同志たちからの見舞状(1) いま、高杉晋作の詳細な評伝を執筆中なのだが、ある時から「あとがき」の内容を漠然と考えるようになっていた。そこには、自分が本書を書き改めるのは、晋作宛て書簡(来簡)がまとまって見つかった時だとの一節を、入れるつもりだった。来簡が保存されているわけがないとの思いも、実はある。 晋作が発した書簡は二百数十通が残っており、その大半を私は『高杉晋作史料・一』(平成十四年)に収録した。ところが、晋作に来た書簡というのは一部の例外を除き、ほとんど残っていない。例外とは藩主世子と吉田松陰からの書簡で、このふたりが晋作にとり特別の存在だったことが、窺える。それ以外は沙汰などの公文書的なものを除けば、晋作宛ては十通ほどしか確認されていない。 たとえば晋作が木戸孝允(桂小五郎)に宛てた書簡は、連名あても含めて三十数通、往復書簡は二通が確認されている。その大半は今日、宮内庁書陵部木戸家文書中に保存されている。ところが、木戸(一人)から晋作宛て書簡となると、わずか二通しかない。どうやら晋作は来簡を処分し、木戸はマメに保存したらしい。そのため晋作の主張、頼みごと、喜怒哀楽、愚痴などは分かるものの、木戸がどう反応したのかは、なかなか分かりづらい。キャッチボールになっていないのである。この問題は晋作伝記を著す者すべてに立ち塞がる、大きな壁だと思う。(2) ところが昨年(令和六年)秋、私の先入観を少しばかり揺るがす「事件」が起こる。知り合いの古書肆が送ってくれた、東京・神保町の古書会館で開催される『古典籍展観大入札会』の目録を眺めていたところ、ある出品物のところで目が釘付けになった。 古文書一括の説明中に、「高杉晋作他宛」云々とあったのだ。掲載された小さな写真は不鮮明で、内容はよく分からないものの、谷潜蔵(晋作の別名)宛て書簡数点が含まれているのは明らかだった。しかも、いずれも見たことの無い新史料のようである。 ない、と思っていた晋作宛て書簡が出て来たのだ。何が書いてあるのか、ぜひとも知りたい。落札者が公共機関ならばともかく、コレクターなら秘蔵され、二度とお目にかかれない可能性も高い。これは大変だと思い、さっそく古書肆を通じて個人で入札した。インターネットのオークションなどとは違い、大入札会は一般人は直接入札出来ず、業者を通じなければならない。札はひとりで四枚まで入れられる。どうしても欲しかったら、いまの私としては目一杯の金額を入れた。 それから結果発表までの一週間は、すごく落ち着かなかった。例の晋作伝記のあとがきは、この結果に左右されるだろう。「来簡が市場に出て来たが、落札出来なかった」といった敗者の弁は、なんとしても書きたくないので、晋作の写真を朝夕拝んでみたりもした。その間、古書肆の店主氏とは某作家氏を交えて博多で大酒を飲んだりしたが、入札の話題にはお互い触れなかった。 十一月二十日、店主氏から電話が入る。まず、この前の酒席のことなどで数言交わした。落札出来なかったので、気を遣って世間話で和らげているのかとも思い、不安がよぎる。ところが店主氏は、思い出したようにあっさりと「こないだの古典籍会、落とせましたよ」と言った。 店主氏にとっては沢山の入札のひとつで、大した問題ではなかったのかも知れない。しかも私が入れた一番下(安い)の札で落ちたから、いかに必死で入札していたかが分かる。次点との差がどのくらいかは不明だが、この調子では、もっと低い金額でも落札出来たかも知れない。しかし後悔は無い。私は電話口で歓声をあげた。 だが、売り手(どの店なのか、明かされないシステムになっている。店主氏はあくまで仲介者)の事情が急変する場合もあるだろうから、現物を手に取るまでは安心出来ない。それから数日間上京し、月末近くに帰宅したところ、まだ届いていなかった。よもやと思い、店主氏に電話をしたら「あーすいません、忙しかったもんで、今日発送します」。拍子抜けした。晋作宛て書簡が出て来ても、世間はこの程度のことなのかも知れないと思ったりもした。(3) さて、届いたのは、幕末維新期の長州関係古文書や詩書計十点を張り交ぜた二巻の巻子で、うち一巻に晋作宛て書簡が四通収められている。他にも若い頃の伊藤俊輔や山県狂介の書簡(晋作について触れた内容)など、興味深いものも含まれているのだが、ここでは晋作宛て四通につき、述べておく。まず、差出人と日付などは次のとおり。①(慶応二年)(月欠)十三日 「谷潜蔵様」宛て 前原彦太郎書簡②(慶応二年)十月二十三日 「谷潜蔵様」宛て 前原彦太郎書簡③(慶応二年)十二月二十日 「谷潜蔵様」宛て 山県狂介・福田侠平書簡④(慶応二年)十二月十三日 「谷先生」宛て (山田)市之允書簡 長州再征軍を相手に小倉口で戦った晋作は、はじめ海軍総督、途中から馬関口海陸軍参謀となる。だが、病状が悪化し、慶応二年(一八六六)九月下旬より、指揮を前原彦太郎(一誠)に託して療養生活に入った。四通はその頃から同年末までの、来簡である。その内容は、次のようなものだ。 ①②は晋作の代役となった前原彦太郎からの報告。②は十月十七日に呼野(現在の北九州市小倉南区)で行われた小倉藩との講和談判に、「原狷介」と変名して出席した前原が「何も出先に於いて、あらまし取り極め申し候。悪しからず思し召し遣わされ候よう願い奉り候」と、晋作の了承を得ずに決めたことを謝る。この日、長州軍は東は狸山、西は金辺峠の「要地」を小倉側から受け取ることが決まった。また、小倉側に駐屯する長州兵もなるべく減らし、「御国力の万一をも補い」たいので、山県狂介らが訪ねて行ったら「然るべく御一声希い上げ候」と言う。 ③は奇兵隊軍監二人の連名だが、筆跡は山県狂介のもの。先述のように長州藩は小倉藩の幼君を人質として差し出すよう求めたため、講和談判は紛糾していた。窮した小倉藩は豊前国六郡をすべて明け渡すとして、十月下旬、藩士とその家族九千人は肥後へ向けて退却を始める。このままでは、長州藩が日本じゅうから非難されてしまう。山県らは再び戦争になると予測し、晋作に「渡海の覚悟」だと知らせて、「海軍えもまいり候よう御一言頼み上げ奉り候」と頼む。結局長州は十月二十七日の談判から、幼君人質の一条を外したため、「再戦」にはならなかった。 同志たちは晋作の病状を気遣うだけでなく、②③のように諸隊や海軍への口添えを頼んでいる。晋作の藩内、特に軍事部門における影響力の強さが窺える。読んでいると、百数十年前の晋作の日常が、突然眼前に現れた気がした。(4) ④は三田尻に駐屯する御楯隊の軍監山田市之允(顕義)からの見舞状である。幕末の山田は尊攘、討幕運動に奔走し、維新後は西南戦争で活躍したて陸軍中将に進んだり、初代司法大臣などを務めたりした。晋作と山田間の往復文書は、これまで一通も見つかっていないから、まずはその点が新鮮だった。 山田は、晋作のことが日夜気になっているが、「今以て御見舞いつかまつり得ず、千万本懐に背き候」と謝る。その理由は他の幹部が山口に行き、隊を留守に出来ないからだという。それでも晋作の病状を気遣い、「何卒精々御気長御保養、邦家のため祈り奉り候」と結ぶ。宛名は「谷先生座下」とあり、五つ年長の晋作に対する篤い敬意が感じられる。 晋作と山田の階級は共に大組で、明倫館や松下村塾で学んだ。しかし年齢差もあったためか、その交流を示す史料は、あまり多くは無い。晋作が万延元年(一八六〇)閏四月、藩の軍艦丙辰丸に乗り込み、航海実習のため萩から江戸へ赴く際、見送る山田が作った「送高杉暢夫航海東行」と題した七絶が一番古いものだろうか。元治元年(一八六四)一月二十八日、富海から上方まで海路向かった晋作に、山田が同行している。慶応二年六月十二日、第二次長州征討の中、海軍総督の晋作が丙寅丸で大島沖の幕府軍艦を奇襲した際、山田も加わった。後年、山田は「君(晋作)艦首に立ち、眼を瞋り叱咤」(『東行遺稿』明治二十年)云々と回顧している。 晋作は下関の病床から慶応三年一月十七日、萩にいる父小忠太に発した手紙で、萩への帰省は難しいと知らせた。それでも「三田尻へなりとも罷り越し候はば、同志も多く風流の友も少なからず、旁一薬石かと相考え居り候」と言う。三田尻には御楯隊が駐屯しており、その中には山田もいた。会えば気晴らしになるという「同志」のひとりに、山田がいたのかも知れない。だが、それから三カ月後、晋作は他界した。山田は晋作墓前で「東行谷氏墓下作」と題す、次の七絶を作っている(『学祖山田顕義漢詩百選』平成五年)。「曾游旧夢総悠悠 落葉残烟不耐秋 欲問将来多少策 墓門露冷百蟲愁(曾て游ぶ旧夢総て悠々。落葉残烟秋に耐えず。問はんと欲す、将来多少の策を。墓門露冷かに百虫愁う)」 まだまだ指導してもらいたかったが、墓の前で聞こえるのは虫の鳴く声だけだとの転結句に、特に実感がこもる。晋作を、軍人の先輩として敬っていたようだ。 晋作と山田に関する、有名な逸話がある。最晩年の晋作を見舞った諸隊幹部が、今後諸隊の統率者を誰にすればよいかと尋ねたところ、晋作は「大村益次郎」と答えた。その後任はと尋ねると、「山田市之允に頼め」と答えた。さらに次はと尋ねたら、「そんな先まで俺が知るもんか」と言ったという(日本大学編『山田顕義伝』昭和三十八年)。 真偽不明の逸話だが、気になって私の蔵書の範囲で探ってみた。すると、明治二十七年十月に博文館から出版された臥竜逸士纂評『機智胆略 明治軍人譚』に出て来るのが、一番古い。山田が没して二年後で、もっと溯れる可能性もある。山田の晋作宛て書簡、山田の晋作墓前での作と繋げると、この逸話もまんざら不自然な気がしなくなった。 それにしても、このような史料が没後百六十年近くを経て出現するのだから、他にも人知れず、来簡などが眠っている可能性は無きにしもあらずだ。例えば井上聞多(馨)との強い信頼関係を思うと、往復書簡の現存数の少なさなどは特に気になっている。 (「晋作ノート」64号、2025年5月)2025.06.20 12:15
赤禰武人と坂本龍馬(1) 長州再征の勅許を得た幕府は慶応元年(一八六五)十一月十六日、大目付永井尚志ら詰問使一行を、安芸広島に送り込む。そして同月二十日と三十日、城下国泰寺に長州藩代表の宍戸備後助を呼んで、取り調べた。 そんな中、薩摩藩は土佐浪士の坂本龍馬を長州藩に派遣し、情勢を探索させる。十一月二十四日、薩摩艦で大坂を発った龍馬は、二十六日、周防上関から上陸した。 だが、龍馬ははからずも、蒸気船ユニオン号の所属をめぐる薩長間のトラブルに巻き込まれてしまう。下関で足止めを食らった龍馬は十二月十四日、薩摩藩士岩下佐次右衛門(方平)・吉井友実連名宛てに書簡を発した(原書簡は木戸孝允のもとに保存されていたようで、現在は宮内庁書陵部蔵木戸家文書の中にあるのが引っ掛かるのだが、本題とは直接関係無いようだから、ここでは突っ込まない)。 まず、龍馬は岩下・吉井と上関で待ち合わせの約束をしていたのだが、行けなくなった旨を知らせる。つづいて、長州藩内で得たのであろう、幕府詰問使に関する次の情報を知らせる。「案ずるに永井は諸隊の者と政府の論と、甚だことなり候心づもりなり。ゆえ、政府をたすけ諸隊を撃つ、或いは諸隊を助けて政府を撃つとの論のよしなり」 前年の長州征討の際、幕府側は長州藩内の「俗論派」と呼ばれた恭順派と結び付き、「正義派」と称する急進派を押さえて、降伏させた。その後、恭順を不満とする高杉晋作の下関挙兵に始まる内戦のすえ、「正義派」が再び政権を奪い、武備を充実させていた。だから、再征になったのである。 それでも永井尚志は、長州藩内には「俗論派」が、反主流派ながら生き残っていると見ていた。そこで再び「正義」「俗論」の対立を利用し、長州藩を屈服させようと企てていると、龍馬は言うのである。(2) 永井尚志の情報源は、もと奇兵隊総督の赤禰武人である。内戦を主張する高杉晋作らと対立した赤禰は慶応元年三月八日、筑前黒崎から船で上方に走った。だが、四月二十八日、大坂で捕らえられ、京都の獄に投ぜられる。五月、永井の訊問を受けた赤禰は「和議」を望み、藩内情を説明した(史談会『報効志士名録・二』明治四十四年)。 ただ、赤禰の持つ情報は古かった。内戦のすえ、刷新された長州藩政の主導権を握っていたのは、木戸孝允である。木戸はきわめて独裁的なやり方で、椋梨藤太を首領とする「俗論派」勢力を根絶やしにし、藩が進む方向を明白にしてゆく。その時期は閏五月後半頃で、「明確に椋梨の味方と分かる者だけではなく、曖昧な態度を示し、椋梨らを容認する姿勢を見せ、藩主の判断を迷わせた者にまで処分を求めたのである」(斎藤紅葉『木戸孝允と幕末・維新』平成三十年)といった、徹底したものだった。 「俗論派」側の史料がほとんど現存しないため、ニュートラルな視点で幕末長州史を語るのは不可能とされる。それを抹殺したのは、明治以降の修史事業ではなく、おそらく木戸政権だろう。 