありがとうございます。付記2 有馬さんは「にんじんくらぶ」の名称の由来を、昨年出た樋口尚文さんとの対談本の中で、確か「赤くてかたいから」と話しておられたと記憶。左寄りで、真面目ということだろう。 ただ、にんじんくらぶ発足時、「スターサイン入りこけし 有馬稲子」というこけし人形が発売されており、その栞には、ルナールの小説『にんじん』が名称の由来だと書かれている。「現代は資本主義の世の中であり、映画産業は巨大なマスコミの一翼となっています。そこには個人の力では動かすことのできない鋼鉄の歯車のような機構があります。この組織の中で良心的映画人が真に芸術の光を求めて生きて行こうとする姿は正に『にんじん』に出てくる主人公の少年と同じではありませんか…」 さらに、有馬さんのこととして、次のようにある。「美ぼうと明朗、あくなき芸術への探求心が彼女の身上ともいえるでしょう。  有馬山いなのささ原風ふけば     いでそよ人をわすれやはする 皆さんと共にネコチャンの健闘を心から祈りましょう」 

晋作と刀剣

高杉晋作と刀上海で刀を見せる 高杉晋作は根っからの武士であり、刀剣に強い愛着を持っていた。文久二年(一八六二)、清国上海に渡航した際、現地人に刀を見せて「我が心清潔、すなわち此の如し」と語ったと、『遊清五録』六月十九日の条に記す。刀は武士の魂であった。 もっとも、晋作が使ったと断定出来る刀剣の実物に、私はいまだお目にかかったことがない。妹光子が継いだ高杉宗家に伝来した刀剣は数点見たが、いずれも晋作が使ったという確証は無い(四国艦隊との講和のさい、差して行ったとの「由来」つきの脇差もあるが、あれは根拠が無い近年に創られた「お話」であることを自省の念もこめて明かしておく)。晋作の刀と言われるものを個人で所持する方もいると聞くが、こればかりは筆跡などと違い、確かな裏付けが無い限り判断しかねる。 大正五年(一九一六)五月十四日、東京の靖国神社遊就館において晋作五十年祭が行われたさい、遺品展も開催された(五月十四・十五日)。多くの遺墨・遺品が高杉家から出陳されたが、目録の中に刀剣類は見当たらない。高杉家では有名な産着や直垂をはじめ、晋作の遺品類については特別扱いして保存していた。だが、大正五年段階で同家にはすでに、晋作の「佩刀」「愛刀」と呼べるようなものは残っていなかった模様だ。 遊就館の展示につき、奇兵隊出身の軍人政治家である三浦梧楼は「刀は無つたか…アノ大刀はどうしたかの…高杉の大刀と言やア、当時でもめざましいものだつた」(『日本及日本人・六七七号』大正五年)などと語っている。三浦の記憶によると、その「大刀」は晋作が薩摩行きを企んでいた時(慶応元年か)、薩摩武士に化ける必要があり、長崎で薩摩の伊集院金次郎(のち鳥羽・伏見で戦死)から譲られたのだという。 晋作の孫高杉春太郎は昭和十六年(一九四一)夏、陸軍に召集された際、家伝の刀を軍刀拵えにして持参した。春太郎は満州各地などを転戦したが、敗戦により抑留され、刀はイギリス軍に没収されたという。以後この軍刀も行方不明になった。もっとも、高杉家ではこれを晋作の遺品として扱っていなかったようである。春太郎の子高杉勝は「刀の袋には古い血痕らしき染みがあり、不気味だった」と、少年時代の思い出を私に話してくれたことがあった。田中光顕から譲られた刀 晋作の愛刀のひとつは、土佐脱藩の浪士田中光顕(明治になり宮内大臣など)から譲り受けたものとされる。田中が晋作の詩文集『東行遺稿』(明治二十年)に寄せた序文に、元治元年(一八六四)秋のこととして「先生(晋作)余佩刀意欲獲之、余曰先生使光顕列門下」云々と述べる。田中は刀を譲る代わりに、晋作の門下に加えてもらったという。 その顛末は、土佐出身の歴史家で田中とも親交があった岩崎鏡川が『日本及日本人・六七七号』に寄稿した「東行の佩刀」の中で、述べている。また岩崎は、どこから得た情報かは知らぬが刀につき「作は佐伯荘藤原貞安で、裏銘に永禄六年八月吉日と彫つてある。長さ二尺六寸あつて、焼刃の具合から錵(ルビ・ニエ)といひ●(鈎のムではなくヒ)(ルビ・ユホヒ)いとひ申分もなき良刀である」とする。さらに田中が慶応元年(一八六五)十一月一三日、郷里の両親にあてた手紙には次のような一節があるという。「一日高杉先生に謁し、語剣事に及び、顕が所佩之刀を見て、大に懇望され、直に是を先生に譲りて、先生の門下となれり」 この手紙を岩崎は、土佐の伊藤家から見つけたとし、「この一通のことは伯(田中)と雖も、或は今日忘却して居るかも知れぬ」「これがどうして、伊藤氏に伝はつたかは、善平翁死去の今日分らない」とする。また、岩崎は晋作が三十両で別の刀を贖い、田中に贈ったとも述べている。光顕が語る友安 田中光顕は九十四歳の年に改造社から『維新夜語』(昭和十一年)という回顧録を出した。その中には、刀を晋作に譲った逸話もある。同書によると田中は慶応元年(一八六五)八月、石川清之助(中岡慎太郎)とともに長州を訪れ、晋作に会った。その際、晋作は田中の佩刀に興味を示す。「安芸国佐伯荘藤原友安の作で、永禄六年八月吉と銘が打つてある。中身は二尺六寸、焼と言ひ匂といひ、実に何とも言ひやうのない神品である」 とまで、田中が自慢する愛刀である。晋作も「ふ―む、まことに見事な刀である。平素の御心掛のほど察し入る」とほれ込んで、ぜひ譲って欲しいと言い出す。だが最初、田中は断る。「高杉の気持は、よくわかる、が、相手が幾ら高杉でも、此の刀ばかりは手離すわけには行かぬ」と思う。それは田中が大和十津川に潜伏中、薩摩浪士梶原鉄之助から懇願して譲り受けた、大切な刀だったからである。ところが晋作は諦めようとしない。「由来を聞いて、猶更欲しくなつた。梶原氏の心掛けと言ひ、貴君の心掛と言ひ、近頃感服仕つた。どうか御両所の心掛と併せて、此の刀を拙者にお譲り願ひたい」 と、押して来る。とうとう田中も根負けし、晋作の門下に入れてもらうことを条件に、友安を譲った。 田中によれば慶応二年、長崎で撮影された有名な晋作の写真に写っているのは、この友安だという。「安芸国友安」は永禄年間((一五五八~六九)の刀工とされる(長野桜岳『幕末志士愛刀物語』昭和四十六年)。 写真で見る限り、晋作の友安は薩摩拵えの小さな鍔の武骨な雰囲気の刀のようである。では、この友安はその後どうなったのか。田中は「彼は死ぬ時迄、此の刀を手離さなかつたが、死後何処へどうなつたものか、刀の行衛はわからない」と語っている。「友安」か「貞安」か 「友安」は文献によっては「貞安」となっている。その原因を、田中光顕の回顧談から探ってみよう。 田中の幕末回顧談には『維新夜語』より八年前、講談社から出した『維新風雲回顧録』(昭和三年)と題した別バージョンがある。内容はほとんど同じなのだが、『維新風雲回顧録』では刀の名称が「友安」ではなく、すべて「貞安」になっている。これは先に見た、岩崎鏡川の大正五年の一文と同じである。出版の順序からすると「貞安」が先だが、それは誤りだったので、『維新夜語』を出すさい、すべて「友安」に修正したと考えるのが、自然ではないか。 私は刀剣については、まったくの門外漢である。しかし晋作ゆかりの「友安」「貞安」について知りたいとは思う。どのような刀工なのか、あるいは他にどんな刀を打っているのか。それらを知る手掛かりが、いまのところつかめない。長い刀を好む 晋作の身長は、一六〇センチほどだったという。刀の長さは身長に合わせるものだが、晋作の場合は不釣り合いな長い刀を好んだ。当時は実戦を想定して短い刀が好まれたというが、一方で武威を示すための長い刀も流行したようである。 晋作は文久三年(一八六三)五月二十日、久保清太郎(断三)にあてた手紙に「二尺五寸極々上等分」を、代わりに買っておいて欲しいと依頼する。翌日、藩校明倫館で「新刀」の販売があると知った晋作だったが、自身は剃髪して萩郊外の松本村に籠もっていたため、久保に購入を依頼したものらしい。 幕府により刀の「定寸」は二尺三寸(約七〇センチ)と決められていたから、それよりも七センチほど長い刀を晋作は探していた。ともかく晋作は刀を手に入れたようで、七月九日、下関から萩の妻マサにあての手紙中に「松下にて買得候刀は仕立て出来候や、出来次第御持たせ下さるべく候」と頼む。当時、晋作は奇兵隊を結成し、初代総督を務めていた。なお、三尺以上の帯刀は禁じられていたから、晋作は法の範囲内で突っ張っていたことになる。 久保の息子久保幾次郎が、やはり『日本及日本人・六七七号』に寄稿した「東行先生は兵学者」で、「高杉未亡人の話によると、明倫館で買つた長剣は明治十年に未亡人が東京へ出て来られる時に、確かに菰包として持参されたさうであるが、其後何うなつたかいくら詮議しても見当らぬとの話であつた」と述べている。なお、幾次郎は高杉家には「今一本」刀があるとするが、これが先に述べた春太郎が戦地に持参したものだろう。井上聞多の佩刀 征長軍が迫る元治元年(一八六四)九月二十五日、井上聞多(馨)は山口で開かれた御前会議で「武備恭順」を説く。しかし同夜、帰宅途中に反対派の刺客に襲われ、瀕死の重傷を負った。そのさい、井上が帯びていたのは同年五月、杉孫七郎から護身用として贈られた太刀である。刺客の攻撃を受けた刀はその後、行方が分からなくなった。しかし明治三十一年になり、杉によって東京の高杉家から見い出される。 その際、杉が書いた「伯爵井上君旧佩刀記」によれば、形状は「刀長二尺三寸二分、款鑑無し。美濃国関兼延作る所と為す。身反り張り無し」だった。そして遭難のさい、刺客の刀を受けた疵が生々しく残っていた。杉は「今歳六月、高杉東一家を訪れ、たまたま此の刀を見る。蓋し往時馬関に於いて東一の父晋作に贈る所」と述べる。 杉によると、井上の一命を救った刀は馬関で晋作に贈られ、その後も高杉家に伝わった。肝胆相照らす仲だった井上と晋作の関係からすれば、不思議なことではない。『世外井上公伝』一巻(昭和八年)には、次のような解説がある。「この一刀は公(井上)の遭難後、他人の手に移り、久しくその所在が知れなかつたが、明治三十一年、杉子爵が山口県巡遊の途次、高杉晋作の未亡人がその刀を保存して居るのを聞伝へ、之を未亡人に請ひ、携帰つて再び公に贈つたものである」 『世外井上公伝』の著者は当時、高杉家が山口に居を構えていたと勘違いしているが、同家は明治十年ころ、東京に移っている。推測すると、杉は帰郷したさい、井上の刀に関する何らかの情報を得、東京に戻り、高杉家を訪ねて実物を確認したのではないか。未見の脇差 熊本在住の自衛官が昭和三十七年(一九六二)ころ、旧陸軍の将校から譲られ、「家宝」としている「晋作の脇差」が、平成元年(一九八九)の新聞に紹介されたことがある(切り抜きは持っているが、新聞名と月日はメモし忘れて不明)。 記事によると脇差は「銘はなく、刃渡り五十五・二センチ」で、鞘には「奇兵隊高杉東行佩刀」「含雪所有 寺岡中山堂鑑」「伝 備前長船住人康光 長サ一尺八寸一分有」と書かれているという。広井雄一「古刀」(『文化財講座 日本の美術13』昭和五十二年)には、室町時代初期の備前長船の刀工として「康光」の名が挙がっている。 旧蔵者という「含雪」は晋作の同志だった山県有朋の号だが、由来を書いたのは「寺岡中山堂」なる人物だ。山県本人の書き付けではない点など、やはり決め手には欠ける気がする。それでも夢のある話ではある。 平成がスタートした年に新聞に紹介された脇差の行方を、私は知らない。一度拝見したいと願っていたが、その機会も無いまま平成は終わってしまった。   (平成31年4月、未定稿。「晋作ノート」46号に掲載予定)