そうとは知らない永井は十一月二日、赤禰と筑後浪士渕上郁太郎を牢より出し、広島まで連れて行き、釈放する。十二月になり長州藩に入った赤禰は「和議」を唱え、かつての理解者だった長府藩主毛利元周や吉川監物に働きかけるなどして周旋したがうまくゆかず、故郷の柱島に潜伏した。ところが十二月二十七日に捕らえられ、山口に送られて、一度の裁判も経ぬまま「不忠不義の至り」との罪状により、慶応二年一月二十五日、鰐石河原で斬首される。享年二十九。赤禰が着ていた白地の羽織には「真似偽、々似真(真は偽に似、偽は真に似たり)」と書かれていたという。(3) 先述の龍馬書簡には、赤禰らしき者の話題が出てくる。宮地佐一郎『龍馬の手紙・講談社学術文庫版』(平成十四年)から引用すると、「京よりミブ(壬生)浪人同伴ニて帰りし、長人ハ虎口をのがれしと大ニ笑合候」となる。壬生浪人とは、永井に従い広島まで来た新撰組局長近藤勇らのことで、赤禰と渕上を京都の獄から出し、連れて来たと見られていた。 『龍馬の手紙』の翻刻では「帰りし」の後に句読点を打ち、「長人」とつづく。このため意味が通じ難くなる。この読み方に従った宮川禎一『増補改訂版 全書簡現代語訳坂本龍馬からの手紙』(平成二十六年)では、「この永井主水一行には、京都から壬生浪士が同行して来ました。しかし何ごともなく、永井とともに帰っていったので『長州人は虎口を逃れたよ』などと皆で大笑いしました」と訳しているが、かなり苦しい。大体、虎口を逃れるか否かは、これから決まるはずだ。 この部分は「帰りし長人」と、句読点無しで読むのだと思う。「長人」とは長州藩の全住民ではなく、赤禰一人(もしくは渕上と二人)を指すと考える。すると、壬生浪人が連れ帰った赤禰は、まんまと釈放されて、命びろいしたといったニュアンスになる。それが龍馬には、幕府側に一杯食わせたように見えて、痛快だったというのだ。第三者が付ける句読点ひとつで、書簡の意味ががらりと違ってしまう一例である。 もっともこの時点で龍馬は、赤禰の苛酷な末路を知るよしもない。藩政府にすれば、「和議」を唱える赤禰をより残忍な方法で処刑することにより、確固たる開戦の決意を藩内外に示す意味もあったのだ。 なお、晋作が亡くなる間際に、「先きに武人の心事を洞察すること能はず、其生命を保たしめざりしは遺憾とするところなり」と漏らしたともいうが、真偽の程は定かではない(赤禰篤太郎「長州藩報効志士赤禰武人事歴補遺」『史談会速記録・二二八輯』大正元年)。維新後、赤禰の霊は郷里の招魂場や東京の靖国神社にも、合祀されなかった。跡を継いだ篤太郎は追贈により赤禰復権を目指したが、軍人政治家として権力を握る山県有朋や三浦梧楼らの反対もあり、実現しなかった。 (「晋作ノート」63号、2025年1月)2025.04.10 11:31
吉田松陰自筆の書簡を初公開吉田松陰自筆の書簡を初公開 ―松陰と弥二郎、書に漂う師弟愛の物語(1) 今から百数十年前の幕末、日本は西洋列強の外圧という大きな問題に直面していた。これを「独立」の危機と見た吉田松陰(寅次郎)は、敵情視察のつもりで伊豆下田からアメリカ密航を企てるも失敗し、故郷である長州藩の萩(現在の山口県萩市)に送り返された。その後、松陰は幕府が行った「安政の大獄」に連座して処刑されたが、高杉晋作や伊藤博文ら門下生は、師の「志」を継ぎ、明治維新という大きな変革を成し遂げる。 密航に失敗した松陰が、萩で松下村塾を主宰した期間は、わずか二年あまり。塾舎は陋屋(狭小)で、門下生の大半は近隣に住む武士の子弟だった。だが、その中から日本を動かす多くの志士や政治家・軍人を輩出した。教育とは、時間や施設だけではない。そして、「人材」は探し回るものではなく、師が自らの背中を見せ、感化して育てるもの―こうした事実を、この「師弟」は教えてくれる。 では、松陰は門下生に何を伝え、どのような指導を行ったのか。幸い、三十歳という短い生涯にもかかわらず、松陰は六百数十通におよぶ書簡をはじめ、日記や論策、随想、詩歌にいたるまで多数の著作を残している。 松陰は「自分が死んだら遺骸は捨ててもらっても構わないが、志を託した著作だけは残して欲しい」との旨を遺言していた。だから遺族や門下生は、必死になってそれらを保存したのだ。 こうして昭和のはじめ(一九三四~三六)、に『吉田松陰全集』全十冊がまとめられ、出版された。後に全十二冊の普及版が編まれたり、復刻版が作られたりして、現在まで読み継がれている。だが、『全集』から漏れている遺文もあり、それがたまに見つかる。実は私も、京都の古書肆から入手した『全集』未収、安政五年(一八五八)五月一日、品川弥二郎宛て松陰書簡を所蔵している。流出の経緯は未詳だが、まさに松陰の筆跡だ。 軸装はされていたが、入手時の保存状態はかなり悪かった。紙は日に焼けて茶色く変色し、文字は判読出来るものの、所々虫食いもあったため、表具師に改装を依頼した。薬品で「焼け」を除き、紙を白くする方法もあったが、それでは紙を傷める恐れがある。そこで表装のみを新たにすることが、最善の保存方法と判断した。 今回、その書簡の内容を、初めて公開させてもらう機会を得た。埋もれていた松陰の「声」の一つを、こうして伝えることが出来、非常にうれしく思っている。(2) この書簡の魅力は、松陰の門下生に対する人間臭い、愛情に満ちた言葉が並ぶ点であろう。また、後述するように、情勢が一気に緊迫する直前のもので、ドラマチックでもある。まずは、全文と現代訳を次に掲げる。(原文) 先日はちと風邪之由、其後如何哉 至極あんし候。拙者も于今全快不 致鬱々打過申候。一日見され千秋 のことし。故に態と岸田之遣し 書物入用ならは申越されよ。粟幾へ 事つけ可申候。今日より飛脚出達 之由にて拙者書状は仕出申候。栄太之 書状来るも来さるなるへし。残念々々。 併好便を期すべし。余は不備々々。 随分病気は用心に不可如候。 朔日□ 松陰生 弥次郎殿(現代訳)先日はちょと、風邪だったそうですね。その後いかがですか。とても心配しています。私もいまだ全快せず、すぐれぬ気分のまま過ごしています。一日会わなければ、千日会っていないような気がします。そこで、岸田が持って来てくれた書籍が必要なら、言って来なさい。粟幾(人名?)にことづけます。今日、飛脚が出発するらしいので、私は書状を出します。栄太の書状が来るはずでしたが、来ません。とても残念です。共によい便りを待ちましょう。あとは不備々々。くれぐれも病気には、用心しなさいよ。 品川弥二郎は長州藩下級武士(十三組中間)の子として天保十四年(一八四三)、萩城下松本村に生まれた。近所の松下村塾には安政四年九月頃、十五歳で入ったことが史料から確認できる。松陰は弥二郎をそばに置いて墨をすらせたり、手紙の代筆をさせたりした。その学力よりも、人柄や素直な性格を愛し、「弥二の才得易すからず」と評している。 『松陰全集』書簡編には、十一通の弥二郎宛て松陰書簡を収められている。一番古いのは、安政五年四月十二日のものだ。父が昇格した祝いのため、数日塾を休んだ弥二郎に対し、「足下急々塾に来たれ、安坐を為すことなかれ」と催促し、課題まで出している。 それから約半月後に書き送ったのが、本状だ。弥二郎も松陰も、風邪で苦しんでいる。前便とは趣が変わり、とにかく弥二郎に会いたい、学問の力になってやりたいとの思いがストレートに伝わって来る。「一日見ざれば、千秋のごとし」など、まるで恋文のようである。他の弥二郎宛て書簡は、比較的厳しい言葉が並ぶのだが、これはひたすら優しい。 松陰は長州藩が江戸へ飛脚を出すので、その便に自分の書状も託すと言う。書簡に出てくる「栄太」とは前年九月に江戸へ行き、松陰に時勢に関する情報を送り続けていた吉田栄太郎(稔麿)のこと。この時は知らせが無かったようで、残念がっている。(3) この年二月、幕府は自由貿易を骨子とした日米修好通商条約の調印に、孝明天皇の許可を求めた。ところが西洋列強に侵略の意図ありと見る天皇は、なかなか許可を与えない。その成り行きを、松陰も門下生も固唾を呑み見守っていた。 すると四月二十三日、大老に就任した井伊直弼は、六月十九日、勅許を得ないまま条約に調印してしまった。天皇は激怒し、朝廷・幕府間に大きな溝が生じ、これが幕末政争の原因となる。 勅許無しの調印を知った松陰は、激化した。七月十三日、藩に呈した意見書で「墨夷(アメリカ)の謀は神州の患たるとは必せり」とし、「征夷(将軍)は天下の賊なり」と断じた。そして、今自分たちが将軍を討たなければ、後世の者から批判されると訴えた。 一方、弥二郎は家族の反対で、松陰との距離を置く。すると九月二十七日、松陰は遅疑逡巡する弥二郎に一書を寄せ、「三日を過ぎて来らずんば、弥二は吾が友にあらず」とまで言う。それほど期待していたのだ。それでも躊躇する弥二郎に松陰は「十七、八の死が惜しければ、三十の死も惜しし。八、九十になりてもこれで足りたと云ふことなし」と、迫る。人の一生は長さではない。何を成すかなのだと、説くのだ。 ここに至り、弥二郎は奮起した。松陰は「(弥二郎が)道に入らんとするを喜ぶなり」と歓喜する。だが、安政六年五月、「安政の大獄」に連座した松陰は江戸へ送られ、十月二十七日、伝馬町獄で処刑された。 以後、弥二郎は尊攘、討幕運動に奔走。明治になると新政府に出仕してドイツ駐在公使や内務大臣など要職を歴任する。そして弥二郎は京都の別邸内に「尊攘堂」を設け、松陰ら師友の遺墨を集めた(現在は京都大学附属図書館蔵)。あるいは数々の松陰の言葉を「松陰先生之遺訓」とし、多数揮毫して広めたりもしている。まさに松陰思想の伝道師である。「一日見ざれば、千秋のごとし」の一言は、弥二郎の脳裏から終生離れなかったのではないか。 弥二郎は明治三十三年(一九〇〇)二月二十六日、五十八歳で没した。その事績は必ずしも評価出来るものばかりではないが、愚直なまでに松陰の遺志を継ぎ、日本の独立、近代化を進めようとした思いは理解できよう。 (『第三文明』2024年11月号) 2024.12.23 11:29
玄瑞と晋作の肖像画(1) 「高杉晋作」は慶応元年(一八六五)と二年に長崎の上野彦馬スタジオで撮影された二枚の写真があるから、わりと早くから風貌のイメージは固定化されていた。特に二年の髷を落とし、七三分けの髪にした晋作は、インパクトが強い。ドラマに登場する晋作役の俳優も、七三頭の写真に寄せるのが定番のようである。 一方、晋作と並び松陰門下の竜虎と称される「久坂玄瑞」は、一枚の写真も残していない。 明治前半に盛んに出版された絵草子のような志士列伝を見ても、玄瑞の描かれ方はさまざまである。『義烈回天百首』(明治七年)では、学者然とした姿で描かれている。あるいは『報国者絵入伝記』(明治七年)では鬼のような凄まじい形相で、血まみれになって自決する姿を描く。学者も自決も、どちらも玄瑞のイメージに相違ないが、なかなか決定打がなかったようだ。(2) そこへ登場するのが、頭に鉢巻、鎧を身につけた玄瑞の肖像画である。風貌は理知的だが、武装しているから勇ましくもある。まさに、玄瑞のイメージにぴったりではないか。玄瑞と言えば、現代ではこの肖像画が思い出される程である。 この絵を私が初めて見たのは子供の頃、母の実家にあった昭和三十年代に出た『伝説と奇談』というムック本に掲載されたものだったと記憶する。その数年後、NHK大河ドラマ「花神」(昭和五十二年)で志垣太郎演じる玄瑞を見た時、肖像画のイメージのままだと思った。そこに寄せて、役作りをしたのは想像に難くない。 それにしてもこの肖像画は一体誰が、いつ描いたものなのか。原画は存在するのか。書籍に掲載されているのは例外無くモノクロだが、色彩はあるのか。その後いろいろと気になったが、手掛かりは、なかなかつかめなかった。(3) 福本義亮『松下村塾の偉人 久坂玄瑞』(昭和九年。のち『久坂玄瑞全集』と改題しマツノ書店が復刻)はこの肖像画を口絵に掲げ、次の解説を付す。「巻頭に於ける江月斎(玄瑞)先生の画像は曩に文部省に於て公にせられたる日本百傑伝中に影出せられある肖像を複写したるもの。此の外先生の肖像としては寡聞にして未だ其の是れ在るを聞かざる所なり」(例言) また、「久坂秀次郎翁の曰」として、次の聞き書きも掲載する。「これは日本百傑伝の写真の一枚である。玄瑞の写真又は肖像など云ふものはない。それであの写真の出来る時に自分が一人玄瑞に酷似して居るといふので、そのモデルになつた。油絵式に出来上つた時、野村、品川諸氏の意見を加味して諸所をなほして作られたものであるが、余程よく父に似通ふて居ると当時の評判であつた」(四四八頁) 秀次郎は京都で生まれた玄瑞の遺子で、六歳の明治二年(一八六九)一月十七日に山口に来たと、『もりのしげり』(大正五年)の年表にある。その際、品川弥二郎は玄瑞にそっくりたど、太鼓判を押したとも伝えられる。 