二十二通目の父あて晋作書簡と御前会議

二十二通目の父あて晋作書簡と御前会議(1) 高杉晋作は忠孝心にあつく、藩主と両親には頭が上がらなかった。「孝子晋作」を裏付ける父小忠太あて書簡は堀哲三郎編『高杉晋作全集』(以下『全集』と略す)上巻(昭和四十九年)に十七通(両親あて含む)、私が編んだ『高杉晋作史料』(以下『史料』と略す)一巻(平成十四年)には少し増えて二十一通が収められている。 高杉家蔵だった原翰の大半は『東行先生遺文』(大正五年。以下『遺文』と略す)で翻刻された後、流出したようなので、活字でしか知ることが出来ないのは残念である。 父あて晋作書簡がこれ以上、現存する可能性は乏しいと思っていたら、このたび未発表の元治元年(一八六四)九月二十一日、父あて晋作(この頃は「和助」と称していた)書簡に出会った。二十二通目の父あてである。 晋作生誕百八十年最初のニュースとしてお届け出来ることを、まずは喜びたい。 晋作は八月前半、下関で四カ国連合艦隊との講和のために奔走した。しかしこの間、「禁門の変」で敗れた長州藩は「朝敵」の烙印を押され、九月になると藩政府ではいわゆる「正義派」が斥けられて、いわゆる「俗論派」が台頭するという政権交代が始まる。藩主父子は「藩政府」が置かれた山口におり、そのため萩は「留守政府」とも呼ばれた。 それでも晋作は従来の政務役に加え、八月二十九日、石州境軍務管轄を兼ねるよう命じられ、九月二日夜、山口に入る(同日、杉梅太郎あて晋作書簡)。もっとも、石州口には赴任せず、九月十一日までには萩に帰ったようである。 一方、父小忠太は晋作と入れ替わる格好で、山口の藩政府に勤めることになった。九月十日、手廻組に加えられ、奥番頭、直目附役を命じられる(毛利家文庫『高杉小忠太之履歴材料』)。小忠太に篤い信頼を寄せる、藩主父子の希望によるものだろう。(2) 私は『史料』一巻の中から書簡百通を選び、解説などを加えて講談社学術文庫版『高杉晋作の手紙』(平成二十三年。以下『手紙』と略す)を編んだ。もっとも、いま見ると『手紙』の解説は発信者(晋作)や受信者の居所、月などの推定の誤りが何カ所かあり、赤面の至りである。たとえば『手紙』の「22」は、受信者の宍戸九郎兵衛の居所を「江戸」としたが、大坂か京が正しい。 今回新出の晋作書簡を調べるうち、元治元年九月あたりの書簡の解説などに、重大な誤りがあることに気づいた。これを訂正しておかないと話が進まないので、少しお付き合いいただきたい。 九月十一日(『史料』270・『手紙』44)、九月十五日(『史料』271・『手紙』45)は晋作が「山口」から「萩」の父にあてたと『手紙』で解説したが、いずれも逆で、「萩」から「山口」あてである(『全集』も同様に誤っているので、要注意)。 また、「十八日」(『史料』272・『手紙』46)とある父あて書簡は、「九月」でも「十月」でもなく、下関で戦後処理を終えた直後の「八月」が正しいと思われる。 以上、お詫びし、訂正させていただく。(3) ①九月十一日 ②九月十五日 ③九月二十四日(『史料』273) と、二週間ほどの間に萩の晋作は、立て続けに山口の小忠太に手紙を発した。ちなみに①②の原翰は『遺文』によると、晋作の孫高杉春太郎の所蔵とあるが、その後流出して現在は行方不明である。③の原翰は萩出身の日本画家松林桂月など何人かの手を経、現在は熱田神宮(名古屋市)が所蔵するが、早くに流出したようで、『遺文』『全集』には収められていない。 ②と③の間に、今回出て来た九月二十一日付を加えると、二週間ほどの間に四通書いたことになる。これらの手紙で一体、晋作は父に何を伝えようとしたのか。 ①の最初の方で、晋作は萩に急ぎ帰って来た理由を述べる。それは、父が山口に転役すると聞いたので、「当形勢予め申し上げたく」と言う。「俗論派」の影響が強まった藩政府にかんする予備知識を植え付けておこうと、考えたのである。ところが父はすでに萩を発ち山口に向かっており、行き違いになったと悔しがる。 そこで晋作は、毛利登人とはぜひとも同勤するようにとか、藩主側近が色々と「密告」してくるだろうが、決して信用してはなりませぬなどと注意を促す。林主税・上山某などは「誠忠」だが、「時勢には不案内」だから、交流しても心を許してはいけないとも言う。 さらに、「正義派」の幹部で失脚中の前田孫右衛門・渡辺内蔵太・大和国之助・毛利登人を藩政府の一線に戻すよう「周旋」して欲しいと頼む。しかし、「麻田公輔(周布政之助)老狂、清水大夫(清太郎)も少年、中々引き当てには相ならず」とも評す。萩のこととして、「杉徳輔(孫七郎)留守政府第一等人。山田宇右衛門好人物、其の上時勢も熟察つかまつり居り候」と述べる。この時期、晋作があつい信頼を寄せていたのは、山田だった。 つづく②で晋作は、藩政府や執政に人物が無いと嘆き、その中に立たされる父の「御苦心の程及ばず乍ら想像」していると言う。また、自身の処遇につき、石州境軍務管轄は辞職願いを出しているとし、「錬兵場舎長」くらいに転任させてもらえると「生外の大幸」とする。間もなく「俗論派」による粛清が激しくなるのだが、この頃の晋作はやや呑気に構えていた。 晋作がたびたび話に行くという山田については、次のように高く評しており、山口に呼び寄せるよう勧める。「宇右衛門は当時勢い(時勢)も余程熟覧熟味、老錬中の真の老錬、御役に相立ち候好人物につき、何卒早々鴻城(山口)へ御召しに相成り候ては如何哉と愚察奉り候」 末尾近くには「田上伯父御出山に付、一筆拝呈つかまつり候。ここ許時情は委曲伯父より御聞き取りなさるべく候」とあり、萩から山口に行く叔父の田上宇平太に託された手紙であることが分かる。(4) そして今回見つかった、九月二十一日付へと続く。「田上伯父昨夜御帰萩、今朝罷り越し御地の御様子承知奉り、大安心つかまつりおり候」で始まるのは、前便②と繋がる。田上から聞いた山口の情報に対する晋作の意見を父に知らせるのが、手紙の主旨である。 晋作は父の「御盛々御所勤」を喜び、萩の母はじめ家族は全員無事だが、「二、三日前より大西外祖父(将曹)少々風邪」を引いているとの近況を知らせる。それから山口の藩政府が「今以って御沸騰の余波静まり兼ね候の由、嘸々御苦労」されていると気遣う。また、山田宇右衛門が山口に「出浮」するので、「御相談」するよう繰り返す。さらに自身は萩に「割拠」するつもりだと言う。 「宇右衛門」の名は三回も出て来る。「宇右衛門之持論は、杉梅(杉梅太郎・民治)委細承知にて彼に御尋ね下さるべく候」と、勧める。 杉梅太郎は八月十七日、諸郡御仕組方を任ぜられ、郡奉行所本取締役を兼ね山口に勤務していた。上司の郡奉行は、山田である。だが、山田は藩政府の仕事に忙殺され、郡方は杉へ委任された(中村助四郎『学圃杉先生伝』昭和十年)。つづいて中原邦平『井上伯伝』巻之三(明治四十年)によれば、山田ほか主な「正義派」政府員は九月十四日、辞表を出す。これを藩主は認めなかったが、山田は萩に帰り、晋作と話し合うようになった。 山田宇右衛門は文化十年(一八一三)生まれで、文久二年(一八六二)二月に参政となり、同年八月、学習院用掛として上京した。帰国後は再び参政となり、翌三年には奥阿武郡代官などを務めたりする(『近世防長人名辞典』昭和五十一年)。『防長回天史』六巻によると、元治元年八月十三日、講和副使として晋作と共に四カ国連合艦隊との談判に出席した。これらの経歴を見ても、能吏だったことは窺える。 「宇右衛門之持論」を、この頃の晋作が支持していたのは確かである。ただ、それが何だったのか、よく分からない。もちろん、晋作と同じ「武備恭順」路線だろうが、山田が意見書を出したとか、会議で発言したといった記録が見出せない。(5) 萩に帰っていた山田宇右衛門を、藩政府が山口に呼び出したのは、九月二十五日に開かれる御前会議に出席させるためだろう。小郡宰判代官と政務座を兼ねる井上聞多(馨)が「純一恭順を非とし、武備恭順の説を主張」(『防長回天史』六巻)したことで、後世有名になる会議である。これにより藩主父子も「武備恭順」に傾いたという。井上は非常の場合は第四大隊と力士隊に、「俗論派」を襲撃させる準備を進めていた。このため同夜、帰宅途中の井上は「俗論派」の刺客に襲撃され、瀕死の重傷を負う。 井上は後年「山田宇右衛門は謹慎を言ひ付けられて居なかつたらう。極く穏かな人であったから、さう云ふ人に皆な御許しがあるから出よと云ふて」(同前)会議に出席させたと回顧する。 井上の回顧談をもとにしたという『井上伯伝』巻之三には、講談調で会議が「再現」されている。午前十時から始まり、まず「俗論派」が擁する加判役の毛利伊勢が「正義派」の失政を非難し、「幕府に対して只管恭順謹慎の誠意を尽し、哀訴嘆願の道に由りて、毛利家の社禝を存するの外勿るべし」などと、弱腰の主張をする。対する井上は「御家老の面々が頻りに畏縮の俗論を主張せらるゝは如何なる御所存なるや…毛利家の臣子たる者は上下一致、武士道に拠り、斃れて已むの時機に到達せり」などと、勇ましく反論するといった展開である。まさに、井上の独壇場である。もっとも、顕彰目的の伝記の記述をどこまで信じてよいものか、疑問は残る。 それに、晋作が期待した「宇右衛門之持論」は、会議で披瀝されたのか。小忠太は出席していたのか。井上は何も語っていない。 長州藩の進路を決める有名な会議にも関わらず、管見の範囲では「議事録」「出席者名簿」のような確かな史料が残っていない。『井上伯伝』巻之三には、出席者につき「一門家老を始め政府の諸役尽く政事堂に参集す」とあるだけだ。「俗論派」が絡むや、史料が極力少なくなる。これが、長州藩「明治維新史」の問題点であろう。(5) この続きが③九月二十四日、父あて晋作書簡である。晋作は萩で「碌々読書にて罷り暮らし」ていると近況を知らせる。だが、萩から山口に行く者が多いとし、「御地(山口)之事は色々虚説流行、人心恐乱、長歎息之至りにござ候」と憂慮するも、山口に行った山田のことは触れていない。前便にあった大西外祖父の風邪につき「次第に熱気も強まり候方にて、甚だ以て難義致され候。食事参り兼ね候間、何卒御心配にて、御上心労を御送り下され候と之事と存じ候。宜敷く御頼みつかまつり候」と願う。 二十五日、御前会議があり、夜に井上が襲われ、二十六日暁には周布が山口・矢原で自決する。「俗論派」が藩政を席巻し、藩主は十月三日、世子は翌四日、山口を発ち、それぞれ萩に帰った。十月十六日には晋作の、同月二十一日には小忠太の辞職願いが藩政府に受理され、父子ともに萩の自宅で過ごすことになる。晋作は再び、父の育という立場になった。 二十四日に「禁門の変」の責を問われた宍戸左馬之介らが野山獄に投ぜられるや、晋作は同夜萩を脱し、山口、徳地、下関などを経て、九州に亡命する。藩政府の主導権を奪うため帰国し、下関で挙兵したのは十二月十五日のこと。藩内戦のすえ「俗論派」は藩政から斥けられ、藩是は「武備恭順」となり、慶応二年(一八六六)六月には第二次長州征討の戦いの火ぶたが切って落とされる。この間、山田は投獄もされることなく生き延び、政権交代後は藩政府の参政首座として藩政改革を進めた。 晋作は征長軍撃退の指揮を執り、慶応三年四月十三日、二十九歳で病没。山田は王政復古のひと月前、慶応三年十一月十一日に五十五歳で他界している。   (「晋作ノート」45号、平成31年3月)

田代における高杉晋作

(1) 本年(平成三十年)十月二十一日、佐賀県鳥栖市の田代八坂神社境内に鳥栖市明治維新150年事業のひとつとして、高杉晋作の詩碑が建立された。私は碑に刻まれた晋作の筆跡を提供したご縁もあり、除幕式にお招きいただき、三十分ほど記念講演を行った。 田代宿は長崎街道の宿場のひとつで、八坂神社の鳥居は街道に南面している。文久二年(一八六二)、晋作は江戸から陸路長崎まで行き、そこから千歳丸に乗り上海に渡った。そのさい街道を往復したはずだから、鳥居の前も通ったであろう。まさか百数十年後、境内に自分の筆跡が刻まれた碑が建つとは、夢にも思わなかったはずだ(当たり前だが)。 現在の鳥栖市の東半分、田代宿を含む基肄(きい)郡・養父郡の一帯一万石あまりは江戸時代、対馬藩の領地(飛び地)だった。対馬藩(宗家)は八坂神社の西側、現在の田代小学校あたりに代官所(御屋舖)を設けて統治していた。建物などは現存しないが、鳥栖市教育委員会が設置した説明板によると代官所は長崎街道に沿って南面し、その敷地は表間口四八間、奥行きは東八二間、西七七間、裏六八間だったという。(2) 元治元年(一八六四)十一月、晋作は何度目かになる田代宿を訪れた。 同年七月、長州藩は京都で「禁門の変」に敗れ、朝敵の烙印を押された。勅を奉じた長州征伐軍が迫り、藩政府内では恭順謝罪を唱える「俗論派」が台頭したため、失脚した晋作は萩を脱して、下関から海路博多に逃れる。同行者は筑前浪士の中村円太(野唯人)と長府藩士大庭伝七だった。 博多に上陸し、ひとまず上鰮町の対馬藩御用商人石蔵屋卯兵衛宅に潜伏した晋作は、つづいて福岡藩の同志である伊丹真一郎・江上英之進・今中作兵衛らと、田代を目指す。 晋作は長州征伐に批判的な九州の福岡藩や佐賀藩などに働きかけ、尊攘派勢力の大同団結を画策していた。対馬藩宗家は長州藩毛利家の縁戚にあたり、以前から両藩の尊攘派は交流があった。 田代宿で晋作に応対したのは、対馬藩士平田大江である。場所はおそらく大江の住居でもあった、代官所であろう。 五十二歳になる大江は嘉永元年(一八五八)、田代代官を任ぜられ、この地に赴任して来た。対馬藩尊攘派のリーダー格として知られ、元治元年二月には君命で上京したが、途中、周防湯田で三條実美らに面会し、山口政事堂で時事を談じたりと、長州藩復権にも協力的だった。同年五月、京都で大江は加判役(家老職)、息子の主水は田代役に任ぜられている。もっとも、晋作が訪ねた頃、対馬藩でも内訌が起こっており、大江には長州藩のために動く余力が無かった。 諦めた晋作は博多方面へ戻るのだが、そのさい大江に託したと見られるのが、このたび碑に刻まれた佐賀藩主鍋島直正(閑叟)あての次の七言絶句である。「 六日田代駅  寄肥前閑叟侯 妖霧起雲雨暗濛 路頭揚柳舞東風 政如猛虎秦民怨 今日何人定漢中」 起・承・転句はひたすら暗い。妖霧が雲となり、雨が周囲を暗くして、未来が見えないと嘆く。世は幕府の言いなりであり、それは秦の始皇帝の暴政のようで、民は怨んでいるとも言う。そうした状況を正すことが出来るのは鍋島直正しかいないと、結句で強く訴えかける。 晋作からの依頼を受けた大江は十一月九日、表役(副代官)五十嵐昇作とともに佐賀城下まで赴くが、ほとんど門前払いのような扱いを受ける。佐賀藩は、長州がらみの揉め事に巻き込まれるのを恐れ、静観の姿勢を崩さなかった。晋作の詩も、直正には届かなかったのであろう。 そして大江も慶応元年(一八六五)五月、主水と共に決死隊六十余名を率いて対馬に帰るが、藩論が一変して同年十一月十一日、殺された。また、主水も父を追って対馬に渡ったが、十一月十二日に切腹を命じられ「二十あまり八歳の冬の今日迄も 君のた御為と思いつつ死す」の一首を残し果てた。(3) 晋作が田代を訪れた日については、諸説ある。『甲子残稿』の一部と見られる晋作自筆の詩稿(このたび碑に刻んだ)では、題部分が「六日」になっている。これを信じるなら、元治元年十一月六日ということになる。 だが、十一月九日、福岡藩の今中作兵衛が同藩の月形洗蔵にあてた手紙には「然るに谷・白(晋作=谷梅之助・大庭伝七=白石逸平)ここ元(田代)へ参り掛け、宰府(太宰府)へ立ち寄り候につき相待ち居り申し候ところ、漸く昨日着」云々とあり、こちらを信じるなら、晋作の田代着は「八日」ということになる。 この点につき『鳥栖市誌・三』(平成二十年。宮武正登執筆部分)では「一旦、6日に両名が田代に到着してから…太宰府に出かけ、田代に戻って来たことは考えられる」との折衷案を示しながらも、今中あるいは晋作の勘違いなどの可能性も否定出来ないとする。あるいは「十日」に対馬藩の小宮謙礼以下七名が、太宰府で商人体に身をやつした晋作・大庭に会ったとする文献(賀嶋砥川『対馬志士』大正五年)もあり、決め手に欠ける。 確証があるわけでは無いが、『甲子残稿』の「六日」は晋作の単純な誤記ではないかと私は思う。他にもたとえば『甲子残稿』は下関の白石正一郎宅に入ったのを「十一月一日」とするが、『白石日記』には「十月二十九日」とある。あるいは下関を発つのが『甲子残稿』は「十一月二日」だが、『白石日記』では「十一月一日」になっている。 以前私は『甲子残稿』は晋作が後日整理したものと見ていたが、最近はほぼリアルタイムで書いたのではと考えている。晋作は時間に関しては大らかなところがあり、「履歴草稿」(『高杉晋作史料・三』)などは大胆にも年を間違えている箇所が複数見受けられるほどである。(4) 田代を去った晋作は福岡郊外の平尾山荘で野村望東の世話を受けた後、「存亡危急」の瀬戸際に立つ長州藩に帰ってゆく。もっともこの頃の晋作は、活動資金の不足に悩んでいた。 月形洗蔵は家蔵の『資治通鑑』を売却して得た若干の金を、福岡を発つ晋作に与えたという。あるいは、福岡藩の早川養敬(勇)は藩の用心金から百両を借用し、挙兵した晋作に与えたともいう(江島茂逸『高杉晋作伝入筑始末』明治二十六年)。 さらに、晋作の活動資金を田代代官所の公金から用立てていたことが、このたび鳥栖市立図書館で展示された代官の日記十二月六日の条に記録されている(『諸大名通路考鑑之部』)。「長州藩谷梅之介・野只人・里見次郎・佐々木太郎・加藤新太郎しめて五人、長州当時の形勢筋、列藩へ内々打ち合わせ、旅用金不足難渋の義申し出、金四拾両御手当下され候事」 里見は紀州脱藩、佐々木は長州藩士。長州藩が諸藩と交渉するため、四十両を与えたというのだ。手配したのは、平田大江であろう。すでに晋作は下関に帰っているから、使者が田代まで受け取りに来たらしい。 だが、いくら平田大江が家老とはいえ、晋作らに与える目的で堂々と公金を引き出せるものだろうか。この点につき同日の賄方(財務担当)の日記に、次のような記述がある(『御両役考鑑之部』)。「御国周旋方多田荘蔵金四拾両御手当下され候段、御家老中平田大江殿より御達しの事」 つまり大江は対馬藩の外交官である多田荘蔵へ活動費を与えるとの名目で、四十両を引き出したのだ。前者が「本音」、後者が「建前」であろう(このような史料が、まだまだ眠っているから楽しい)。 こうして福岡や対馬の同志の経済的援助を受けた晋作は十二月十五日、長州藩政府打倒を掲げて下関で挙兵。内戦のすえ勝利し、藩是は武備恭順の「待敵」となった。 本稿執筆にあたり鳥栖市教育委員会の久山高史・島孝寿両氏にご教示いただきました。あつくお礼申し上げます。              (『晋作ノート』44号、平成30年12月)