玄瑞肖像画のモデルが秀次郎なのは、確かだろう。若き日の秀次郎写真(「週刊デルタ新聞」昭和四十三年九月二十九日)を見れば、明らかだ。本人を直接モデルにしたというより、写真をもとに描いた可能性も考えられる。(4) 先の解説には、玄瑞肖像画は『日本百傑伝』のために描かれたとある。そこで探したところ、明治二十年代半ば、『日本百傑伝』シリーズが博文館から出版されていることが分かった。数人の小伝を一冊にして、全十数冊出版されたようだ。 ただし、当「百傑」中には玄瑞は含まれず、当然、伝記も肖像画も載っていないから、これは違う可能性が高い。ちなみに「幕末の志士」では吉田寅次郎(松陰)・梁川星巌・西郷南洲(隆盛)などが入っている。なお、福本が言う文部省から出た『日本百傑伝』の存在は、今なお確認出来ない。おそらく、福本の勘違いだろう。 結論を言えば、私は玄瑞肖像画は絵葉書用に描かれたものと考えている。 日本における絵葉書は明治三十三年(一九〇〇)、私製葉書が認められたことに始まった。同三十七年から三十八年にかけての日露戦争では戦場写真を使った絵葉書が一大ブームとなり、「ハガキ文学」なる雑誌が博文館から発行されたりもした。 絵葉書業者も乱立したようだが、そのひとつに明治三十九年十一月、岸他丑が東京麹町区九段坂で開業した「つるや画房」がある。同店が特に力を入れたのは、竹久夢二画の絵葉書だった。岸の妹は後年、夢二と結婚している程の濃い関係である。 つるや画房は、「日本百傑肖像画絵葉書」というセット物を売り出す。神代から明治までの「偉人」「英雄」など百人を選び、一人一枚で肖像画を絵葉書にしたもので、この玄瑞肖像画も入っている。その多くは、どこかにあった肖像画を、転載したのではないようだ。同店の売りは「肖像画」で、宣伝文句には次のようにある。「『クレヨン』肖像画は米国式擦筆にして、斯道研究の為め数年間、米国に留学せられたる当画房主作に依る」 玄瑞肖像画はつるや画房岸他丑によるオリジナルクレヨン画、『日本百傑伝』は絵葉書セットのタイトルであろう。そう言えば福本も秀次郎も、書籍だとは言っていない。 秀次郎の談話には、野村(靖)と品川(弥二郎)が意見を述べたとある。だが、つるや画房の絵葉書とすれば明治四十二年一月没の野村はともかく、同三十三年二月没の品川は見ていない可能性が高い。大体秀次郎の談話も、福本の記憶で書かれているようだ。秀次郎が現れた時の、品川の逸話と混同している可能性もある。(5) その他、つるや画房「百傑」には吉田松陰・大村益次郎・木戸孝允など、幕末長州の面々も含まれているのだが、いずれもよく知られた写真や肖像画を下敷きにしていることが分かる。もっとも松陰はやや厳つく、大村はカリカチュアされていているようで、そこに作家の主張が感じられなくもない。 高杉晋作も「百傑」に含まれるが、こちらは、よく知られる肖像写真をなぜか無視したような、オリジナル作品になっている。総髪で大きな髷を結い、大きく鋭い目の晋作である。 岸他丑がすでに出回っていた晋作の写真を知らなかったとは、考え難い。躍動感溢れる姿とも言えるが、これが作者が晋作に抱く、譲れないイメージだったのか。あるいは玄瑞肖像画と並べた時の、バランスを考慮したのかも知れない。 発行されたのは絵葉書ブーム絶頂期の、明治終わりから大正はじめと推察しておく。大正五年(一九一六)には、この「百傑」の書籍化ともいうべき『日本歴代人傑大鑑』が日本社から出版されており、やはり玄瑞・晋作肖像画も収録されている。なお、「日本百傑肖像画絵葉書」は好評だったようで、後に続編が出たようだ。 (「晋作ノート」62号、2024年9月)2024.12.23 11:27
木曽源太郎が見た彦斎と晋作(1) いまから四十年近く前のこと。ある出版社の編集長に持ち込んだ企画が通ったので、私は連日のように東京都内の幕末維新に関する史跡や墓を訪ね歩いた(その成果は紆余曲折を経、『幕末歴史散歩 東京篇』の題で平成十五年、中公新書の一冊として出版した)。 先日、当時撮影した大量の写真が出て来たので眺めていたら、府中市片町の高安寺にある木曽源太郎の墓を写した一枚があった。メモには、昭和六十二年(一九八七)十二月とある。 それは、表に「贈正五位木曽源太郎義顕墓」、裏に沢宣元(宣嘉次男)の撰文を刻む。墓地の中でもひときわ立派にそびえ建ち、昭和十四年五月に東京府旧跡に指定されている。しかし、木曽の事績を見る限り、失礼ながら墓が「旧跡」になる程の人物とは思えなかった。(2) 木曽源太郎は天保十年(一八三九)、肥後熊本藩士の家に生まれ、国学者の林桜園などに師事した。文久三年(一八六三)に脱藩、尊攘運動に奔走する。同年十月には七卿のひとり沢宣嘉を奉じて、平野国臣(次郎)らと但馬生野で挙兵するも、敗走した。 その後は長州藩の庇護下に入り、維新後は徴士となって伊勢度会府判事、湊川神社・鎌倉宮の宮司などを務める。府中の長女の嫁ぎ先に身を寄せ、大正七年(一九一八)十二月二十一日、八十歳で没した。『贈位諸賢伝・上』(昭和二年)には「平素名利の念に薄く、晩年野に下り民業に従事せしも、多くは失敗に終る。不遇の間、老に至るも钁鑠として志気毫も衰へず」とある。大正十三年二月には正五位を追贈された。 地元で作られた数冊の郷土史本や史跡ガイドでは、木曽に「勤王の志士」の肩書を付していたと記憶する。ただ、「志士」と呼ぶには、いささか長生きのような気もする。一般的に「志士」の「志」とは明治維新の成立だから、成立後まで生きても「志士」とは呼ばれない。木曽の場合は晩年、府中あたりで「勤王の志士」の生き残りとして、名士の扱いを受けたのかも知れないとも思った。没して二十余年後に墓が旧跡に指定されたのも、そうした空気が残っていたからではないか。(3) その後私は、木曽の回顧録『維新志士 回瀾余滴』と題された、毛筆書きの和本を手に入れた。それは罫紙二十四丁(表紙を除く)から成る。いまのところ、翻刻されたものにはお目にかかったことがないから、あるいはこれがオリジナルなのかも知れない。 緒言には「今般、野生が若年の頃、天下の有志と交際を致しました実歴を御尋ねに付、聊か記憶したる事を物語り致すでござる」(カタカナは原則てして平仮名に改めた。以下同)云々とある。質問者が誰なのか、いまのところ不明だが、木曽の談話を書きとめて整理したもののようだ。 目次は「坂本龍馬」「石川誠之助」「高杉晋作」「久坂玄瑞」「真木和泉守」「佐久間象山之最後」「春日潜庵の人物、横井小楠との議論」「元治の役、来島又兵衛の討死」「枝吉木工介」「鷹取養巴」「野村望東尼」「藤四郎」「当年の介子椎」「薩長和睦の事」「西郷南州」「平野次郎」「宮部鼎蔵」「轟武兵衛」「肥後藩勤王党の奐起」「諸藩の勤王家と肥後の有志」「月照薩摩潟にて入水の事」の全二十二項から成る。ざっと読んだところ、木曽自身が若い頃、いかに「有名人」たちと付き合ったかを、懸命になってアピールしているような印象を受けた。 「坂本龍馬は、私は故ありて懇意でござりました」「真木和泉守は、私も同志中で最も親しく交際をした人でござる」「来島又兵衛の事お尋ねであるか。此は私よくよく知己でござりました」「西郷吉之助も私は故あつて古い知己である」「平野次郎は、故あつて私も極く懇意でござりました」といった調子である。 聴取の時期は明治の終わりか、大正のはじめだろう。すでに、西郷や龍馬などは講談小説の「英雄」「偉人」になっていた。そうした人物たちとの交流を語りながら、「勤王の志士」として府中で不遇な晩年を過ごす木曽の姿が思い浮かぶ。もっとも、府中のある多磨地方は新撰組贔屓も多いだろうから、反感を抱かれたかも知れないが。 話がオーバー気味なのはともかく、こうした回顧録にありがちな故意の創作は、あまり無さそうだ。その辺りを考慮して冷静に読めば、他には無い面白い話も拾えるだろう。 先の龍馬の部分で言うと、木曽と「懇意」になったのは「坂本は薩摩に潜匿して薩摩の上町の開成所に居る時分」だったという。龍馬が薩摩の庇護下に入っていたと、私はずっと以前から考えているが(そういう見方が気に食わないというカルトめいた会の連中から、暴力的で不快な誹謗中傷をさんざん受けたが、その考えに変わりはない)、具体的な居所まで述べるのは信憑性がある。また、長州再征さ中、長州で会った龍馬は「夫戦争を仕舞つたら洋行をする」と語ったというのも、他の史料と符節する。(4) 宮部鼎蔵はじめ肥後熊本の同志の話も、具体的で面白い。木曽の故郷に対する思いは、かなり強かったらしい。 元治元年(一八六四)七月十一日に京都で起こった佐久間象山暗殺事件の犯人が肥後の川上坊主(河上彦斎)との情報が、木曽にどう伝わって来たのかも、語られている。今日、犯人を河上とすることには異説もあるようだが、あくまで木曽の視点である。 その頃木曽は京都河原町の長州藩邸に潜んでいたという。象山が天皇を彦根に移すとの「風説」があったため、「隠岐国の浪士松浦太郎、大和の浪士友(伴)林光平の伜友林六郎、因州鳥取の脱藩、川上彦斎、此四人で河原町で斬戮したと云ふことである。是は河原町の長州邸内に私は居て此事を慥に聞ました」と、述べる。 その後、「禁門の変」に参戦するも敗れた木曽は、またも長州藩に逃れたが、「長州(周防)の賀川(嘉川)駅の何とか云ふ一向宗の寺(明正寺)で播州赤穂藩の望月列、中島作太郎信行、又中島信行が親友に細見某、又芸州の穂上照人、又彦山の山伏の鬼谷●(日へんに真)、柏木民部と云法師武者数人屯して居ました」とする。長州藩が嘉川に浪士を集めていたことも、他の史料と符節する。そして、ここで木曽は河上と再会し、直接象山暗殺の状況を聞く。「其処で京都以来、始めて川上彦斎に面会致しました。其時、佐久間象山斬戮の話を致した。其時、初て川上彦斎の実際の話を聞たでございます」として以下、暗殺の様子がリアルに語られる。ここでは後半部分を引用する。「果して佐久間修理が馬を引返へして駈戻つて来た。其処を隠岐国の同志の松浦太郎と云ふ、此者が行きなりに脛を斬つた。其処で馬から落ちた。其の所に川上坊主が斬掛けたところが、陣笠を切つたと云ふ。それでも象山も壮になもので刀を七、八寸抜いたが、今度は因州の吉村、是は剣術使ひで、漸く首を刎ねたと云ふことで、其処で象山は落命したと云ふことである」 この話をした後、河上は「若し肥後流の居合を佐久間修理が稽古したものであらば、迚ても川上坊主は命は無かつたが、佐久間が抜刀の術知らなかつたが仕合せ」との感想を、木曽に吐露したという。河上は颯爽として剣を奮ったわけでもなく、後々まで脅えていたというのも、何だか生々しい。(5) 木曽は高杉晋作についても、「高杉も能く私は知りて居りますが」といった調子で話を始める。「追々筑前でも落合ひ、長崎でも落合ひ、下関でも落合つて、極く懇意であつた」とも言う。検討の余地はあるが、筑前や長崎で木曽と会ったというのは意外である。 また、「高杉は余程面知(白)い人物で、同志中の人望も余程ござりました。就中、長州内乱の節などは余程功績がござる」と言う。それから、晋作が『孫子』を愛読していた話になる。「孫子を読むことを好みて、孫子の談に及ぶと、食することを忘るヽ位なことでござつた。或る時下ノ関戦争後、面会したとき語つたことに『孫子ならざることなし』と言つた。小倉の戦争は大に高杉の力がある」 この『孫子』は、「松下村塾蔵板」として出版されていた亡師吉田松陰の『孫子評註』だろうか。晋作が孫子の一節「見日月不為明目聞雷霆不為聡耳」を揮毫したものも残っているから、この話も他の史料と符節する。 木曽が「同志中の人望も余程ござりました」と語るように、晋作は嘉川の浪士たちに何かと親切だった。土佐浪士の田中光顕には陽明学を勧め、その一節を揮毫して与えている(田中光顕『維新風雲回顧録』)。あるいは慶応元年(一八六五)十一月頃には田中の紹介という京都浪士の沢田信太郎に「読書、松陰先師の遺教を受けたし」と弟子入りをせがまれ、困惑した様子が木戸孝允宛て書簡からうかがえる。 木曽もまた、このように晋作を頼った浪士の一人だったのだろう。そして、数々の思い出話が数十年後、木曽を名士に祭り上げ、その墓を旧跡に指定させたものと考えている。 (「晋作ノート」61号・2024年5月)2024.06.03 10:13