松村久さんを悼む

 明治の終わりから昭和初期にかけ、維新史に関する出版ラッシュが起こった。ようやく懐古趣味から解放された頃で、百年後のいまなお研究に不可欠とされる、優れた内容の名著が多い。 ところが、出版から数十年も経つと、ふたつの大きな問題が生じた。ひとつは紙や装丁の著しい劣化。もうひとつは現存数の少なさによる、古書価の高騰である。せっかくの名著は「稀覯本」と呼ばれ、簡単には読めなくなってしまった。 昭和五十年代初頭、マツノ書店の松村久さんが始めた「復刻」という仕事は、両方の問題を解決するものだった。松村さんの活動した時期と維新史の名著の老朽化は、見事なほど重なる。それは本の神様が、松村さんに与えた使命だったと思う。だれもまねできないから、素材は一地方史から維新史全般へと広がっていった。 『防長回天史』『吉田松陰全集』『木戸孝允日記』『児玉源太郎』『大久保利通伝』『維新土佐勤王史』『彰義隊戦史』『会津戊辰戦史』『戊辰庄内戦争録』『小栗上野介正伝』『旧幕府』等など、約300点の朽ちかけた名著を松村さんは甦らせ、新しい読者に届け続けた。これであと一世紀は、難無く読み継がれてゆくことだろう。 私が松村さんと初めてお会いしたのは平成元年(1989)夏のこと。当時、大学生の私は東京の出版社で歴史雑誌の編集に携わっていた。何度か松村さんに手紙を出したので、上京のついでに寄ってくれたのだった。 卒業後、私が山口県で維新史研究を始めるると、年に何度もお会いして本の話をした。山口県は特に維新史となると、研究者や郷土史家の足の引っ張り合いが凄まじい。そんな中で、私が30年近くも好きな研究を続けて来れたのは、松村さんが全面的に支援し、育ててくれたからだとつくづく思う。父とも師とも、慕った方であった。数十冊の復刻本に解説や推薦文を書かせてもらい、数点の著作を出版してもらったが、そのひとつ『久坂玄瑞史料』を棺に入れていただいたと知り、涙が落ちた。 好機心旺盛で、さまざまな人から分け隔てなく話を聞く姿勢は、生涯変わらなかった。内に秘めたる反骨精神は旺盛だったが、ふだんは温厚で飄々としていた。11年前、菊池寛賞を受けられたさいも、派手なパーティーなどせず、近所の中国料理店で高校の同級生がお祝いしてくれたと喜んでいたのが、松村さんらしくて印象に残る。名士然としたところは一切無く、政治や行政、学問の権威とも距離を保ち、名利を求めない生き方を貫かれた。 近年はデジタル化により、紙の本が消滅するとも言われるが、ちょっと想像出来ない。本の魅力とは、そんなに脆弱ではないはずだ。一世紀後、松村さんの復刻本が老朽化した時、また本の神様が、次の誰かにバトンを引き継がせるのだと、私は信じている。(『中国新聞』平成30年8月17日号)

高杉晋作と土佐浪士

(1) 高杉晋作は扇面への揮毫を好んだようで、私が確認している現存例だけでも十点を数える(『高杉晋作史料・二』『久坂玄瑞史料』に写真版掲載)。うち四点は、ここ二十年ほどの間に市場に出て来たもので、このままでは流出すると思い、個人で入手しておいた。そのひとつに、次のような二篇の五絶を書いたものがある。「蝉脱青雲志 占関赤水●(さんずいに尋) 午涼客探句 夜月妾携琴 若莫七賢徳 迺之六逸心 不言塵世事 黙坐対蒼岑 一張還一弛 已往事茫々 感古志空企 思今心自傷 肉姦似狼虎 外賊是豚羊 烽火四隣起 亦当発我狂  土州楠本君嘱録近製二首      穴門無頼生東狂」「蝉脱青雲志」に始まるひとつ目は、赤間関(下関・馬関)での生活を題材にしたもの。昼は客が来て句を探り、夜は琴を携えて妾が来る云々とある。後に晋作みずから編んだ詩歌集『捫蝨処草稿』では「井上世外に寄す」の題を付けているから、元は井上聞多(馨)に贈った詩のようだ。「一張還一弛」に始まるふたつ目は国内外、敵だらけの中で古人を思って志を固め、戦争になったら狂を発するといった決意を示す。『捫蝨処草稿』では「某の韻に次す」の題が付く。いずれも慶応元年(一八六五)前半の作と考えられる。 そして、晋作が右の二篇を揮毫して与えた「土州楠本」とは、土佐浪士「谷晋」の変名「楠本文吉安茂」のこと。文吉郎とする文献もある。 武市半平太(瑞山)の呼びかけにより文久元年(一八六一)に結成された土佐勤王党の血盟書にも、楠本の名が見える(瑞山会編『維新土佐勤王史』大正元年)。同三年八月十八日の政変で京都を追われた三条実美ら七卿の護衛者となった楠本は、長州藩に身を寄せた。「禁門の変」のさいは、みずから志願して長州軍に加わり上京している。(2) 慶応元年(一八六五)になり、三条ら五卿(ひとりが脱走、ひとりが病死)は九州太宰府へと移ったが、楠本もこれに従った。同年六月ころ、楠本は三条から何らかの任務を与えられ、京都に滞在している。 六月二十日、太宰府に帰るため京都を発つ楠本は、同郷の同志である坂本龍馬・中岡慎太郎から長州藩の桂小五郎あてのメッセージを託された。この後、下関に寄らなければ(おそらく二週間余り滞在)、楠本の名は幕末史上に記録されることは無かったかも知れない。 当時、朝敵の烙印を押されていた長州藩は、開港場への出入りが出来なかった。そのため軍備強化を考えたにもかかわらず、外国から武器を購入することが出来ず困窮していた。そこで桂は仇敵視していた薩摩藩の名義を使わせて欲しいと、龍馬らに斡旋を依頼する。楠本は、その進捗状況を桂に知らせる役を担ったのではないか。(3) 下関を訪れた楠本から情報を得た桂は手ごたえを感じたのか、長州藩政府に稟議せず、独断で井上聞多と伊藤俊輔(博文)を武器購入のため、長崎へ派遣することにした。半年後の、いわゆる薩長同盟締結への助走となってゆく一連の動きだが、従来の史書ではこの間の晋作の言動を、ほとんど伝えていない。最も詳しい中原邦平『井上伯伝』(明治四十年)などにも、この部分で晋作の名は見当たらない。 だが、晋作は四月から四国方面に亡命したものの、六月上旬には下関に戻っていたので、まったく関係無いとは考え難い。書かれている詩の作られた時期から見ても、先の詩書扇面は、下関滞在中の楠本に贈られたものだろう。この史料から、晋作は楠本にも会い、何らかの謀議に加わったと察せられる。 井上・伊藤は楠本とともに慶応元年七月十六日朝、下関を発ち、翌十七日夕方、まずは太宰府に到着した。やはり土佐浪士で三条に仕えていた土方楠左衛門(久元)の日記『回天実記』十七日の条には、次のようにある。「暮頃、谷晋(楠本)帰着、同人六月二十八日京師出足、浪華に於いて二日滞留、帰途長州に立ち寄り、昨朝馬関出足、今朝黒崎より帰り候由(中略)四つ時より大町松屋に行き、長藩伊藤俊助・井上聞多両人に面会、右両人は今日当地着にて種々談もこれ有り、九つ時頃帰着」 十八日、井上・伊藤は太宰府詰めの薩摩藩士に会い、長州人では長崎までの道中、支障があるため、薩摩藩士の名義を使わせて欲しいと頼み、許されている。つづいて十九日、井上・伊藤は三条らに拝謁後、太宰府を発つ。三条は、長崎まで二人に楠本を同行させることにした。 長崎到着は二十一日で、楠本は亀山社中の土佐浪士千屋虎之助らに井上・伊藤を引き合わせる。さらに話は、亀山社中から長崎出張中の薩摩藩重臣小松帯刀に通じてゆく。その結果、長州藩は薩摩藩名義で七千挺の小銃と蒸気船軍艦一隻を長崎のグラバー商会から購入することになり、軍備は一躍充実した。そして慶応二年一月の、薩長同盟締結となる。 この間、晋作は裏方に徹していたようだ。慶応元年十二月、薩摩側との会談を渋る桂(木戸寛治)を、君命を引き出して上京させた。あるいは、土佐浪士の坂本龍馬に下関で会ったりした。そのさい、晋作は龍馬にピストルと「識者謀航海」に始まる五言絶句を揮毫した扇面を贈ったようである。この扇面は龍馬が下関での寓居としていた本陣伊藤家の末裔方(東京在住)に伝わっており、展覧会などで時々お見かけする。 晋作は慶応三年四月十三日、下関で病没したが、その訃報を二十一日、太宰府の三条のもとに届けたのが、「谷晋」こと楠本であった。土方は同日の日記に「惜しむべし、惜しむべし」と書く。 楠本がその後どのような人生を送ったのか、私には分からない。人名辞典などにも立項されていないようだし、土佐勤王党の生き残りで結成された瑞山会の名簿(『維新土佐勤王史』)にも、それらしい名は無い。ただ、本人が意識したか否かは分からないが、幕末史の大きなターニングポイントに立ち会っていた人物であることには違いない。晋作の詩書扇面が、それを裏付けている。(「晋作ノート」43号・平成30年8月)

古き長州人体現した作家

 歴史小説で知られた古川薫さんの作家人生は、今から半世紀前の「明治百年」の波の中で始まっている。ただし、長州(山口県)に根差して活動した古川が当初描いたのは、幕末長州史の光ではなく、どちらかと言えば影の部分だった。ほぼ同世代の司馬遼太郎が、坂本龍馬をはじめ英雄を主人公に据えた大作を次々と発表しているのとは対照的であった。 昭和四十年(一八六五)に地元同人誌に書いたデビュー作の短編『走狗』で、初めて直木賞候補になった。主人公の大楽源太郎は、新時代の波に乗れず、明治に入り暗殺された悲劇の人である。 続く『幕末長州の舞台裏』と『獅子の廊下』は、高杉晋作らとの藩内抗争で敗れて処刑された「俗論党」の椋梨藤太を描く。史料の大半が失われ、地元でも「悪役」扱いの椋梨を主人公にした、唯一の小説だろう。 他にも理不尽な切腹命令に抵抗する家老の福原越後や、女囚に恋する吉田松陰など、昭和四十年代から五十年代にかけて、郷土史の片隅から地味な素材を発掘し、作品化したものが多い。新聞記者出身のジャーナリスト魂が、明治維新に疑問を投げかけた。軍国少年として育った世代だけに、「国家」「権力」に対する不信感も強かったはずだ。 そうした前半期の古川さんの集大成が、昭和五十六年の『暗殺の森』である。明治天皇につながる公家の中山忠光を、長州藩がひそかに暗殺した事件の謎を、後世の新聞記者が権力側の圧力と戦いながら暴いてゆく歴史サスペンス。主人公の記者に、自身を投影させたことは想像に難くない。 私も多感な十代後半、こうした作品群を熱心に愛読した一人であり、強い影響を受けた。ところが、下関出身のオペラ歌手藤原義江を主人公にした『漂白者のアリア』で平成三年に直木賞を受賞した頃から、作風の変化が見られるようになる。それは、作家自身の生き方とも重なっていたようにも見える。 長州出身の創業者を持つ大学や大企業とコラボレーションした偉人伝など、栄達を遂げた長州人を主人公に据えた作品が増えていった。また、やはり長州出身の日露戦争の英雄・乃木希典に対して批判的だった司馬が平成八年に亡くなるや、『軍神』『斜陽に立つ』といったアンチテーゼ的作品も書いた。 それらは、同郷人としての身内びいきのようなものが感じられ、私などは共感出来なかった。批判的な視点が希薄になったのは、地元の政治家や行政との関係が深まったことにも関係するのだろうか。 晩年には、最新の歴史研究の成果を強く拒むような姿勢も見られた。「研究家と称する人々が、新資料をかざして、あれは違う、これはウソだと全否定し、語り育てられてきた歴史ロマンを突き崩しているのは、いかがなものか」。ネット上で目にした古川さんの言葉は、『走狗』や『暗殺の森』を愛読してきた私には、残念に感じられた(実は私も久坂玄瑞の史料集を編纂している最中、ある新聞上で同様の非難をされた)。 自身が描いて来た世界こそが「長州史」でり、それ以外は認めないという境地に陥ってしまったのではないか。良い意味でも悪い意味でも、古き時代の長州人を象徴するような作家であった。(『中国新聞』平成30年5月8日号)

晋作、筑前からの手紙

(1) 近日マツノ書店から出版予定の『久坂玄瑞史料』には既刊『高杉晋作史料』(平成十四年)・『吉田年麻呂史料』(平成二十四年)の「補遺」も収めている。この種の史料集は出版後に新たな史料が出て来るのは宿命のようなもので、こうした形で補わせていただいた。 初めて活字化される史料のひとつに元治元年(一八六四)十一月十四日、高杉百合三郎あての晋作書簡がある。百合三郎はのちの南貞助で、この頃高杉家の養子になっていた。高杉小忠太の妹マサが、藩士南杢之助に嫁ぎ生んだ子である。晋作からすると実の従弟であり、義弟ということになる。 書簡の初めの方で晋作が「拙兄は旧に依り碌々偸生(とうせい)候間、御一笑下さるべく候」と言うが、同月はじめより二十五日頃まで、九州筑前に亡命していた。同年七月十九日、「禁門の変」で敗れた長州藩は「朝敵」の烙印を押され、長州征伐軍が迫っていた。長州藩は恭順謝罪すると決め、晋作は危険を察して、逃げたと言われる。 これは晋作が亡命先から長州の義弟に宛てた、「密書」なのである。「偸生」とは、無駄に生きながらえているとの意味。つづいて「脱走」につき、次のように弁明する。「さて、脱走の儀は、邦家の危難輔助奉りたく存じ候ても、幽囚致され候ては、とても尽力の目程これ無く候につき、やむを得ず無情の一処置つかまつり候」 晋作は主家のために働きたいのだが、幽囚されたら動けないので、「やむを得ず」脱走したと言う。しかも幽囚は「決して真の君意」ではなく、「天地神明に誓って」奉じなくてもよい命だと判断した。(2) つづいて晋作は、近況を少しだけ知らせている。「此の節は筑藩に潜居、天地の周旋致しおり候。いずれ一死地を得たく、望みおり候」 脱走前、百合三郎に「大小」や「武品」といった刀剣武具の調達を依頼したようで、それらを長府の大庭伝七(長府藩士。白石正一郎の実弟)のもとに届けておくよう、指示している。 この後、十一月二十五日に晋作は下関に帰り、十二月十五日に新地の藩会所を襲撃して内戦を起こす(下関挙兵)。その際身につけていた復古調の小具足や烏帽子型の甲は、百合三郎がどこかで手に入れて来たものかも知れない。 父母のことも忘れていないので、そのうち書簡をひそかに出すと言う。また、妻マサには、同年十月五日に生まれたばかりの長男梅之進(のち東一)を「勤王の士」に育てて欲しいとか、「拙事は決して思うてくれるな」といった伝言を頼む。 これを読むと晋作は、他の家族には知らせず、百合三郎にのみ手紙を出していたようだ。しかも、「拙ここ元滞留の儀は、内輪えも御明かし下さるまじく、ただ、どこともなしに一筆届き候と御噂下さるべく候」と、口止めをしている。 追伸では「何卒勤王の為、御亡命、御尽力有りたく祈り奉り候。一身一御国の利禄にかかわり候ては相済まぬ時節なり」としめくくり、「負親去国回天誠 必竟斯心莫世知 自古人間蓋棺定 豈得口舌防嘲識」という五絶を添える。署名は「変名 谷梅之助拝」となっている。(3) この晋作書簡は、奈良県天理市の天理大学附属図書館の所蔵である。六年前、史料収集のため訪れた同館で、初めて閲覧させていただいた。筆跡は晋作のクセが良く出ており、疑う余地はないと思う。 現状は元治元年六月一日、久坂義助(玄瑞)が京都から藩政府に宛てた書簡と巻子に合装されている。また、大正十年十一月、伊木寿一による奥書が付く。伊木は山口県出身の歴史家で、特に古文書学の大家として知られたが、妻は晋作の孫暢子(大正二年病没)だった。 伊木は奥書で晋作が筑前に亡命し、野村望東の平尾山荘に潜伏した経緯などを簡潔に述べた後「然レバ本書ハ山荘潜伏中ノモノナルヲ知ルベシ。コノ間ノ書牘ハ未ダ他ニ現存スルアルヲ聞カズ」云々とする。十一月十日から二十日までの間、滞在したとされる平尾山荘でしたためられた書簡なのだろう。 九州の亡命先から発した晋作の書簡は従来一通も確認されておらず、その点でまず貴重である。伊木も編纂に関わった『東行先生遺文』(大正五年)の出版後に見出されたのであろう。(4) 岩国市立博物館「岩国徴古館」に晋作の斬首が検討されていたことを示す文書が所蔵されていたとの記事が、『読売新聞』平成三十年一月二十一日号に掲載された。 記事によると、史料は二点あるという。 ひとつは長州藩重臣志道安房が元治元年十一月九日、征長軍の広島本営に交渉に向かう途中、岩国に立ち寄った際の「手控」で、藩の処分案「切腹の部」に「清水清太郎・毛利登人・前田孫右衛門・大和国之助」に続き、「高杉和助(晋作)」の名がある。 もう一点は晋作ら急進派七名の姓名が列記された「斬首状写」で、「姦吏と徒党を結び、上を欺き、下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、「斬首仰せ付けられ候事」とする。さらに「出奔し、行方知れず」との貼り紙も付くという。 いずれにせよ、藩政府の中で晋作の「切腹」または「斬首」が検討されていたことがうかがえる。そんな話は、既刊の晋作伝記などには見えない。だから、特筆すべき史実ではある。 実は同記事を書いた小山田記者から昨年秋以来、何度も連絡をいただき、当該史料につき意見を求められた。 だが、晋作の「斬首」「切腹」が現実的に、どの段階まで進んでかたかがはっきりしない限り、評価するのは難しい史料だと思った。刑は執行直前だったのか、ひとつの案だったのか。「京都進発」「禁門の変」に限れば、晋作は「斬首」「切腹」に匹敵するような罪を犯しているとは思えない。本来「法」で裁かれるはずだから、取り調べが行われ、罪状が決まるはずだ。だが、晋作の裁判が行われた形跡はない。 気になるのは「斬首状写」にある「不義不忠の至り」の一節である。権力側が問答無用で個人を殺そうとする場合、こういう抽象的な罪状が一方的に使われる例が、特に幕末には見られる(例えば慶応二年一月のもと奇兵隊総督赤禰武人の斬首)。 ただ、生命まで奪われるという危機感を、晋作が抱いていたかは怪しい。先に見た筑前からの手紙によれば、晋作自身は「斬首」「切腹」に処されるとは思っていない。「幽囚」されては活動出来ないから、逃げると言っている。 結局「斬首」「切腹」という刺激的な単語がウリのセンセーショナルな史料として、新聞紙上で紹介された。しかし、問題は何も解決していないと思う。繰り返すが、まずは晋作の「斬首」「切腹」が、どの段階まで進んでいたのかを示す史料の発掘が待たれるのだ。(「晋作ノート」42号、平成30年3月)

『甲子残稿』の半丁

(1) 『甲子残稿』は高杉家に伝わった、高杉晋作自筆の詩歌草稿のひとつである。元治元年(一八六四)八月四日、家居謹慎のまま藩命により山口に呼び出され、やがて馬関から海路、九州筑前にめざして出発するまでの間に作ったとされる詩十一篇、発句二首が日記風につづられている。 サイズは縦十九・六、横十三センチ。罫芯に「塞淵斎」と刷られた罫紙を使用する。ただし、最後の部分は、「十一月二日、発馬関趣筑前、賦呈同行野唯人・大庭伝七」 と、詩の題らしきもので尻切れトンボで終わっている。この続きに、詩の本篇があったのだろう。 『甲子残稿』が初めて原本から翻刻されたのは、東行(晋作)五十年祭を記念して編まれた『東行先生遺文』(大正五年)である。その時からすでに「…大庭伝七」で終わっているから、少なくとも百年前から現状と同じだったことが分かる。 ただし私は、『高杉晋作史料』二巻(平成十四年)中で『甲子残稿』を翻刻したさい、「…大庭伝七」の後に(以下欠)の三文字を加えておいた。かつては、この続きもあったのだろうと推測したからだ。それは次のような理由による。 晋作は自作の詩歌に対し、愛着が深かった。後日『甲子残稿』を推敲して『放囚集』と『潜伏集』(いずれも『捫蝨処草稿』所収)の中に組み込んでいる。特に『潜伏集』を見ると、失われた『甲子残稿』後半部分がどのようなものだったのか、ある程度推測出来る。先の「十一月二日、発馬関」云々はやはり詩の題部分で、詩本篇が続く。さらに「船中、次野唯人韻」「筑前掩留中偶成」「四日、将到福岡」「六日、田代駅寄肥前閑叟侯」「帰馬関有此作」と題された五篇の詩があり、最後は三条実美ら五卿を引き留めようとする「死ヲ以ッテ をとめ申ヲスソ をとマリナサレ 長門国ニモ 武士モ有ル」の「俗曲」で終わる。(2) ところが数年前、失われたはずの『甲子残稿』の半丁分が出て来た。山口県から遠く離れた、関西の古美術商からである。使われている罫紙は、『甲子残稿』と同じもの。結論から言えば、『甲子残稿』最後の半丁に違いない。それは、次のような二篇の詩が書かれている。「  六日田代駅寄肥前閑叟侯妖霧起雲雨暗濠。路頭楊柳舞東風。政知猛虎秦民怨。今日何人定漢中。   帰赤馬関挙義兵売国囚君無不至。忠臣死義是斯辰。天祥高節成功略。欲学二人作一人。」 罫芯部分は切られており、「塞淵斎」の三文字は見れない。ただ、旧蔵者による次のような古い貼紙があり、この間の事情を知ることが出来る。「長門人高杉晋作真牘 前半小倉人南護儲蔵具折半、欄内楷書刻塞淵斎三字仍欄外捺南氏与予為后證」 つまり、『甲子残稿』の一丁を手に入れた旧蔵者は「小倉人南護」なる者と、これを切断し半丁ずつ所有することにした。「…大庭伝七」から先の詩などが書かれていたと思われる前半は南、後半は旧蔵者。「塞淵斎」と印刷された罫芯部分は、南が持ったことも分かる。この二人はよほど慎重だったようで、半丁ずつ切り分けたさい、それぞれ印を捺き、割印としたという。 書かれている二篇の詩のうち、ひとつ目は晋作が田代(現在の佐賀県鳥栖市)から佐賀藩主鍋島閑叟に贈ったものだ(届いたかは不詳)。晋作は佐賀藩が四面楚歌の長州藩に味方してくれると期待し、決起を促したのだが、上手くゆかなかった。 ふたつ目は晋作が馬関(赤間関)に帰り、挙兵による藩の政権奪取を決意したさいの詩だ。中国の忠臣である天祥の高節と成功の略を学び、二人を足して二で割ったような男になりたいとある。現在、この詩を刻む石碑が、下関市日和山公園の晋作像の傍らに建つ。(3) これまで『甲子残稿』は現状から、馬関を発つまでの詩歌を集めたものと説明されていた。だが、この半丁の紙片が見つかったことで、馬関を発ち、九州筑前に入って奔走し、さらに馬関に帰って来るまでの詩歌集だったことがうかがえる。 近年、晋作の故郷山口県では「歴史」は「ロマン」だとし、それを「史料」によって傷つける奴は県民の敵だ、攻撃せよといった、信じ難いくらい馬鹿馬鹿しい理屈がまかり通っているらしい(大分迷惑を被った)。 だが、私に言わせれば失われたはずの紙片が、百数十年の時空を越えて出現することこそ「ロマン」である。「小倉人南護」が持っていた半丁はいまなお、どこかに存在するのだろうか。私の中で、さらなる「ロマン」は続く。 最後に今回の史料の行方についてだが、流出しそうなので個人で購入しておいた。吉田松陰は、「今吾が骨は未だ何れの所に暴露するのか知らず、しかれども公先づ吾が文を録存せば、吾れ道路に死すと雖も可なり(自分はどこで死ぬか分からないが、書いたものが保存されるのなら、たとえ道端で死んでも構わぬ)」「遺著を公にして不朽ならしむるは、万行の仏事に優る(著作を出版して残してくれる方が、一万回坊さんに経を読んでもらうよりもいい)」 とか述べている。そのことが、いつも私の心にひっかかる。なんとか賞作家により創られた「ロマン」ではない。遺墨には、若くして死なねばならなかった、かれらの本当の思いが籠もっているはずなのだ。(『晋作ノート』39号、平成29年3月)