山口における晋作住居(1) 静岡大学教授(当時)の田村貞雄氏から、神奈川県立博物館に未発表の高杉晋作書簡が所蔵されていると教えてもらったのは、かれこれ三十年近く前のことと記憶する。後日、上京の折に同館を訪ね、閲覧、撮影させてもらった。 それは文久三年(一八六三)九月二十七日、両親宛の長文で、巻子装である(資料番号G2203)。昭和五十年代半ば、吉田松陰の親類の家から寄贈されたとのことだった。ざっと読んでゆくと、晋作が妻マサと一緒に住む「山口私寄宿処」を説明する次の部分が、まず目についた。「江良村静間某の処にて、格別入用の人もこれ無く候ゆえ、断然御定め候。立(竪)小路を去る事十四、五丁下ばかり、頗る御閑静の場所にござ候。家も手細く小じんまりとして、住居もずいぶんよろしくござ候」 晋作は奇兵隊総督と政務座を兼務したりしたが、紆余曲折のすえ、九月十日に政務座専任となり、山口で勤務していた。だから山口に住んでいたのは間違いない。しかし、その場所を、自身がはっきり記した史料は、それまで見たことがなかった。この書簡により、江良村の静間家だったことが分かったのである。 江良村は、宮野桜畠村の中の小村だ。山口市街だった竪小路から、東に一キロ余り離れているだろう。晋作はその環境を「白雲野鶴の●、朝暮は思い出され候」と述べている。また、話したいことがあるので、父に一度訪ねて来て欲しいとも言う。ただし、晋作が借りていた家の正確な場所は、いまだ調査出来ていない。(2) 同じ書簡で晋作は、江良村を「幽栖の処」と呼ぶ。他にも「人望に負くの男ゆえ、当分のところ、断然隠遁、身を隠し…最早、高名の心も隠佚の心も忘却つかまつり候」などとし、隠棲したいとの希望を繰り返す。閑静な江良村は、当時の心境にマッチしていたらしい。 そして晋作は九月二十七日、政務座を辞したいと藩に申し出る。すでに「正義役人」も復権し、「京都より正義諸士帰着」して「御政事御一新、君公御上京をも御決定」したからだという。 同日、父母宛書簡でも同じ旨を知らせている。また、父の病が快方に向かっていると喜び、勤務継続を懇願する。小忠太は世子の御奥所勤務・御内用掛、世子夫人の御裏年寄役という要職を兼ねていたが、九月三日、病身を理由に辞任を申し出ていたのだ(『高杉小忠太履歴材料』)。 なぜ、晋作はそこまで政務座を辞そうとしたのだろう。 同年三月十五日、晋作は京都で十年の暇を許され、剃髪して「東行」と号した。それから藩は半ば強制的に、晋作を萩に帰国させる。晋作は萩の松本村の奥地で隠棲を始めたが、六月に入るや急きょ山口に呼び出され、藩主から馬関防御の立て直しを命じられて、奇兵隊を結成した。つづいて奇兵隊総督と政務座を兼ねたりもした。 では、十年の暇は、どうなったのか。晋作が再び藩政の第一線で働くには、この九年以上も残っている暇を、きちんと処理しておく必要があったと思われる。 もし、藩主が暇の継続を指示すれば、晋作は再び隠棲生活に戻らなければならない。そうなったとしても、みずから願い出て貰った暇なので、誰にも文句が言えない。 それに備えて晋作は、隠棲の場所を確保しておく必要があった。しかし、萩の奥地ではない。なぜなら、攘夷実行を名目に、藩政の中心は萩から山口に移っていたからである。「いざ!鎌倉」といった事態が勃発した時、ただちに主君のもとに馳せ参じられるよう、山口近郊の、あまり目立たない場所での隠棲を望んだのだろう。それが、江良村だったのだ。(3) ところが十月一日、藩は晋作の政務座役は免じたものの、隠棲どころか新知百六十石で召し出し、大組に加え、奥番頭とした。この上書きにより、十年の暇は正式に帳消しとなったのだ。 新知と言うから、晋作を当主とする新しい高杉家が生まれたのである。大変な栄達だ。藩主父子の信頼を確認し、感激した晋作は翌二日、両親に沙汰の写しを送り、次のように知らせた。「私儀、是迄身命を抛ち奉公つかまつり候心底、天地に通じ候儀かと恐懼罷り居り候。此の後はなおさら生死は度外に置き、着実忠勤つかまつり候落着にござ候につき、其の段御安心遣わさるべく候」 この喜びようを見ると、隠棲は本意ではなく、表舞台に立ちたかったのだろう。つづいて九日、申し出のとおり小忠太に御役御免の沙汰が下る。そして、世子側近の「新御殿御奥所勤」「若御前様御裏年寄」は晋作に任された。世代交替である。 十月二日、晋作は両親宛書簡で、母ミチが近日、山口に来ると知り喜ぶ。山口は大して見物する場所も無いが、気晴らしにはなるだろうと言う。湯田(温泉)あたりに出掛けるなら、諸雑用は自分が引き受けるから早く来るように促す。 つづく九日、父宛書簡によると、母と末妹ミツが訪ねて来たようで、母は家僕の繁作と共に氷上山(興隆寺)・大伊勢(山口大神宮)などを見物したという。しかし萩の家は女手が居なくなったので、「御閑静に入らせらるべくと愚察し奉り候。しかしながら御不自由の事もこれあるべくと、ここ元にて皆々御噂つかまつりおり候」と、父を気遣う。 息子の晴れ姿を見た母は三十日、百合三郎(南貞助)と僕の林平を供として山口を発ち、萩に帰ってゆく。百合三郎は前年、小忠太が養子として南家から迎えた妹の子、実の甥である。晋作が別家を立てたため、高杉家の相続候補者でもあった。 さて、そうなると、江良村では山口市街の政事堂に出勤するのは、不便だ。そこで十月終わり頃、引っ越した。今度は舅の井上平右衛門宅の離れ座敷である。 十月三十日、父宛書簡に「井上相宿の儀仰し越され、早速引き移りつかまつり候」とし、自身も勤務で留守が多いから都合がよいと喜ぶ。また、「井上外父も此の節は廻郡(地方廻り)にて留守にござ候」と、岳父の近況も知らせる。 この書簡の発信元は「鴻城鰐川村舎」とあるから、山口市街東南に位置する鰐石村と推測される。横山健堂『高杉晋作』(大正五年)によると六畳と四畳半の二間から成り、二畳ほどの女中部屋を増築したという。ここで晋作とマサ夫妻は約三カ月、過ごす。残念ながら私はこちらの家の正確な場所も、いまなお調査しきれていない。 ところが八月十八日の政変後、失地回復を目指す遊撃軍が沸騰していた。元治元年(一八六四)一月二十六日夕方、君命を受けた晋作は遊撃軍説得のため山口を発ち、宮市(現在の防府市)に赴く。ここで晋作の、山口における平穏な生活は打ち破られた。説得に失敗した晋作は上方に走り、マサは間もなく萩に帰った。三月に帰国した晋作は、脱藩の罪により獄の人となる。 なお、横山『高杉』はこの前に「宮野村」に住んだとあるが、江良のことである。両親宛書簡は『高杉晋作史料』一巻(平成十四年)に収めた。 (『晋作ノート』60号・2024年1月)2024.02.04 09:49
『俗論派』の意見書「俗論派」の意見書(1) 幕藩体制に従順だった長州藩は文久二年(一八六二)七月、尊攘論の信奉者たちが藩是を奉勅攘夷に定めるや、過激藩と化す。将軍上洛、外国艦砲撃、そして元治元年(一八六四)七月に「禁門の変」で敗れるまでの二年間、暴走は続いた。激怒した孝明天皇は長州藩を朝敵として幕府に征討を命じ、これを幕府は西国三十一藩に伝える。 一方、長州藩では過激派が斥けられ、穏健派が政権に就き、責任者を処罰し、藩主父子を山口から萩に戻すなど、恭順謝罪する。その結果、長州征討は同年内に不戦解兵で終わった。 ところが、これを不服とする高杉晋作らが挙兵して、内戦が勃発。慶応元年(一八六五)二月下旬、再び過激派が政権を奪う。以後、第二次長州征討を経、「明治維新」へと続く。だから勝った過激派は「正義派」、負けた穏健派は「俗論派」と呼ばれた。(2) では、「俗論派」の主張とは、どのようなものだったのか。 明治二年(一八六九)、維新に関係が深い大名家などに対し、修史の詔勅が出た。毛利家では大規模な史料編纂を行い、『防長回天史』などが生み出される。 ところが、たとえば『防長回天史』には「俗論」側の直接的な史料が、ほとんど収められていない。「俗論」側の主張は、「正義」側のフィルターを通じて記録されるのみ。それは史観云々よりも、史料が存在しないため、そうせざるを得なかったのだろう。このため現状では、幕末長州藩史の中立的視点での叙述は、不可能とされる。政敵の史料をここまで抹消した執念、執着たるや凄まじく、戦慄すら覚える。 しかし最近、抹消されたはずの「俗論」が直接書いた史料を、見つけた。灯台下暗し、自宅の書庫の中でである。ずいぶん以前、幕末長州藩に関する意見書や歎願書などの束を古書肆から買ったものの、当時は公私共多忙で読まずに放置し、忘れていた。コロナ禍のせいで時間が出来、読んでみたら、なんと「俗論」の史料群で驚いた。 ここではまず、一点目の意見書からいくつかのポイントを紹介してゆきたい(読み下し。カタカナは平仮名に改めた)。原本は六丁からなり、藩主父子帰萩に触れていることから、元治元年十月初旬、藩に提出されたと見られる。署名は塗りつぶされているが、重臣の誰かだろう。(3) 意見書の冒頭では「妄発(「禁門の変」のこと)」のすえ、藩主父子が「一旦朝敵」となり、「近々追討使」が差し向けられるのは「御国危急存亡の秋」だとする。そして「上は太夫より下は草野の万民に至る迄、不安、寝食泣涕、痛哭の至り」とし、暴走する「正義」政権に対し、藩内官民が怒り、恐怖を感じていると述べる。 京都進発の責任者は「三太夫以下参謀の人々」の他、「いずれ連座の罪逃れ難」い者もいるとする。その「七、八人」の中に、桂小五郎や高杉晋作も想定されていたのではないか。 先年、岩国徴古館が公開した重臣志道安房の「手控」十一月九日の条に、「正義」幹部のひとりしとして「高杉和助(晋作)」が「切腹の部」に入っていたと、新聞でセンセーショナルに取り上げられた。その時取材を受けた私は傍証する史料が無く、評価は難しいとしてコメントしなかった。しかしいま、意見書を見ると、誰をどう処罰するかが相当検討されていた様子だ。高杉切腹はその段階で、「俗論」が示したひとつの案ではなかったか。(4) 意見書で非難されるのは、朝敵になってなお、反省どころか、山口を本拠に頑な姿勢を崩さなかった「正義」だ。 藩主父子は山口に居住していた。その周囲は「正義」により厳重に固められおり、萩から「俗論」が赴こうとしても、入れようとしない。「あまつさえ精忠の士起らん事を恐れ、山口へ罷り越し候者は厳罰申し付くべしとの令を下し、山口表においては萩より来たり候者へ、みだりに止宿を許すべからずとの命を布き候えども、人心の感ずるところ制止すべからず」 「俗論」は自分たちを「精忠の士」と呼ぶ。それでも「俗論」は変装して山口に入ろうとした。その目的と、その苦労を次のように述べる。「愛国愛君の輩、悲憤激昂に堪えず、刀鎗を恐れず、利害を顧みず、国の為、身を忘れ、上は朝敵の御冤名を一洗し、社禝保全の策をなし、微衷を天地の間に貫かんと欲し、ひそかに山口に到り、あるいは農屋に宿し眠を、牛犢に伴い、あるいは商家に到り、愍を売児に乞い、昼伏夜行、苦心つかまつり候由のところ…」 苦労している「愛国愛君の輩」とは、「俗論」のことである。そこへ藩主一門で岩国領主の吉川監物(経幹)が登場し、形勢が一転する。「天意の感ずるところか、さいわいに監物様御出に相成り、誠に暗夜に燈を得、瞽者の明を得るが如し」 吉川の出現により「俗論」は憤発し、数百人が山口に入り、「奸吏御一新、弊政御改革」を目指す。長州征討に加わった薩摩藩の西郷隆盛は後日、吉川を窓口として「俗論」に恭順謝罪を説き、「正義」を斥けようと企てる。 吉川は藩主に「壮烈過激の者はすでに妄発にも及ぶべきところ、鎮静罷り在り候よう精々御説得」する。こうして「正義」から「俗論」へ政権交代が行われ、藩主父子は萩に帰ってゆく。その様子を、次のように述べる。「夜は白み、御一新の期相待ち候中、良知の感発するところか、天譴の容れざるところか、清太夫(清水清太郎)は脱走、麻田(周布政之助)は自殺、これより奸吏の勢い自然日に御減じ、ついに御帰城に立ち至り」 周布の自決は九月二十六日で、「奸吏」である「正義」が失速してゆく。これを、天罰のように言う。そして「匹夫匹婦に到る迄、感泣つかまつり候」と、民衆までが危険な政権の崩壊を喜んでいると述べる。意見書は、「俗論」が民衆の支持を得ていると、繰り返す。「二州の人民、目を拭いて維新の御政事渇望つかまつり候。先だってより歎願申し上げ候通り、御一新の御処置、御恭順の基本にて…急速に御処置これありたく願い上げ奉り候」 「正義」から「俗論」へと政権が移ったことを、「維新」「御一新」と呼ぶ。「維新」「御一新」は「正義」の専売特許ではなく、むしろこの時期は「俗論」が使っていたことも意外である。 (5) 意見書には「かの奇兵隊ども」の処置についても、述べられている。「俗論」は奇兵隊を、必ずしも「正義」の側とは見ていない。むしろ「正義」と結び付き「乱を企て候も計り難き」なのが、危険なのである。すでに「正義」の中には、奇兵隊に逃げ込んだ者がいるとも言う。だから反撃を恐れ、「正義」の処罰を早急に行う必要があると説く。 後日、高杉晋作は諸隊と結び付き内戦を起こすのだが、それを「俗論」はすでに予測し、危惧していたことが分かる。では、いきなり奇兵隊を解散させるのかと言えば、それは違う。兵士たちにも生活があり、追い詰めてはかえって危険だとする。