子煩悩な高杉晋作

晋作の詩書 市場で売買される「高杉晋作遺墨」の九九パーセント以上は、贋作だ。真筆には一、二年に一度お目にかかれれば良いくらい。それが晋作百五十年祭の今年は、私の知る範囲でも、すでに三点も真筆が出て来ている。このままでは流出しかねないので、いずれも個人で購入しておいた。私は晋作百年祭の昭和四十一年(一九六六)に生まれ、今年満五十歳の誕生日を迎えようとしている。そんな節目の年、この豊作には不思議な縁を感じてしまう。 直近で手に入れたのは、名古屋の古美術商が持って来てくれた詩書の軸だ。本紙はおよそ縦一九、横一五・三センチと小品である。署名は無く、あるいは帳を崩したものかも知れない。 筆跡は、晋作の癖が実に良く出ている。右肩に捺された関房印は高杉家に伝来した晋作の遺品中に実物があり、他の確かな遺墨(たとえば国会図書館憲政資料室蔵石田英吉文書中の晋作詩書)でもお馴染みのものだ。そして何よりも、詩の内容が泣かせる。「待童欲慰我愁思 携得桜花々一枝 好挿小瓶相対座 忘他疾病在膚肌」 この五言絶句は晋作の詩稿「捫蝨集」(『高杉晋作史料・二』平成十四年)にも、「病中作」として出て来る。場所は下関で、慶応二年(一八六六)の四作目の詩である。 子供が自分を慰めようと、桜花を一枝携えて来てくれた。それを小瓶に差して対座していると、病気のことを忘れてしまいそうだ、との意味であろう。 では、晋作に桜花を届けた子供とは誰か。本来「侍童」とは貴人の側で仕え、身の回りの世話をする子供のことだが、必ずしも額面どおりではないだろう。実はこの年二月二十三日、数えで三つになる晋作長男の梅之進(のち東一)が、母や祖母たちとともに萩から下関に出て来ている。旧暦だから桜の季節だ。晋作に桜花を届けたのは、よちよち歩きの梅坊(晋作はそう呼んだ)ではないか。 ほんの一瞬の、父と息子の交流だ。一年後、晋作はこの幼子を残し、亡くなった。そう考えて対峙すると、なんだか切なくなる遺墨である。マサの回顧談 晋作の五十年祭にさいし、「朝日新聞」大正五年五月九日号に妻マサは回顧談を発表しているが、その中に次の一節がある。「至って子煩悩で、三つや四つの子供であったが、『偉くなれ、偉くなれ、国の為に尽くすようになれ』 と、申しておりました」 晩年の晋作は下関で起居していたから、萩で育つひとり息子の梅之進と一緒に過ごす時間は、ほとんど無かった。 先述のように慶応二年二月二十三日、数えで三つになる梅之進は母たちに連れられ、下関に晋作を訪ねている。しかし、もろもろの事情から晋作は約ひと月後の三月二十二日、妻子を下関に置き去りにしたまま、海路長崎へと旅立つ。右のマサの回顧談は、この間のことかも知れない。 長崎に到着した晋作は、妻マサに下関での非礼を詫びる長い手紙を書いているが、その中で梅之進のことにつき、「なおまた梅坊事は、御父さまに似候よう御育て下され候よう」云々と頼む。自分ではなく、謹厳実直な父の小忠太(丹治)に似るように育てて欲しいというのが、面白い。 また、その年の十二月二十四日、晋作が下関の病床から萩の父にあてた手紙には、「梅坊も日を追って成長、言語等も相わかり候の由、さぞさぞ御胆焼きの事と愚察致し居り候。此の一事私儀大不幸(不孝)中の一幸(孝)、是れ又、御先霊神明の御影と、かねがね落涙罷り在り候」 とある。父の意に背き、危険な政治運動に身を投じた晋作は、一人息子だったこともあり、死ぬまで後ろめたさを感じていた。それでも子孫を残すことが出来た、ご先祖のお陰であると、涙を流しているのである。届かなかった短刀 梅之進が生まれたのは、元治元年(一八六四)十月五日だ。十一月、晋作は九州筑前に亡命し、十二月には「俗論党」打倒を掲げて下関で挙兵し、内戦のすえ藩政府の主導権を奪う。ここで大胆な行動に打って出たのは、梅之進誕生により、自分が死んでも血筋は残るとの安心感を抱いたからではないか。 挙兵前、晋作は五卿西遷の問題で下関に来ていた福岡藩士月形洗蔵・早川養敬(勇)と酒を酌み交わした。そのさい晋作は生まれたばかりのわが子のことを、次のように語ったという。「僕と月形君とはその性質能く似たり。抗直にして長く此の世に生存すべき者にあらず。ただ早川君は温厚にして能く寿命を保全し、必ず僕等よりも後に生き残られるなるべし。僕に一人の子あり。この子幸い俗論党の為めに殺されずして生長し、僕が中途に斃るるに至らば、早川君今日の交誼を以てこれを視られよ」(江島茂逸『高杉晋作伝 入筑始末』明治二十六年) 月形は翌慶応元年(一八六五)十月、福岡藩の弾圧に連座して処刑された。晋作も同三年四月、病没した。生き残った早川は維新後、奈良府判事を務めていたさい、晋作との約束を思い出し、短刀二柄を装飾して、ふたりの遺児に贈ろうと考える。それは月形の遺児へは届いたが、晋作の遺児へは従僕の藤次郎が途中、大阪で売却してしまったので届かなかったらしい(この逸話は早川から直接取材して書かれた文献に出て来るから、信憑性が高い)。以後、早川は司法権大丞・元老院大書記官などを歴任し、明治三十二年(一八九九)に他界した。晋作と少女たち 晋作は「子煩悩」というか、少女好きだったようだ。小さな女の子は、同年配の男の子よりも「おませさん」が多く、それが微笑ましくて相手をしていると退屈しないものである。そのことをうかがわせる逸話を、いくつか紹介しておこう。 晋作には三人の妹がいたが、十数歳離れた末妹のミツを、最も可愛がったようだ。文久三年(一八六三)四月、妻を連れて萩の松本村に隠棲した晋作は、城下菊屋横町の自宅からミツ(年齢は十歳ほど)を連れて帰ることがあった。坊主頭の晋作は、頬被りに落とし差し(刀の差し方)で、妹の寝巻が入った風呂敷包みを首に掛け、少女の手を引いて寂しい夜道を、歌いながら歩いたという。そして家の戸を叩き、妻を呼んで「ソラお友達を連れて来た」と言った。あるいは自宅ではミツとお弾きをしたり、ミツとマサと川の字になって籐の寝台に寝転んで、戯れたという(横山健堂『高杉晋作』大正五年。その後ミツは高杉家を継ぎ大正元年まで生きたが、回顧談を残していないのが残念である)。 九州筑前に亡命したさい、野村望東の平尾山荘で晋作の身の回りの世話をしてくれたのは、吉井清子という十四歳の少女だった。清子は皇学者の娘で、のち山路重種の妻となった人。ある時、晋作は清子に「阿嬢も大和心を持てるや」と問うたところ、清子は「我もまた同じ御国に生れ来て大和心のあらざらめやば」と歌で返事したので、感心したという(『高杉晋作伝 入筑始末』)。 朝日新聞下関支局の記者が、地元に伝わる昔話を拾い集めた『馬関太平記』(昭和三十年)という本がある。その中に、下関の山形屋という魚屋の五、六歳の娘カネを、晋作が可愛がったという話が出て来るが、それは次のような不幸な結末で終わる。「ある日のこと、飄然としてあらわれた晋作は山形屋の娘が店の表で遊んでいるのを見るなり、やにわに両手をひろげて抱きかかえた。 ところが、どおしたはずみか晋作の刀の柄がその娘の右の目を突いた。それがおこりで可愛いさかりの山形屋の娘は遂に半眼を失ってしまった。その娘の名はカネといい、私の友人である山形吉蔵の祖母にあたる」 少女を失明させてしまった晋作は、大いに悔いていたとの話を、他の何かで読んだ記憶がある。この逸話のせいでカネさんは、かつて下関では、ちょっとした有名人だったようだ。 (『晋作ノート』38号・平成28年11月)

晋作が描いた関門海峡

(1) 高杉晋作の画賛扇面(以下、扇面と略称)が市場に出て来た。扇面の一面に水墨画が描かれ、賛として七言絶句が添えられている。私もずいぶんと晋作の遺墨を見て来たが、あまり他に類を見ない面白い史料だと思い、個人で購入することにした(最近、市場には晋作の貴重な史料が続けざまに出て来る)。 晋作の「自画自賛」なるものは、骨董市場などでたまに見かけることがある。だが、それらは明治以降、晋作人気に当て込んで作られた贋作である場合が、ほとんどだ。 晋作の遺墨は、たとえ写真図版でも近年まで公開される機会に乏しかった。だから贋作を作るにしても、限られた「お手本」しか無かった。贋作の大部分は、数少ない「お手本」をいろいろとアレンジしたものか、あるいは好き勝手に書いたものかのいずれかであることが多い。この点、早くから遺墨集などが何種も出版され、ひじょうに贋作が作られ易い環境にあった西郷隆盛や吉田松陰の筆跡とは違う。 今回紹介する晋作の画賛扇面には、次の七言絶句が小さな文字で書かれている。「此是奇兵古 戦,砲台々上 草茫々同人 埋骨知何処 觸岸波声 訴恨長 場  潜狂生題」 読み下すと、「此は是れ奇兵の古戦場。砲台々上草茫々たり。同人骨を埋む知ん何れの処ぞ。岸に觸るる波声恨を訴えて長し」(『高杉晋作全集・下』昭和四十九年)となる。一連目の「場」の一文字を書き忘れたので、「戦」の下に点を付けて、最後に加えているのも、リアリティがある。 この七言絶句は、作られた時期がはっきりしている。晋作自筆の詩歌草稿「捫蝨処草稿」(『高杉晋作史料・二』平成十四年)の中に、「乙丑(慶応元年・一八六五)七月十七日、馬関を発し吉田駅へ趣むく途上、壇浦・前田両砲台を過ぎ感有り」 という題のもとに、書かれているのだ。この日、晋作は馬関(下関)から奇兵隊陣営のある吉田村に向かった。途中、前年八月に奇兵隊が四カ国連合艦隊と死闘を繰り広げた、壇ノ浦と前田の砲台を通過する。そのさい作った詩なのだ。峯間鹿水『高杉東行詩文集』(大正七年)には、この七言絶句の総解として次のようにある。「こゝは奇兵隊の古戦場である。砲台の上に草が茫々と茂つてゐる。奇兵隊の連中が骨を埋めたのは何の辺か知らん。岸に打ち寄する波の音は、恨を訴ふるものゝ如くである」 それは、どんな戦いだったのか。たとえば、奇兵隊士金子文輔の日記「馬関攘夷従軍筆記」には、四カ国連合艦隊との凄まじい戦いの様子が、生々しく記録されている。壇ノ浦砲台を死守する隊士に敵の砲弾が命中して、その遺骸がばらばらになったとか、「前田砲台は尤も多数の弾丸を被り弾丸又尽きんとすと」などとある。 ただし、晋作は四カ国相手の戦闘には直接参加していない。戦後処理である講和談判で活躍したことは周知のとおりだ。無論直後の戦場は目撃しただろうし、戦いにかんする様々な情報は耳にしていたであろう。 そして、この戦いにおける苦い経験を経て、長州藩は排他的な攘夷論にピリオドを打ち、新たなる開国への道を模索してゆく。一方、西洋列強も長州藩の凄まじいエネルギーを評価。この詩には、そこに至るまでに生命を散らせた者たちに対する、追悼の意が込められているのだ。(2) 扇面に書かれた七言絶句の筆跡は、どの文字をとってもこの時期の晋作の筆跡の特徴が出ていて、それは気持ち良いくらいである。だが、もし「お手本」があったとしたら、それを上手に写しとった贋作かも知れない。あまりにも出来過ぎた史料には、さらなる注意が必要だ。 管見の範囲では、この七言絶句の晋作直筆は「捫蝨処草稿」に書きとめられたものの他に、長府藩の興膳五六郎に書き与えたもの(個人蔵)が一点あるのみだ。活字では『東行遺稿』(明治二十年)などに収録され、古くから知られていた詩だが、晋作直筆の図版が書籍などに掲載されたのは、近年のことである。 いずれも私が自著の中で、図版で紹介した。草稿の方は『高杉晋作漢詩改作の謎』(平成七年)に、興膳に与えた方は『高杉晋作史料・二』に、それぞれ出ている。 平成七年以前はこの詩の直筆を、図版で見る機会は一般には無かったと言っていい。つまり贋作を作るにも、「お手本」がなかったのだ。この点だけ見ても、今回の扇面の信憑性は高い。 (3) 詩の後の款記が「潜狂生題」となっているのも、興味深い。言うまでもなく「潜」は、晋作の別名「谷潜蔵」から来ている。 幕府からマークされていた晋作が、「谷潜蔵」と改名するのは慶応元年九月二十九日のことだ。それは藩命で行われた、正式なものである。よって扇面も慶応元年七月十七日に作った七言絶句を、改名の沙汰が出た九月二十九日以降に揮毫したものと考えられる。 ただ、似たような款記の現存例は、あまり多くない。『高杉晋作史料・二』に紹介した次の二点くらいしか、私は知らない。 ひとつは坂本龍馬に与えた「詩書扇面」(個人蔵)で「辱知生潜拝生」とある。 いまひとつは、児島高徳の言を揮毫した偏額書(周南市美術博物館蔵)で、「潜狂生謹録」とある。 宮地佐一郎編『坂本龍馬全集・3版』(昭和六十三年)では龍馬に与えた扇面を紹介し、款記を「辱知生澗拝草」と読んでいる。そして「澗」につき「澗は谷と同義で、谷梅之助即ち高杉晋作である」と説明する。事実とすれば他に類を見ない款記だ。晋作はこのころ谷姓を名乗っているから、あり得ない話ではないと思う。 しかし、龍馬に与えた扇面の実物を間近で見たさい、私は「澗」ではなくて「潜」と読んだ方が、よいのではと思った。児島高徳の言を揮毫した偏額書も、同様。だから『高杉晋作史料・二』にこの二点を掲載したさいは、いずれも「潜」と翻刻しておいた。 このことは、たとえば慶応元年十月二十一日・同年十一月二日の木戸寛治(孝允)あて晋作書簡(いずれも宮内庁書陵部所蔵「木戸家文書」)の署名部分の筆跡「潜」の字と比較しても、「澗」ではなく「潜」と読むのが妥当であることが分かる。だから今回出て来た扇面は、管見の範囲では三点目の「潜」と款記した揮毫ということになる。(4) 最後に、絵の部分について触れておく。 晋作が描いたと云われる絵で、確かなものは極めて少ない。この扇面も絵部分を、晋作が描いたのかについては、確証がない。比べる他の例が、殆ど無いのである。ただ、絵の方には別の署名もないから、詩とともに晋作が描いたと考えるのが自然ではある。 では、「アーティスト晋作」は何を描きたかったのだろうか。画題は当然、七言絶句の内容と関係するものだろう。下関の海岸線が真ん中あたり、下方は草が茂る砲台跡、上方の空白は海(関門海峡)を表しているようだ。手際よく描いたようだが、あまり巧い絵にも見えない。 現状は広げられて台紙に貼られ、軸装されているが、本来は扇だから、骨が入り、折り畳みが出来るようになっていたはずだ。「アーティスト晋作」が揮毫した時の、山あり谷ありの状態にすれば、もう少し絵が理解出来るかも知れない。そこで写真に撮ったものを折り、本来の状態の再現をこころみる。 だが、しかし…雰囲気は若干変わったものの、やはり何となく理解し難い絵ではある。果たして「アーティスト晋作」の画力は、いかが。この点については、今後の課題としたい。  (「晋作ノート」37号、平成28年7月)