「進退相窮まり申すべく相迫り候ては、窮鼠猫を食み候道理…解散致し候ては、処々に潜伏し、奸徒に誘われ、東集西会、いかほど御政道の御妨げに相成るべくも計り難く…」 だから、馬関攘夷戦争の論功行賞もきちんと行った上で、次の懐柔策を提唱する。「利害篤と御説得の上、命を用いぬ者は早々厳罰仰せつけられ、改心つかまつり候者は、これまでの通り差し置かれ、しかるべき人物惣督にして紀律厳粛に仰せつけられ候はば、かえって他日の御役にも相立つべくと申し、兎も角も御一新相成り候えば、諸隊の儀はいかようとも相成るべきと存じ奉り候」 恩情を持って接し、自分たちの味方に取り込もうと考えたことが、うかがえる。ただ、実際は十月二十一日に、いわゆる「諸隊解散令」が出るから、思惑どおりには進まなかったのかも知れない。もっとも、その後も力任せの解散が行われなかったのは、こうした懐柔策が生きていたからではないか。 この部分を読んで思い出されるのが、赤禰武人総督をはじめとする奇兵隊幹部のことだ。「しかるべき人物」だった彼らは、「俗論」との話し合いを進めていた。ところが調停は、「正義」の官僚高杉の挙兵でぶち壊しとなる。再び「正義」が政権に返り咲いた暁には、ひとり罪を被せられた赤禰が「不義不忠」として、処刑された。(6) 十月三日、藩主敬親が、翌四日、世子広封が、山口から萩に帰って来た。意見書では「御両殿様御帰城に相成り、諸士中はもちろん、匹夫匹婦に至る迄驚喜残らず歓声四隣に相徹し」と、萩の住民の歓びを伝える。だが、再び山口に移るのではとの危機感は、強かったらしい。 そこで、山口は攘夷のために移ったのだから、列強との間に和議が成ったいま、もう戻る必要は無いとする。さらには山口が地形的に要害には適さない理由を、いくつか挙げる。 そして「俗論」は、山口に藩庁が移ったため、困惑する萩の住民の「人心」にも気を配る。三百年来の歴代藩主の墓も一旦捨て、従う家臣も墳墓を捨てるのは「実に人情の忍ばざるところ」だという。あるいは民衆も、商売が成り立たなくなったり、田畑が荒れたりして困窮しているとし、「これより州郡凋弊、流離、破産、盗賊盛んに行われ、恐らくは百姓愁怨、ついに争乱におよぶべく」と、一揆の勃発を予測する。 そして「俗論」の意見書の結論は、次のようなものである。「社禝長久の策を求め、下は万民安堵の基を相建てられ、御両殿様、尊王の御大義再び天下に伸ばしなされ候期、伏して企望奉り候」 意見書を読み、まず気づくのは、どこにも幕府に恭順謝罪するとか、幕府に従うなどとは述べられていないことである。藩内を改革して天皇に恭順し、再び尊王を実行すると言う。「尊王」のリセットを行うのだから、天皇に恭順謝罪するのは当然なのである。 ところが、たとえば「正義」側の中原邦平『井上伯伝』(明治四十年)では「一意恭順謝罪を旨とし、唯幕府の命之従ふ…故に吾々武士道を重んずる者は、臣子の分として決して一意恭順謝罪説に同意する能はざるなり」などと、「俗論」は幕府に尻尾を振った政権として語られる。「俗論」は言っても無いことを、言ったように記録され、悪印象を持たれのではないか。 それに、長州征討を命じたのは天皇だ。「幕長戦争」ではなく、天皇対毛利の戦いなのである。それでは不都合なので、後年編まれる「維新史」は幕府対長州という構図を、やたらと強調する。その影響は、現代の学校教科書にも残っていると言えよう。大体、この時期の朝廷と幕府を分けることは出来ない(その分断のため、以後あらゆる権謀術数が巡らされるのである)。 また、「正義」は民衆の支持を集めており、内戦の勝因もそこにあると評されることが多い。確かに支持者もいただろうが、果たして朝敵になるまで暴走した政権が、どこまで民の支持を集めていたかは疑問である。 この意見書は、萩博物館高杉晋作資料室で十二月初旬まで展示中である。また、他の史料も含め、萩博物館調査研究報告で順次翻刻する予定である。 (『晋作ノート』59号、2023年9月)2023.09.25 13:23
奇兵隊と近衛兵(1) 昭和四十三年(一九六八)の政府主導による「明治百年」には、近代化を美化し過ぎだなどとの批判の声が強かった。その反省もあったのか、昭和五十年代半ばは、官民共同で明治維新の影の部分にスポットを当てようとする動きが盛んになる。 それは私が中学生の頃で、NHKのテレビ番組「歴史への招待」などは、明治初期の長州諸隊の脱隊騒動、久留米藩難事件、広沢真臣暗殺事件、秩父事件等といった、いまならちょっと考え難いコアなテーマを、毎週のように扱っていた。あるいは特別番組として、竹橋事件のドキュメンタリーなども放映したと記憶する。昭和五十五年の大河ドラマで、維新の光と影を描く「獅子の時代」(山田太一脚本)も、そうした風潮が生み出したものだろう。 いま、あらためて岩波新書の一冊として出た田中彰『高杉晋作と奇兵隊』(昭和六十年)などを読むと、当時の空気が感じられて懐かしい。(2) 今年結成百六十年となる長州の奇兵隊と言えば、初代総督を務めた「高杉晋作」が代名詞のようになっている。だが、奇兵隊六年半の歴史のうち、晋作が在籍したのは最初の三カ月ほどに過ぎない。奇兵隊が幕末史上、特異な存在感を発揮するのは、軍監山県有朋(狂介)の影響が少なくないと、私は考えている。 山県は、長州藩の最下級の武士身分である蔵元附中間の生まれだ。苗字は公認されていない。それが松陰門下の末席に加わり、奇兵隊に入り頭角を現す。元治元年(一八六四)十二月、晋作の下関挙兵に始まる藩内戦では奇兵隊を指揮して藩政府軍を大田・絵堂で撃退し、政権奪取に大いに功があった。 つづいて山県らは、軍事力を背景に藩政へと介入してゆく。晋作を含む藩政上層部からすれば、これは封建秩序の破壊だ。だから山県らの動きを阻止すべく干城隊を組織するなどしたが、台頭する諸隊勢力を結局は押さえ込めなかった。 『高杉晋作と奇兵隊』で高く評価されているのが、奇兵隊など諸隊の「会議所体制」である。それは「自律的な指揮体系」の具現化であり、「最高の議決機構」だった。数人単位のリーダーである伍長たちが集まって会議を行い、決めた事を上部へと上げて決定してゆくシステムである。これにより山県は、政治や軍部の指導者となってゆく。奇兵隊および諸隊は戊辰戦争の最前線で戦い、新政権の基盤を確たるものとした。 ところが明治二年(一八六八)十一月、藩は五千人の諸隊のうち二千二百五十人を精選して常備軍とし、残りを解散させるとした。だが不十分な論功行賞、幹部の不正、不公平な精選など、さまざまな問題が噴出。こうして「脱隊騒動」と呼ばれる反乱事件が起こるのだが、結局は藩に鎮圧され、百人を越える刑死者を出して幕が下ろされる。 なお、山県は明治二年六月、賞典禄六百石を受けて事件時は洋行中だった。帰国したのは翌三年八月のことである。(3) 脱隊騒動から九年後の明治十一年八月、山県が陸軍卿と参議を兼ねていた時、「竹橋事件」と呼ばれる兵士の反乱事件が東京で起こる。 近衛兵は前年の西南戦争で、大いに活躍した。にも関わらず、論功行賞は上層部に厚く、兵卒に対し薄かった。他にも徴兵制の不公平など、日ごろからの不満が爆発し、竹橋近くに屯する近衛砲兵二百五十九人が、山砲二門を引き出し蜂起する。首謀者のひとりはフランス革命のネルソンの言葉を引き、政府の不善を改革するのが「革命」とし、肯定した。そこには、当時盛んだった自由民権運動の影響も指摘されている。 隊長を殺した反乱軍は、大蔵卿の大隈重信邸を銃撃。つづいて赤坂離宮に火を放ち、諸大臣を殺害する計画だった。最後は天皇に嘆願しようとするも、結局は鎮圧され、裁判のすえ五十五名が深川越中島で銃殺刑に処された。山県らは反乱計画を事前に察知しており、泳がせて鎮圧した事が分かっている。 事件直後の明治十一年十月に山県は「軍人訓戒」を頒布し、十五年一月には「軍人勅諭」が発せられた。これらにより、兵士は上に対して絶対服従を強いられ、政権批判などは出来なくなった。かつて奇兵隊を「物言う軍隊」にすることでのし上がった山県は、権力の座に就くや、兵士たちの抵抗の牙を、徹底的に抜き取ったのである。(4) 中央集権の過程で起こった脱隊騒動と、廃藩置県や徴兵制などを経て起こった竹橋事件とを比較するのは、容易ではない。もっとも、すでに明治の頃、井上毅などはその類似、相違点ともに論じてはいる。ここでは近年「発見」された、ひとつの接点につき述べておきたい。 竹橋事件で処刑された五十五名の遺骸は、東京の青山陸軍埋葬地に埋められた。明治二十二年二月、大日本帝国憲法発布で大赦令が出たのを機に、正面に「旧近衛鎮台砲兵之墓」と刻む、高さ一メートル半ほどの墓碑が建てられる。後年、墓碑は撤去されて一時行衛不明となるが、昭和五十二年十一月末、青山霊園西端の窪地で発見される。つづいて事件を題材としたノンフィクション、澤地久枝『火はわが胸中にあり』(昭和五十三年)が世に出て、忘れ去られていた事件が注目された。そして説明文を刻む碑が昭和六十二年に建てられるなど、整備されてゆく。 墓左側面には「祭主福井清介 世話人墓地関係一同」とある。『火はわが胸中にあり』では建墓者の福井清介につき、「事件とどんなかかわりのある人物なのか、いまのところ、まったく不明である」とある。 ところが福井清介は山口県出身、東京高輪の公爵毛利家編輯所で、維新史編纂に従事した人物との説が出て来る。しかも、刊行されている唯一の脱隊騒動の史料集である、マツノ書店版『奇兵隊反乱史料 脱隊暴動一件紀事材料』(昭和五十六年)の編纂者と同一人物だと言うのだ。 その書籍の解題、広田暢夫「編者福井清介と毛利家明治維新史編纂事業」によれば、福井清介は明治七年、二十七歳で陸軍省に十五等出仕し、同十五年に十三等に昇任するが、同十九年に非職、同二十二年三月に非職満期で退職する。次の仕事を探していたところ、毛利家編輯所で欠員が生じたので楫取素彦の推薦により、同二十二年十二月に就職した。そして『部寄』と呼ばれる膨大な史料群の中から脱隊騒動の関係史料を抜き出し、史料集を編んだのである。 ところが、清介は編輯所の方針変更により、閑職に追いやられた。しかも明治三十四年十一月、失火により役宅や史料を焼いてしまい、同三十五年六月、依願退職する。広田解題には「その後の福井清介の動静はまったく分からない」とある。 広田解題は、建墓の件には触れていない。毛利家編纂員と建墓者を同一人物と断定したのは、『高杉晋作と奇兵隊』である。そうだとすれば、陸軍省退職の前後に建墓したのだろう。同書では「近衛兵の反乱を陸軍省内部にあってみつめた福井は、毛利家に入って諸隊反乱の史料集を編纂するめぐり合わせとなったが、そこには竹橋事件の反乱兵士を弔う『祭主』福井の鎮魂の思いが、諸隊反乱の史料集の編纂に込められていたのではなかったか」と解釈する。(5) 以前、青山霊園を調査していた私は奇しくも、清介の墓を見つけた。場所は1種イ3号6側で、福井家累代墓と清介夫婦の墓が建つ。 墓誌には福井家初代から十三代及び十五代の霊位は、山口県萩市常念寺で永眠するとある。つづいて十四代の信政(明治十七年没)、十五代の光(大正四年没)ら七名の名が刻まれるが、清介の名は無いから当主ではないらしい。 清介夫婦の墓は、独立している。清介の法名は「西庵清介居士」、没したのは「明治四十一年十二月廿七日」とある。「まったく分からない」とされた毛利家を去った後の清介は六年後、六十二歳で没していた。 それにしても建墓者と史料編纂者の「福井清介」は、本当に同一人物なのか。単なる同姓同名の可能性は考えられないか。不安が残らないわけではないが、以後追究されたとは聞かない。それどころか、脱隊騒動や竹橋事件に対する世間の関心も、かなり薄らいだ気がしてならない。それは、昨今の歴史番組や「明治百五十年」などの姿勢を見ても分かる。 実は反乱兵の墓と清介の墓は、二百メートルも離れていない。私が青山霊園に通いはじめて、今年で四十年になった。その間数え切れない程歩いた道だが、二つの墓を結ぶ糸は私の中ではいまだ、すっきりしないままである。 (「晋作ノート」58号、2023年5月)2023.07.03 12:15