高杉晋作と五代友厚

一、「横」の繋がり「幕末の志士」と呼ばれる人々は江戸や京都に集まり、藩や身分階級を超越して「横議」「横行」「横結」といった結び付きを強め、それが「維新」へと発展したとされる。いつの時代も、「お山の大将」「井の中の蛙」から歴史を動かすエネルギーなど、生まれて来るはずがない。長州萩に生まれ育った高杉晋作もまた、「外の世界」を見ることで大きく飛躍した若者であった。江戸で世子小姓役を務めていた晋作に、情勢視察の目的で清朝中国の上海に渡航せよとの沙汰が出たのは文久二年(一八六二)一月のことだ。幕府が出貿易視察のために上海に送り込む一団に、幕臣犬塚某の従者という身分で従うのである。身分を変えるのは一大名の家臣では、海外渡航の資格が無かったからだ。晋作はひとまず、長崎へと向かった。幕府が上海行きのためイギリス商人から購入した千歳丸は、三本マストの木造帆船。これに日本側からは水夫も含めて五十一人が乗り込んだ。他に操船のため、イギリス人十三人と貿易仕法の指導者としてオランダ人一人が同行する。晋作のような、幕臣の従者となって参加した諸藩士などは十二人を数えた。その年四月二十九日、千歳丸で長崎を発った一行は約二カ月の上海滞在を終え、七月十四日、長崎に帰着している。この時から二十年前、「アヘン戦争」でイギリスに敗れた清朝中国は、「南京条約」を締結させられた。それによって上海など五港が開かれ、開港場にはイギリスの領事館が設けられる。中国の貿易の主導権は、イギリスに奪われ、なかば植民地のような状況になってゆく。さらにアメリカやフランスも中国と通商条約を締結して、上海などに進出して来た。旅行中、晋作は幕府役人に対し不満を抱いていた。かれらはホテルの部屋が狭いと文句を言ったり、出張手当がいくら貰えるかなどと語り合っていたらしい。晋作は西洋列強の実力を目の当たりにし、危機感を高めていたから、そんな低俗な役人たちに腹を立てていたのだ。一行の中で晋作が人物として認め、特に親しく交わったのが、佐賀藩士の中牟田倉之助と薩摩藩士の五代才助(友厚)である。中牟田は晋作と同じく幕臣の従者という立場だったから、上陸して同じホテルに泊まり、共に上海市街を歩きまわることが出来た。英語が堪能な中牟田は英字新聞を訳し、漢文が得意な晋作は中国人との筆談に実力を発揮するなど、お互いを補い合って情報を収集している。一方、五代は港に碇泊中の千歳丸から、原則として離れられない。薩摩藩から上海渡航の許しを得た時、すでに幕臣の従者という枠が埋まっていたため、「水夫」として参加したからだ。だから晋作は五代を千歳丸に訪ね、いろいろと話し合った。いささか不便な「横議」「横行」「横結」であったが、それは晋作の人生にとり、大きな意味を持つ時間となったようだ。二、五代との出会い五代才助は天保六年(一八三五)生まれだから、同十年生まれの晋作よりは四ツ年長だ(文久二年当時で五代は二十八、晋作は二十四)。十三歳の時、世界地図を模写して藩主島津斉彬に献じたとか、直径六〇センチの地球儀を自作したといったエピソードがある。安政四年(一八五七)に選ばれて長崎の幕府海軍伝習所へ遊学し、オランダ士官から指導を受けた。また、文久二年(一八六二)一月、英国商人グラバーと共にひそかに上海に渡り、蒸気船一隻を購入し、翌月には薩摩に回着している。このように、すでに上海渡航の経験もある五代は、当時としてはずば抜けた国際感覚の持ち主だったことは想像に難くない。晋作と五代が初めて話したのは、文久二年五月三日のこと。場所は長崎から上海に向かう、千歳丸の中だ。その日の晋作の「航海日録」(『遊清五録』所収)には、次のような記述がある(以下、原則として現代訳。拙著『高杉晋作の「革命日記」』〈平成二十二年〉など参照)。「この日、はじめて同船の才助という水夫と話す。才助は実は薩摩藩の五代才助である。姿を変えて水夫となり、この船に潜り込んだという。先日、才助が長崎の宿に僕を訪ねて来てくれた時、病のため話せなかった。一見して旧知の友のように、肝胆を吐露して大いに志を語り合い、得るものがあった」もう、のっけから手放しの絶賛である。実は晋作も数年前の安政六年(一八五九)八月二十三日、盟友の久坂玄瑞にあてた手紙の中で「大軍艦に乗り込み、五大洲を互易するより外なし」とし、「軍艦の乗り方、天文地理の術」を学びたいと述べていたほどだから、五代の話に共感したのも頷ける。つづいて同日の晋作日記には五代が、「私はさきに主君に従い、大坂に行った。大坂のあたりでは、浪人狂士が何やら騒動を起こそうとしている」と、不安をかき立てることを言ったとある。これは薩摩藩国父の島津久光が一千の兵を率いて上洛するさい、攘夷激派が挙兵討幕を企んだことを指す。実は久坂玄瑞など松下村塾グループも、この計画に参加していた。四月二十三日、伏見でいわゆる「寺田屋騒動」が勃発し、薩摩藩士有馬新七ら犠牲者を出して挙兵計画は頓挫するのだが、その知らせはまだ、上海に向かう晋作や五代のもとには届いていない。三、上海での交遊上海到着から十日あまり経った晋作の日記「上海淹留日録」(『遊清五録』所収)の文久二年(一八六二)五月十六日の条には「この日、僕は外出して千歳丸に行き、五代才助と話をして帰館する」、翌十七日の条には「中牟田・五代と川蒸気に行き、諸器械を見る。船はイギリス人の所有」などとあり、時々は行動を共にしていたことが分かる。同月二十三日の条には、「五代とともにイギリス人ミユルヘットを訪ねる。ミユルヘットは耶蘇教の宣教師だ。耶蘇教を上海の人々に布教してまわっている」などとある。晋作はキリスト教に対して強い不信感を抱いており、ミユルヘット(ウィリアム・ミュアヘッド)のことも信用していない様子だ。この日会ったミユルヘットは、『大英国志』の著者であった。同書は日本にも輸入され、長州藩の「温知社」からも上梓されており、晋作も読んでいた。そのことに、晋作が気づいていた様子はない。六月七日には衝撃的な知らせが届く。「千歳丸に五代を訪ねる。五代が言った。『日本からの手紙が届いた。それによると、京摂の間で少し変事があったという。長州藩もまこれに関わっているらしい』僕はこれを聞いて少し驚いた。五代は、『事は決し、すでに鎮まったようである。あなたは心配しなくてもいい』とも言ってくれた。それでも僕の魂は飛び、心は走る。しばらく慨然としていた」これが先述の「寺田屋騒動」のニュースだったことは、ほぼ間違いない。衝撃を受けた晋作はオランダ商館に赴き、ピストルと地図を購入した。以後、『遊清五録』に収められた日記の断片のようなものによると、六月十八日の条に「朝、五代来談」と見える。あるいは上海を離れる直前の七月二日の条には「朝、五代と上陸(すでに晋作もホテルを引き払い、千歳丸に乗り込んでいるのだ)。字林洋行及び施医院堂書を求む」とある(『高杉晋作史料・二』平成十四年)。三、世界へ飛躍すること帰国直後、晋作が長州藩へ提出するレポートの下書きとして作成したと思われる「内情探索録」(『遊清五録』所収)の中で、「薩摩より五代才介(助)と申す人千歳丸水夫となり、上海へ罷り越せしなり。五代は薩の蒸気船の副将くらいの処を勤める者の由にて、だんだん君命を受け、当地罷り越せし様子なり」と紹介している。  つづいて晋作は、五代から有益な情報を得たとして、次のように述べる。「おいおい心易くなり、その論を聞くに、帰国の上は蒸気船の修復と申し立て、上海辺りに交易に来る心得なり。上海渡海の事開くれば(上海との航海ルートが開けたら)、欧羅斯(ヨーロッパ)・英吉利(イギリス)・悪米利(アメリカ)へも渡海相成るよう開くならんと云う」薩摩藩はなんと、上海ルートを踏み台として、世界中を相手に交易を計画しているという。そうして経済力をつけて、外圧をのぞくのだ。それには、蒸気船が必要なのだと、晋作は続ける。「蒸気船買い入れの節の咄を聞くに、余程有益に相成る様子なり。蒸気船買い入れの直段十二万三千ドル、日本金に直し七万両」薩摩藩から五代に、上海での蒸気船購入の内命が出ていたらしい。ただし、具体的な点については諸説あり、よく分かっていない。宮本又次『五代友厚伝』(昭和五十六年)には「五代は結局汽船を買い入れなかったとも考えられる」とある。ともかく蒸気船により、どれ程世界が広がるかを、晋作は五代から教えられた。そのころの長州藩は、木造帆船を二隻所有していたに過ぎない。蒸気船購入の計画は持ち上がってはいたものの、江戸や京都での政治活動に大金を費やしたため、頓挫せざるをえなかったのだ。これでは本末転倒である。そこで晋作は長崎に帰着するなり、オランダが売りに出していた蒸気船を長州藩が購入するという契約を、「独断」で結んでしまう。五代の話が、晋作を突き動かした結果であることは言うまでもない。『遊清五録』中には「蒸気船、和蘭国へ注文つかまつり候一条」という、晋作の報告書草稿が収められている。それによると中国が「衰徴」した原因は、「外夷を海外に防ぐの道を知ら」なかったからだとする。「断然太平の心を改め、軍艦・大砲制造し、敵を敵地に防ぐの対策無きゆえ」だった。しかも「我が日本にもすでに覆轍を踏むの兆し」があるのだという。この草稿は「速やかに蒸気船の如き」の部分で、なぜか突然終わってしまうのだが、晋作の攘夷に対する考え方がうかがえ興味深い。だが、藩政府内では晋作の独断専行を非難する声が高まってしまう。とても購入出来る気配は無く、そのうちオランダも手を引いたので、破談になった。間もなく京都に上った晋作は八月二十六日、桂小五郎(木戸孝允)に、今後の決意を示す手紙を書いたが、その中に「実は蒸気船壱艘和蘭国へ独断にて注文つかまつり候。右ゆえ只様上京延引に相成り、恐れ入り候」と述べている(この手紙は、萩博物館特別展「高杉晋作の恋文」で展示予定)。四、その後のふたり上海から帰国後、晋作と五代は会う機会があったのだろうか。晋作は翌年の文久三年(一八六三)六月に君命により下関で奇兵隊を結成したり、慶応元年(一八六五)には藩内戦のすえ、長州の藩論を武備恭順で統一したりと、大奮闘。一方の五代は慶応元年に薩摩藩の秘密留学生を引率して渡欧し、イギリス・ベルリン・オランダ・フランスなどを巡り、翌二年二月九日に薩摩の山川港に帰っている。この間、長州藩と薩摩藩は文久三年(一八六三)八月十八日の政変以来、対立を深めていた。元治元年(一八六四)七月の「禁門の変」で敗れた長州藩には「朝敵」の烙印が捺され、薩摩藩は第一次長州征討に参加した。しかし幕府独裁に批判的な薩摩藩は裏で長州藩との提携を進め、慶応二年一月、いわゆる「薩長同盟」が締結される。五代の帰国は、ちょうどそんな時だ。御納戸奉行格で勝手方御用人席外国掛となった五代は慶応二年四月から十月まで長崎で勤務し、フランスやイギリス相手の交渉を担当している。一方、晋作は三月二十一日夜半、下関から海路長崎に到着し、薩摩藩邸に潜伏した。薩摩藩主父子と英国公使パークスが鹿児島で会談すると知らされたので、長州藩も参加しようと考えたのだ。もっとも晋作は鹿児島には赴かず、イギリス商人グラバーから独断で購入した蒸気船オテント号(丙寅丸)に乗り、四月二十九日夜には下関へ帰って来た。二度目の長州征討の戦端が開かれそうだったからである。つまり慶応二年四月、長崎の薩摩藩邸で晋作と五代は再会したはずだ。晋作の遺品中に、この時貰ったと思われる五代の名刺大の写真があり、裏に「薩藩五代才助、余かつてこれと支那上海に遊ぶ」と記されている。また、ふたりの親密さは晋作が下関に帰ったひと月後の五月二十六日、五代が長崎から晋作にあてた手紙からも、うかがうことが出来る(『高杉晋作史料・一』)。五代は手紙の冒頭で「両度の御芳翰相達し(二回にわたるあなたのお手紙が届き)、披見つかまつり候ところ」云々と述べているから、両者の間でしばしば文通があったようだ。しかし管見の範囲では、この一通しか確認出来ない。内容はまず、薩摩藩からの「御返翰」が長崎に届いたので、下関に行く者に託すから受け取って欲しいとある。おそらく晋作が持参した、長州藩主父子から薩摩藩主父子あての親書の返信であろう。つづいて長州藩が薩摩藩名義で購入した蒸気船「桜島丸」の引き渡しのこと、小銃のこと、イギリス領事がまだ長崎に到着しないこと(パークスの長崎到着は同月二十五日)、水師提督(キング中将)とは会っていることなどが述べられている。追伸には「度々結構なる御反物拝領いたし、誠にもって恐縮つかまつり候」との謝辞があり、晋作が反物を贈ったことが分かる。五代は「御互いに国家危急」を救うための交わりなのだから、「斯かる御謝礼等」は「心外の至り」としながらも、「麁器(粗末な器)」をお返しするから、受け取って欲しいと言う。さらに追伸で五代は、広島で行われている幕府詰問使と長州藩使節の談判が「日々切迫の御模様」だとし、長崎にいるグラバーやラウダも気にかけているから、情報を知らせて欲しいと頼む。この、広島での交渉は五月二十九日、幕府側が長州藩の歎願書を返還したため決裂。六月七日から、いわゆる「四境戦争(第二次長州征討)」が始まり、大島口・芸州口・石州口・小倉口の各所で激しい戦闘か繰り広げられる。晋作は小倉口の海陸軍参謀として奇兵隊などを指揮し、攻め寄せた征長軍を撃退した。休戦協約が結ばれたのは、九月に入ってからである。それから幕府権威は紆余曲折しながら失墜してゆくのだが、小倉口の戦いの最中から晋作は結核が悪化し、床に臥すようになった。五代は慶応二年十月、下関に来て長州側の木戸準一郎(孝允)らと会談するなど、商社設立のために奔走している。そのさい晋作を見舞ったようで、同月十七日、薩摩藩重臣の桂久武にあてた手紙(『高杉晋作史料・三』)の中では、次のように知らせている。「高杉も此の内より病気にて至極難症に相見え、同人相欠け候はば、馬関(下関)にも外に人物今これ無く」晋作がいなくなれば、もう、下関に「人物」は無くなると慨嘆する程、五代は晋作を高く評価していたのだ。そして晋作は下関新地の林家離れにおいて慶応三年四月十三日、二十九歳の生涯を閉じる。年譜によるとその月、五代は、それまでの功が認められて、兄から分家することが認められ、坂元家の娘トヨと結婚していた。そんな中、晋作の死をどのような気持ちで聞いたかは分からない。のち、五代は維新で衰退した大阪を、近代商業都市として蘇らせるため、大阪株式取引所や大阪商法会議所を創立するなど、大いに活躍した。かつて晋作を奮起させた、経済によって国力をつけ、外圧をのぞくという方針は生涯ブレなかったのだ。明治十八年(一八八五)九月二十五日、五十一歳で病没している。(「晋作ノート」36号・平成28年3月)