奇兵隊の神様になった松陰(1) 奇兵隊が開いた桜山招魂場(さくらやましょうこんじょう)を前身とする桜山神社(下関市上新地町)には、祭神の名を刻む角材型の霊標(れいひょう)三百九十一基が六列で整然と並ぶ。その最前列中央が二段の台座上に据えられた「松陰吉田先生神霊」で、他の三百九十基の台座は一段だから、一基だけ突出して見える。 もっとも、松陰の霊標がいつ建てられたのかは、はっきりしない。明治四十一年(一九〇八)出版の『防長遺芳』に掲載された桜山招魂場の写真を見ると、松陰の霊標は現状のものとは異なり、しかも台座は一段で他の霊標より若干小さく見える。当地は大戦中の空襲被害を受けたようだから、現状のようになったのは戦後ではないか。 内戦のすえ武備恭順(ぶびきょうじゅん)の藩是(はんぜ)を定めた長州藩は慶応元年(一八六五)七月四日、各郡に一カ所ずつ招魂場を設け、その地域出身の戦没者を祭るよう命じた。こうして設けられた二十の招魂場の大半は山口県各地に形を変えながらも現存するが、松陰の霊標があるのは桜山のみである。たとえば久坂玄瑞や吉田稔麿などの霊標は、桜山と八幡隊の朝日山(山口市)の二カ所に建つ。ビッグネームにもかかわらず、松陰の霊標が複数建てられなかったのは、すでに神格化が進んでいたのも一因だろう。 「安政の大獄」に連座した松陰は安政六年(一八五九)十月二十七日、江戸で刑死した。万延元年(一八六〇)後半頃から、門下の久坂は江戸で諸国の同志に松陰の遺墨を見せたり、配ったりしながら急進的な尊攘運動のシンボルに祭り上げてゆく。 文久二年(一八六二)十一月には久坂たちの努力が実を結び、幕府から大赦令が出て松陰は復権を果たした。これにより長州藩は翌三年一月、松陰の遺骸を小塚原から世田谷若林に改葬する。つづいて四月からは「尊王士気」を「鼓舞」するため、松陰の遺著を藩校明倫館で読ませたりした(『防長回天史・四』)。(2) 他の招魂場で特別扱いされている者がいるとすれば、それは隊の創設者、開闢総督(かいびゃくそうとく)である。たとえば御楯隊の桑山(防府市)では御堀耕助、遊撃軍の峨眉山(がびさん)(光市)では来島又兵衛の霊標が別格である。この理屈に従えば、桜山の中心は高杉晋作のはずだが、晋作の霊標は他の兵士と同規格である。 なぜ、桜山に松陰が祭られるのか。松陰の功績はともかく、戦死者を祭るという桜山の本旨からも、ずれている気がする。 松陰は文久三年六月に結成された奇兵隊とは、当然ながら直接の接点はない。元治元年(一八六四)七月、四国連合艦隊との戦いを前に奇兵隊幹部の赤祢武人(あかねたけと)・山県狂介・福田良輔ら二十一名が団結を誓った血盟書の前文には「癸丑(きちゅう)(嘉永六年〈一八五三〉)以来、国家危急の義につき、松蔭(ママ)先師の素志を以って君公を輔翼奉(ほよくたてまつ)り、皇朝復古の義につき血印同盟に及び候」云々とあり、自分たちが松陰の志の継承者だと述べる。長州における「松陰」のブランド力は、すでに絶大だった。 ただし、それ以外では奇兵隊六年余りの歴史中、祥月命日(しょうつきめいにち)などに松陰に関する祭事が行われた形跡は見当たらない。『奇兵隊日記』の人名索引を見ても、松陰の名は無い。志を継ぐと言いながら、これでは松陰をどの程度敬っていたのか分からない。 『奇兵隊日記』を繰ってゆくと、第二次長州征討さ中の「小倉口戦争一件」慶応二年(一八六六)十月二十七日の条に「朝五ツ時、相(合)図の砲声を聞き招魂場に相揃い、大隊火入、調練相済み、神拝の上、各隊々々素の屯所へ引き取り休息の事」とあるのが、気になった。奇兵隊は同年八月一日の小倉落城以来、小倉城下を占領中である。それでも前日に関門海峡を渡って下関に帰り、松陰の祥月命日に桜山で演習を行っているのだ。ただし日記には、この日を選んだ理由が述べられていないから、単なる偶然かも知れない。(3) 小倉城下を占領した奇兵隊が、本陣としたのは城下東のはずれに位置する、足立山の広寿山福聚寺だった。黄檗宗の名刹で、小倉藩主小笠原家の菩提寺である。 福聚寺は慶応二年八月二日、兵火に遭ったが、本堂と庫裡は焼け残った。僧侶たちは退却し、奇兵隊が入って約半年過ごす。驕(おご)る兵士たちは寺を荒らし、住職が塔頭の禅喜庵に隠していた本尊釈迦如来座像を見つけて、首を落としたりした。『奇兵隊日記』の「足立在陣(慶応三年一月一日~三月二十八日)」を見ると、英彦山(ひこさん)の「賊僧」を捕らえて処刑したり、力士を集めて庭で相撲大会を催すなど、実に荒っぽい。 兵士の無法ぶりは、幹部たちを悩ませた。平成のはじめまで存命だった奇兵隊士中原右衛門七の息子白藤董さんから聞いたところによると、ある日、軍監山県狂介は兵士たちが奪って来た品を出させ、庭に集めて見せしめのため焼いたという。あるいは三十数年前の小倉には、乱暴狼藉を働いた奇兵隊士の虚実入り交じった逸話が、恨みをこめて語り継がれていた。 敗れた敵を、さらに痛め付けるなど武士道に反する行為である。しかし奇兵隊の半分は武士身分、残り半分は庶民だ。そこで武士ではない者に武士道を教え、武士らしく振る舞わせようとする。ここで登場するのが「松陰」だ。何より松陰は、武士道を究めた山鹿流兵学師範である。 私の蔵書中に、奇兵隊文官の長三洲(ちょうさんしゅう)が足立山陣営で大書した、松陰の「士規七則」後半部分がある。軸装されており、本紙だけで縦一三〇、横五九センチという大幅である。サイズから見て奇兵隊が陣中に掲げ、兵士教育に使ったものだろう。もとは双幅のようだが、前半部分が現存するのかは分からない。 テキストとなった「士規七則」は安政二年一月、松陰が従弟玉木彦介の元服に際し、武士道を七カ条に分けて簡潔に説いたものだ。松陰没後、門下生は松陰直筆を直接板に貼り、文字部分を彫り込んで版木を作り印刷、流布させた。直筆には松陰の魂が入っているとの、宗教的理由からである。だから各所に伝わる「士規七則」は白黒逆転の印刷が多い(山口県内では、いまなお小学校校長室などに額装して掛けているのを見る)。 内容はあまりにも有名なので全文は掲げないが、この三洲書は「人古今に通ぜず…」「徳を成し材を達するには…」「死して後已むの…」の後半三カ条に、まとめの「右士規七則、又約して三端と為す…」の一文が続く。そして「右、松陰先生士規七則、丙寅(慶応二年)十二月廿三日敬書于北豊足立山中陣営互帳深処 三洲生」とある。 こうして松陰の説く武士道は、武士ではない兵士たちの精神的支柱になってゆく。維新後、国民皆兵のスローガンの下、徴兵令で集められた兵士に武士道を注入するため、やはり「士規七則」が使われた。陸軍士官学校の教科書にも、全文が掲載されている。松陰は昭和二十年の敗戦までは大日本帝国の軍人を鼓舞し続けた「神様」であり、奇兵隊陣営の「士規七則」と桜山の霊標は、その出発点に位置すると言えるだろう。 (「晋作ノート」56号、2022年9月)2022.10.24 12:23
晋作と蓮根と山荘と(1) 長州藩内での政争に敗れた高杉晋作は下関を脱し、元治元年(一八六四)十一月四日、海路、筑前博多に逃れる。まず、福岡藩の同志と協議して肥前田代へ赴き、佐賀藩に決起を促すも失敗。失意のうちに博多に戻り、郊外の平尾山荘(当時、このような名称はないが)に十日間ほど潜伏し、野村望東の世話を受けたという。 だが、潜伏中のことは史料に乏しく、今日に至るまで虚実入り交じったイメージが一人歩きしている。特に戦前は博多の郷土史家間の「論争」の火種でもあった。一連の流れは、今春発行の『萩博物館調査研究報告』第十七号の拙稿「高杉晋作の平尾山荘潜伏」に書いたので、参照いただければ幸いである。 この間の晋作の動向を伝える史料として私が注目するのは、福岡藩士林元武(泰)の回顧談である。林は亡命中の晋作と行動を共にすることが多かった。福岡藩の弾圧「乙丑の獄」に連座して投獄されるも死罪を免れ、維新後は福岡中学校長などを務め、明治四十三年(一九一〇)七月五日に没した。 林が明治四十一年に残した回顧録(福岡市立中央図書館複製蔵、未刊)には「(博多に来た)高杉を牛町千田方に伴ひ、協議の末、野村望東尼に謀り、仝氏の山荘に移す。当時山荘には同志瀬口三兵衛あり、之を留守し居りたり」とある。当時望東は山荘には居らず、瀬口三兵衛が留守番をしていたという。これだけでも従前のイメージとは異なる。 また、山口県文書館毛利家文庫にも『筑前藩林元武君談話』(未刊)がある。こちらは毛利家編輯員中原邦平が林から直接聴取した筆記録で、時期はおそらく明治後半。晋作の山荘潜伏については、前記のものより格段に詳しい。『調査研究報告』では紙数の都合上要約した山荘潜伏の部分に解説を加え、ここに紹介する(ただし原典は話したままを速記したようで、時々主、述語などが怪しくなり読み難い部分もあるのをご理解いただきたい。また、一部表記などを現代風に改めたりした)。(2) まず、博多に来た晋作につき中原から問われた林元武は、次のように答える。《石倉に宿を取っておりました。そうして二、三日してから博多の櫓門の千(仙)田雪子という、是は千(仙)田一郎と云う天誅組に加わって正義で死んだ男の妹です。それ方へやろうという評議もありましたが、『女子だけだから』というので止めて、『野村望東が居るから、彼所へ話してみよう』と言うて、小鹿の谷という所で、練塀町に野村助作がおる。それへ往って、私共は相談をした》 石倉は博多鰯町の商人石蔵卯平方。仙田は福岡を脱藩して長州軍に加担するも、捕らえられ、この年八月獄死した。 野村助作は弘化元年(一八四四)生まれの望東の孫(血縁なし)だが、元治元年七月の「禁門の変」後、禁門警衛の命を受け留守にしていた(谷川佳枝子『野村望東尼』平成二十二年)。のち「乙丑の獄」に連座して慶応三年(一八六七)八月に獄死している。 助作の祖父貞貫が弘化二年(一八四五)に致仕後、妻の望東と移り住んだのが城南に位置する山荘だった。貞貫は安政六年(一八五九)、五十四歳で没し、望東は受戒剃髪する。野村家(三三〇石)所有の山荘を利用するには同家の許可が必要だったのは当然で、こうした感覚も従来見落とされがちである。(3) それから林たちは野村家に行き、山荘借用の許可を求める。《「お前方の向が岡の茶室が明ておるから、アレを貸してくれることは出来まいか。しかしこれは内々にして貰わぬと、長州へ対しても済まぬから」というようなことで、またこの方にしても、「浪士どもが来ておるということを、世間へ漏らしてもならぬ。内々貸して貰いたい」と話をすると、野村助作の妻は建部という人の所から来ておる、建部武彦の娘です。それから「あなた方の事だから、承知せにやァならぬけれども、高杉という人は年齢も若いし過激党で、何事か容易あらぬ事を企謀でる。平生粗暴などいう話も聞いておるが、どうか」と言う。「誰から聞いたか」と言うと、「瀬口から聞いた」と言うようなことで、「そんな馬鹿なことはない」「しかし新茶屋へ往ったり、柳町へ往くなどという話もしよった」「そんな細かな事に構う人ではない」などと色々話をして、かの所(平尾山荘)は関口三平(瀬口三兵衛か)が大砲を持ち込んで、大砲の打ち試しをするというために借りておった。今、関口はおらぬということで、ちょっとした数寄屋などもあり、なかなか宜しい所です。向が岡と称える所で、それから段々話をして、「それなら宜しうございます。それでは瀬口が居りますから、瀬口を用足しに附けて置く」ということになった。瀬口は足軽の隊長です》 晋作の潜伏を嫌った助作の妻は、建部武彦の娘だという。建部もまた「乙丑の獄」で切腹させられることになる、大組頭の士(七〇〇石)だった。 瀬口三兵衛は藩の奥坊主だったが、早くに父母を失い、家業を継ぐを好まず、二十一歳で軽卒となるが、いくばくもなく退隠。望東から歌の手ほどきを受けていたという。やはり「乙丑の獄」に連座して斬られている。(4) 林たちは、山荘に起居していた瀬口三兵衛に晋作の世話を頼む。《私共の方から飯など食わして置たが、どうも足らぬような様子で、彼を使うことにして、「マア、長くとは言わぬ。四、五日のことで、宜しうございますから、貸して貰いたい。そうして賄いも香の物でも、何でも宜しかろう。滞在中のお世話でもやって下さい」というように頼んで、ようやく承知をした》 晋作の山荘潜伏は結局、十日ほどになったが、当初は四、五日を考えていたようだ。そして、いよいよ晋作が山荘に移る。《高杉も来て見ると「見晴らしも好い、極く宜い所だ」と云うて大気に入り大層歓んで、寒い時分だから炉に火を焚いて瀬口と二人で瀬口が若党のようになって働いておる。「蓮根が嗜きだから、蓮根を食わそう」などと取り持っておる中に、望東尼という婆々の話も出て、望東尼の方でも「そういう人なら面白かろう、いっぺん伴れて来て下さらぬか」という話もあり、高杉も望東尼の神の遣身の大和魂などという歌を見て、しきりに大和魂の歌を詠んでおったが、無論慷慨家であったのです》 晋作が蓮根好きだったというのも、初耳だ。生活感があって面白い。そしてここに初めて、望東が登場している。望東は当時、練塀町の野村家で暮らしていた。望東ありきで、山荘が潜伏先に決まったのではないようだ。山荘で起居する晋作に、望東が興味を示す。一方、大隈言道門下でもあった望東の歌に晋作も興味を持つ。《それから高杉が「これは筆力といい、慥っかりしたものだ」などというようなことで、そのうちに望東尼が来て話をする。「あなたも練塀町へお出でなされ」と云うて伴われて来る。その時に洗蔵(月形)もやって来たが、洗蔵や私どもが中へ立って往き来きするようになったのだが、「高杉という人はなかなか愉快な人で、チヤンコは出来ておるけれど、英雄だ」などという話が度々出て、それから懇意になった。逢って見ると豪い男だから、望東尼も大いに悦んで、歌を詠んで見せる。高杉も「こういう詩を作った」と云うて聞かせる。酒を飲んだりして、二、三回も往来しておると、高杉も毎日暇だから話に出掛ける。そのうちに、「あなたみたような人物は一度も未だ妾は見たことがなか」と云うので、大はまりにはまり込んで来た》 最初は望東が山荘に晋作を訪ねたように読めるが、交流の大方は練塀町の野村家で行われたようである。山荘から練塀町(現在の地下鉄桜坂駅あたり)までは、徒歩二十分くらいか。これを晋作はたびたび往復して、望東と交流を深めたのだろう。 その後晋作は帰国して挙兵し、内戦のすえ政権を奪い、第二次長州征伐軍を相手に戦ったすえ、慶応三年四月、下関で病没した。享年二十九。望東は「乙丑の獄」で玄界灘姫島に流されたが、慶応二年九月、脱獄して長州藩に迎えられ、翌三年十一月、三田尻で病没した。享年六十二。(6) ただし、林の回顧録にも引っ掛かる部分はある。晋作が山荘潜伏後に田代へ赴いたとするのは、林の単なる記憶違いだろう。問題なのは、林らが薩摩の西郷隆盛を山荘に連れて来て話したとか、そこへ酔った晋作がやって来て「芋掘男め」と怒鳴り散らした話が出て来ることである。 福岡藩士が尽力して、西郷と晋作を山荘で会談させ、それが薩長提携に繋がったと紹介したのは、「福岡県士族」の江島茂逸が著した『高杉晋作伝入筑始末』(明治二十六年)が最初だと言う。しかし検証の結果、今日では「創作」の域を出ないとされる。史料を見ると西郷は広島などにおり、山荘での会談は物理的に無理があるように思える。 福岡藩は慶応元年(一八六五)の「乙丑の獄」で人材を枯渇させるなどして、「維新のバス」に乗り遅れてしまう。そこで、明治維新における福岡の功績を強調するため、山荘での会談という「創作」が生まれたと考えられる。以後一部の福岡人たちは政治的思惑もあり、頑なに「創作」を「史実」として主張し続けた。福岡出身の政治家金子堅太郎にも語らせ、小学校の「修身」の教科書にも掲載されたことは『調査研究報告』の拙稿で述べたとおりである。 そうした中、林が山荘での会談を否定することは難しかったのだろう。それが林の限界だったのかも知れない。ただ、晋作の山荘での生活、望東との交流の部分は特に政治的意図が感じられない。元来、歴史編纂が目的の取材なのだから、林も誠実に対応したのではないか。当時を具体的に語る史料として重視して良いと、私は考える。 (「晋作ノート」55号、2022年5月)2022.06.08 12:17
高杉晋作の平尾山荘潜伏 「歴史」のある一コマが「名場面」として切り取られ、一定のイメージをもって語り継がれるケースは、枚挙に暇が無い。ところが、その根拠を探ってゆくと、後世の創作ではないかと疑いたくなるケースも、また少なくない。 高杉晋作伝記の「名場面」のひとつに、元治元年(一八六四)十一月の九州(筑前)亡命、平尾山荘潜伏がある。だが、当「名場面」は、どこまで「実像」を伝えているのだろうか。本稿ではこの部分をあらためて検証し、「名場面」と化していった背景なども考えてゆきたい。『近世紀聞』の挿絵 高杉晋作は慶応三年(一八六七)四月十三日、二十九歳で病没した。明治初年、その伝記は私が知る限りでは京都の文求堂から出た『志士小伝』(明治三年)などに略歴が掲載されている位で、九州亡命につき特に見るべきものは無い。九州亡命を「名場面」とした最初は、染崎廷房・條野傅平共著『近世紀聞』ではないか。同書は嘉永六年(一八五三)のペリー浦賀来航から明治十年(一八七七)の西南戦争に至る、「明治維新」の通史を平易に叙述した挿絵入りの政治小説である。明治八年から十四年にかけて全十二編(各編三冊)の和本で出版され、広く読まれた(明治十九年の洋装合本縮刷版などもあり)。著者染崎は島原、條野は江戸出身のジャーナリストだ。この第七編巻一(明治八年)に晋作の九州亡命、平尾山荘潜伏が次のように描かれている。彼の俗論党の輩が三国老を幽するの時、高杉をも倶に捕へて禁獄なさんと図りしを、高杉僅かに身を脱れて筑前の国に走り、野村望東の許に到り、姑く危難を避ん事を請ふに、此望東と喚るゝは福岡の藩士たる野村貞貫の妻にして初めの名を阿元と言ひしが、夫貞貫没して後薙髪して尼となり、名を望東と称しつゝ(中略)頗る女侠なるをもて高杉とも相識る中ゆゑ、更に一議に及ぶべくもあらず。竊に其身を別室に匿ひ、百方これを回護せし故、稍危きを免かるゝに至れり。 晋作は下関を脱し、元治元年十一月四日、海路博多に逃れ、福岡藩の同志と会談後、肥前田代へ赴き、佐賀藩に決起を働きかけるが失敗した。それから博多に戻り、十一日か十二日ころ平尾山荘に潜んで、二十一日まで過ごす。 望東は四十二歳の時、夫の福岡藩士野村貞貫が致仕したので城南の平尾山荘に転居した。安政六年(一八五九)、五十四歳の時、夫が亡くなり、受戒剃髪する。歌人であり、勤王の志があつく、平野国臣や中村円太ら福岡の政治運動家たちとも交流した。慶応三年十一月六日、周防三田尻で没、享年六十二。明治二十四年に靖国合祀され、正五位を追贈されている。 『近世紀聞』は、九州に逃れた晋作が真っ先に平尾山荘を訪ねたように描く。また、晋作と望東が旧知の間柄だったような記述もある。ただし、いずれも史実とは認め難い。それでも『近世紀聞』はこの逸話を見せ場にしており、関連の挿絵を口絵と本編中に二点も載せる(図版①②)。②の晋作は落人ふうだ。望東は黒髪を下ろしてはいるものの、妖艶な雰囲気すら漂う。『教導立志基』のひとつとして 明治になり出版された、晋作を題材とした錦絵を私は三種確認している。最も知られるのは、教訓絵の『教導立志基』シリーズ(明治十六年~二十三年刊。全五十種)の一枚、晋作が望東を訪ねる場面を描く大判錦絵だろう(図版③)。同シリーズは数人の浮世絵師により描かれたが、「晋作」の作者は月岡芳年門下の水野年方である。出版は「御届 明治廿三年十一月 日」「画兼出版人 両国吉川町二番地 松本平吉版」(刊記無しの版もある)、解説には「氏僅に脱して筑前に走り、同志者野村望東女が家に匿る」云々とある。 絵柄は『近世紀聞』挿絵(図版②)がモデルなのは明らかで、晋作は落人ふうである。現代人が晋作に抱きがちな、若く颯爽とした印象とはほど遠い。それに現代なら晋作伝記の「名場面」と言えば九州亡命ではなく、下関での挙兵や小倉口の戦いなどが選ばれそうだ。事実、平成元年(一九八九)十二月、日本テレビ系で放映された大型時代劇「奇兵隊」では九州亡命のシーンは無く、ナレーションで片付けられていた。 だが、「教導立志」がテーマの当錦絵は、逆境に立ちながらも機をうかがい、ついには逆転するといった「教訓」を、九州亡命により説こうとする。絵の主題をより鮮明にさせるなら、逆境の晋作は疲れ切っていた方がよい。 明治前半の日本は、西洋からの理不尽な要求に屈することが多かったせいもあり、堪え忍ぶことを美徳とする空気が特に強かった。明治二十八年、日清戦争後の「三国干渉」に対する「臥薪嘗胆」は、その最たる例だろう。晋作の錦絵にも、そうした世相が反映されているのかも知れない。なお、同じ頃、三条実美ら七卿が文久三年(一八六三)八月の政変で都落ちする場面が「明治維新」を象徴するかのごとく多数描かれた。三条は王政復古後、太政大臣となるから、まさに大逆転劇である。だが、七卿落ちも現代では忘れ去られた観があるから、感動、共感のポイントは百何十年前と現代とではかなり違うようである。『高杉晋作伝入筑始末』と江島茂逸 『近世紀聞』『教導立志基』は言わば東京発の情報で、晋作の九州亡命を題材とすることに政治的意図があったとは考え難い。ところが、「名場面」になった九州亡命に、福岡人が政治的意図を携えて乗って来る。それは、幕末から明治初年にかけての福岡藩の歴史と深く係わる。 幕末の筑前福岡藩主黒田長●は第一次長州征討を不戦解兵で終わらせるため、家臣に長州藩の激派を説得させるなどして尽力したが、そのため幕府の嫌疑を受けた。長●は慶応元年十月、みずからの意に反して長州藩に接近する家臣たちに対し、大弾圧を行う。いわゆる「乙丑の獄」で、切腹七名、斬首十四名、その他多数が処罰された。まもなく王政復古が実現したが、人材を自らの手で葬った福岡藩は、中央に要人を送り込めなかった。それどころか新政府は明治四年、廃藩置県直前、贋札事件を理由に知藩事黒田長知を罷免するなどして福岡藩を解体する。福岡にとり「明治維新」は痛恨の歴史となった。「乙丑の獄」さえ起こさなければ、福岡は薩摩・長州と肩を並べ、新政府の一翼を担ったとの思いは、その後の福岡に根深く残る。 だから福岡人は、福岡藩中心の「維新史」を構築し、自分たちの功績を懸命になりアピールした。中でも黒田長●や野村望東・中村円太の伝記など多くの福岡幕末史を著したのが、「福岡県士族」の江島茂逸である。江島は明治二十六年、『高杉晋作伝入筑始末』(A5判、百四十ページ。以下『入筑始末』と略称す)を東京の団々社書店・陽涛館から上梓した。 『入筑始末』は単行本の晋作伝記としては、最古の部類に属する。ただし、江島の目的は、単に晋作の事績を伝えるというものではない。九州亡命、つづく長州藩の内訌と政権交代、薩摩藩との提携などに福岡人がどれ程貢献したかを、世に訴えることだった。クライマックスのひとつは平尾山荘潜伏で、ここで晋作は望東や福岡藩士月形洗蔵・鷹取養巴らの仲介で薩摩藩士西郷隆盛と会い、酒を酌み交わし、談じたことになっている。以下同書より引用する。月形・鷹取は之を機として数々西郷に面会し、遂に同氏を誘ふて高杉が平尾の山荘に案内したり。高杉は始め薩人に面会することを強て否みしも、後にハ心解けて西郷と会合したり(中略)西郷・高杉及び其他の人々は共に環坐談笑に時を移せしも、イザ近野に逍遥して野興の趣味を試みんとて一同望東尼の山荘を出で、獲ものゝ松茸を下物として林間に酒を温め、閑歩閑吟の間に時事をも交へて談じつゝ、互に心を郊外の清遊に養ひたり。 結論から言えば、山荘での晋作・西郷会見はフィクションである。まず、会見を裏付ける当時の史料が無い。また、晋作が山荘潜伏の頃、西郷は広島や岩国で奔走中だったことが現在では史料から判明しており、会見は物理的に成立し難いようだ。それでも『入筑始末』は、会見場面を次のようにしめくくる。此日は各々詩歌の秀詠などもありし由なれども、今散佚して伝わらず。誠に惜むべき哉。其後、高杉は痛く西郷に密会したることを秘し呉れよとのことを申せしに、此会合の秘密は勿論、我々が先生に会することも世に知られては一大事なり、併し今日の秘密は他日公然の種子なるべしとて鷹取は高杉に答へたりとぞ。 先回りするかのように、史料が無いと釈明しているところと見ると、江島も一抹の疚しさは感じていたのではないか。ここに登場する人物は、明治二十六年時点で全員没しているから、証人もいない。ではなぜ、会見を創作したのか。最終項「薩長和解の概略」には文久三年(一八六三)冬から「薩長和解の論」を唱えていた福岡の月形や早川勇が晋作・西郷を会見させ、薩長提携に至った旨が述べられている。薩長人が明治政府で権勢を誇ることが出来るのは、実は冷遇されている福岡人のお陰だと主張したいのだろう。それは必ずしも、間違いではない。しかし、「名場面」になっていた晋作の九州亡命に西郷との会見を加えたのは、政治的意図による「歴史」の「捏造」である。 晋作・西郷会見は、早くから物議を醸し出した。たとえば三宅竜子『もとのしづく 贈正五位野村望東伝』(明治四十四年)は、晋作の九州亡命の部分を『入筑始末』を下敷き(ほぼ丸写し)にしながらも、次のように注記する。西郷・高杉の会合いづれも無根のよしいふ人多かれど、今も存生せる人にてこの事をまことのよしいふもあり。とにかくかきつたへたる其まゝを、こゝにしばしはかきおくにそ。(六八頁) 三宅竜子が明治四十四年時点で「存生せる人」に気遣い、会見を肯定的に書いたことは明かである。それでもなお、引っ掛かるものがあったから注記を加えたのだ。その、「存生」していた関係者とは、誰だろうか。吉村清子と晋作 『入筑始末』の凡例には早川勇・林元武・帯谷治平・吉村清子ら当時の関係者から取材した旨が述べられている。唯一の女性である吉村清子は同書によると「皇学者吉村茂右衛門千秋の女なり。此時年僅に十四」で、山荘潜伏中の晋作に「食膳を進めしめ」たという。ある時、晋作から「阿嬢も亦大和心を持てるや」と問われるや、「我もまた同し御国に生れ来て大和心のあらさらめやは」と詠んだ。晋作は「扨も感すべき阿嬢なるかな。これも亦望東尼の薫陶に依るべし」と、大いに称賛したともいう。後年、清子は山路重種に嫁いだが、重種は明治三十年十月に病死した。 清子存命中、甲斐信夫『山路スガ子』(大正四年)が出版されている。巻頭に「おばあさまのおものがたりを、おばあさまによんでいたゞきます 孫 千鶴子」とあり、発行者は東京市赤阪区の「吉村千鶴」になっている。孫が清子の生涯を「甲斐信夫」に書かせ、出版したものだ。ただし、九州亡命に関して言えば、新しい史料などはまったくない。二十余年前の『入筑始末』にあった、清子が晋作に歌を示す逸話はもちろん出て来る。さらに『入筑始末』よりも、晋作との交流の濃度がかなり増す。たとえば、山荘での晋作と福岡の同志との会談に清子も加わっており、次のようなやり取りが展開する。高杉 清子殿、御許の考へは…清子は驚ひた列坐の諸士も案外の顔色。清子 女性(ルビ・おなご)の妾には分り兼ねます。高杉 左様でない。只御存寄を聞きたい。先づ一坐中最年少の御許から年齢順じや。ハッハ…軽くうち笑ふ。興に乗じての戯れ七分と見た清子、遠慮なしに答へた。 といった具合に、芝居の台本ふうに話が進む。『山路スガ子』は「物語」だが、「関係者」存命中にある意図のもとに書かれたようだから、もう少し見ておく。本編には山荘での晋作・西郷会見は無いが、補遺の中には登場する(一二一頁以下)。清子の尽力で明治四十一年、失われていた山荘の建物が復元された。その傍らに建てられた、山荘の由来を刻む碑を紹介した部分である。七卿のひとりで、当時は「正二位勲一等伯爵」の東久世通禧が執筆したという碑文中に、次の一節がある。元治中、長藩高杉春風亦来潜伏於山荘、論天下之事、蹶然起定其藩訌、而筑之志士、又謀薩長両藩之調和、先延西郷隆盛於山荘以発其端、顧春風不起、則長防之事不可観焉、薩長不和、則天下之事不可測焉、而見其機顕其微者、毎在於山荘、可謂奇●(ム矢) つづいて枢密顧問官で子爵の金子堅太郎が、同碑除幕式に寄せた式辞を紹介するが、その中に、高杉晋作、西郷隆盛ト一夕相会し、以テ薩長二藩ノ連合ヲ●フシ王政復古ノ大業ヲ啓キシ処モ亦此山荘ナリシト云フ。而シテ野村望東尼実ニ此山荘ノ主人タリ とある。清子は、金子を通じて碑文の拓本を皇后のもとに届け、碑文に「箔づけ」してゆく。それは当時高まっていた、会見を疑問視する声に対抗する意図もあったのかも知れない。しかし、史料を示し議論するのではなく、権威、権力を頼り、優位に立とうとしたようにも見える。 大正二年春に上京した清子は内田山(現在の東京都港区六本木)の侯爵井上馨邸で晋作の未亡人政子(マサ)と会い、「先年は宿か色々御世話になつて」との言葉をかけられたという。感慨のあまり清子は「夢にだに二度むすぶよしもがな とふ事かたき庭のやり水」と詠じた。政子は晋作の書簡断簡を、清子の求めに応じて贈っている(『久坂玄瑞史料』〈平成三十年〉七七八頁以下)。しかし政子が、生前の晋作から清子のことを聞いていたとは考え難い。 山荘に出入りしていた清子が、晋作の世話をしたとの話の大半も後年、清子自身が語ったもので、鵜呑みに出来ぬというのが正直なところである。大正元年七月十五日、七十一歳で没した江島が進めた、福岡藩中心の「維新史」づくりの継承者が清子だったと、私は見る。目的のためには虚実はともかく、長州の英雄「高杉晋作」の名は必要だったのだ。『筑紫史談』の中の批判 歪んだ郷土愛(あえて、呼ばせてもらう)による歴史修正、捏造、牽強付会は現代に至るまで全国各地で後を絶たない。多くは滑稽なほど視野が狭隘で、理屈よりも感情を優先するから攻撃的になり易い。だが、望東顕彰の場合は非難の声が、福岡からも起こったことに注目したい。 筑紫史談会の機関誌『筑紫史談』は大正三年四月から昭和二十年六月まで全九〇集が発行されたが、望東顕彰を問題視する記事がいくつか掲載されている。それは、①中島利一郎「高杉晋作と筑前」(九集・大正五年)、②同「高杉、西郷は会見せずといふ説の補遺」(一〇集・同前)、③大熊浅次郎「贈正五位野村望東 平尾山荘碑文誤謬の考證」(七一集・昭和十二年)などである。 ①は長州を脱し、九州で奔走して帰国するまでの晋作の足どりを、史料を細かく挙げながら追ってゆく。特に山荘での西郷との会見は「可成り人口に膾炙して、殊に筑前では、全くの事実として信じられてゐる。けれども歴史事実として、果たしてそれが信であつたか、どうかに就ては、なお一考を要するのである」として、最も多くの紙数を費やして検証する。 まず、会見を裏付ける当時の史料が無いとした上で、「西郷・高杉会見説を学界に始めて提供したのは、故江島逸翁であつた」とし、『入筑始末』から引用する。ところが江島も明治二十七年八月、ある人から質問を受けて「平尾山で西郷が会うたは、一向に分りません。けれども、逢うたには相違ない。高杉は二十日許り逗留して居りましたから」と返答しているのを『史談会速記録』四十三号から引用して、「江島翁と雖も、両者の会見について、自ら確信をもつてゐなかつた事がわかる」とし、「事実に於て西郷・高杉は筑前で密会すべき機会を有しなかつたのである」と、結論づける。つづく②では福岡藩士喜多岡勇平の日記や西郷書簡を検証し、主に西郷の動きから会見を否定する。 ③の著者大熊は地元の郷土史の大家で、生前の江島とも交流があり、また建碑の事情にも通じていたので、関係者による一種の暴露譚の趣がある。晋作・西郷会見を否定するのは中島利一郎と同じだが、「碑文誤謬の論議は、従来単に西郷・高杉会見説の真偽のみに存せしが、一方月照駐錫説の誤謬に至りては、近年に至るまで世人の注意を惹かず」と、別の部分も問題視する。これは碑文にある「安政の大獄」で京を脱出した月照が薩摩へ赴く途中、山荘に匿われた旨が、創作だとの指摘である。 また、碑の建設事業は明治二十年代半ば、江島主唱で始まったが、なかなか進捗せず、ようやく明治四十一年、清子により実現したとも言う。複数の問題を含む碑文はこの間に出来たものだが、その著者は実は表面に出た東久世通禧ではなく、「原案」は江島、「翻案し撰作」は福岡日々新聞の初代主筆宮城坎によるとも明かす。そして「固より史実の誤謬に至りては、伯(東久世)の存知せざる所」だったことも、述べる。春山育次郎の指摘 大熊浅次郎と親交があり、③にも登場する福岡の郷土史家春山育次郎もまた、江島や清子による望東顕彰を批判した。春山は著作『野村望東尼伝』(昭和五十一年)で、晋作の山荘潜伏につき次のように述べる。 高杉が平尾の山荘に寄托したる時の事実は、従来幾多の伝説あり。刊行せられたる史書伝記の類多く之を記すけれども、概ね牽強付会の談より成り。実際は望東尼は暫く帰つて本宅にあり。独身者の瀬口留守を預りて監守し、他の耳目を避けるに都合好かりしが為め、高杉は寄托して足を留めたるのみ。元来六畳一間の表座敷に三畳二畳の二間あり、都合三間の狭ば苦しき草庵にして、女中小者の如き人を容るゝ余地ある住居とは異なる。(一八七頁以下) 春山の経歴については、大熊が『筑紫史談』四九集(昭和五年)に寄せた追悼文に詳しい。それによると春山は慶応二年(一八六六)に鹿児島城下で生まれ、東京の専修学校で経済学を学び、大阪で経済学を講じながら史学を修めた。のち福岡に移り、福岡藩の維新前後や人物を研究し、貝原益軒全集や平野国臣伝を出版する。昭和五年四月二十四日、六十五歳で没した。 大正末年、春山は福岡市内の女学校で組織された向陵会の依頼により望東の伝記を執筆、完成させる。ところが向陵会は一部修正を求め、春山が応じなかったため出版は中止になったという。その原稿は散逸したが昭和四十二年、福岡市の古書店で見つかり、昭和五十一年に文献出版から『野村望東尼伝』としてようやく出版される。望東会長進藤一馬が刊本に寄せた序文では執筆当時、出版されなかった理由を「あまりに率直な学術的論調のため」とする。「率直な学術的論調」こそ、正確な伝記執筆には最も必要な要素だろうが、それが理由で出版中止になったとすれば、当時の望東顕彰の中の歪んだ郷土愛的な性格がうかがい知れる。 春山没後に大熊が編集、出版した『春山育次郎回顧録』(昭和六年)に収められた中村能道「益軒・国臣・望東三伝に就て」には、春山が指摘したという望東顕彰の問題点を四点掲げているが、うち三点は清子が行った平尾山荘の復元、整備に関する次のような内容である(四三頁)。一、山荘趾に山路すが子女史の独力を以て建てられたといふ、石碑は其の碑蔭の文が歴史的事実に相違せることを書いてあつて、天下後世を誤るものであるから、之を全然撤廃するか、少なくとも山荘の境外に移転すべきであるといふこと。一、山荘の建物は旧家屋とは大なる相違があるから、出来る丈け忠実に旧家屋通りに改築すべきであるといふこと。一、山荘の庭園は一木一石と雖、尼が多年苦心経営せられしものであるから、是れも亦忠実に復旧を計るべきであるといふこと。 このような指摘がなされたりして、さすがに向陵会でも望東顕彰の見直しが検討され始める。大熊は③で、次のように述べる。山荘碑文史実の誤謬に就ては、曩に世上の問題となり、近時向陵会に於ては之れが撰文改訂の議台頭し、或は之れを取毀ち新たに改訂碑を建つべしと云ひ、或は碑文の一部を改竄すべしと云ひ、又は之れを伝説として現碑を保存すべしと云ひ、其議懸案となりしが、結局は別に改訂碑を建設すべしとの議に一決せりと聞及べり。 だが、山荘の建物も碑も、改められることはなかった。春山が没した昭和五年は世界大恐慌の波が日本に押し寄せ、翌六年には満州事変が起こり、きな臭いムードの高揚とともに、福岡では望東が盛んに女子教育の教材に使われる。そうなると史実よりも、フィクションの方が利用しやすかったのだろう。 さらに決戦体制下の軍国主義的教育が進む中、昭和十七年度採用の国定修身教科書(初等科修身四)に「野村望東尼」の一篇が収録された。これは、晋作が月形洗蔵に伴われて山荘を訪ね、望東に迎えられる場面に始まる。そして「小倉まで来てゐた薩摩の西郷隆盛を晋作とあはせるようにしたのも望東尼であつた」「山荘での会見で、二英雄の意気があつて、勤皇討幕の実をあげる薩長聯合の力強い大綱が用意されたのである」といった逸話を紹介した後、「女の身ながら、勤皇の精神にもえた望東尼の一生は、なんといふかがやかしいことであろう。平尾山荘は、今もなほ人々の心をはげましてゐるのである」と、しめくくる。碑文を下敷きにしたような話が「国定修身教科書」に掲載されてしまったから、改訂など出来なくなったのではないか。清子らによる「箔づけ」と「修身」の関係は不明である。だが、まったくの偶然とも思えない。いずれにせよ、ここに至り望東は福岡ローカルではなく「日本女性の鑑」にされてしまった。 林元武の回顧録 筑前における晋作と望東の交誼は小説や錦絵、江島や清子による創作に振り回されることなく、一旦リセットして整理する必要があるだろう。 九州亡命中の晋作の書簡は十一月十四日、長州にいる義弟高杉百合三郎(南貞助)にあてた一通(『久坂玄瑞史料』七七四頁以下)が確認されているが、「此節は筑藩に潜居、天地之周旋致居候」などと知らせるものの、望東や山荘については一言も触れていない。 『入筑始末』でも名が挙がった、当時を知る関係者のひとりに林元武がいる。福岡藩士の林は「乙丑の獄」に連座して投獄されたが、死罪を免れ、維新後は福岡中学校長などを務め、明治四十三年七月五日に没した。林が明治四十一年に残した回顧録(福岡市立中央図書館蔵)によると、九州亡命中の晋作と行動を共にする機会も多かったようだ。博多に戻った時の晋作の様子を林は「高杉を牛町千(仙)田方に伴ひ、協議の末、野村望東尼に謀り、仝氏の山荘に移す。当時山荘には同志瀬口三兵衛あり、之を留守し居りたり」と、簡潔に語る。 さらに詳しい記述が明治半ば頃、毛利家編輯員中原邦平が採取した『筑前藩林元武君談話』(山口県立文書館毛利家文庫蔵)にある。それによると林らは博多に戻って来た晋作を最初、櫓門の仙田雪子(長州軍に加わり死んだ仙田一郎の妹)方で匿おうとしたが、「女子だけだから」と断られ、野村家の「向が岡の茶室」に着目する。これが、平尾山荘である。林らは練塀町にあった同志野村助作(望東の孫。当時上京中)宅を訪ねて交渉し、使用許可を求めた。助作の妻が難色を示したりしたが、結局は許可される。 当時、山荘は大砲の「打ち試し」のため、「関口三平」(瀬口三兵衛か)が借りていた。林らは瀬口三兵衛に晋作の世話などを頼み、訪れた晋作も「見晴しも好い、極く宜い所だ」と、気に入る。瀬口は晋作の「若党のやように」なり、晋作が蓮根を食べたいと言うと、調達したりした。 そのうち「望東尼と云ふ婆々の話も出て、望東尼の方でもそう云ふ人なら面白からう。一遍伴れて来て下さらぬか」となる。晋作も望東の歌を見て興味を抱く。「其中に望東尼が来て話を」し、つづいて晋作が練塀町の野村家を訪ねる。この時は月形洗蔵も同席したという。望東尼も大に悦んで、歌を詠んで見せる。高杉も斯う云ふ詩を作つたと云ふて聞かせる。酒を飲んだりして二三回も往来して居ると、高杉も毎日暇だから話に出掛ける。其中にあなたみたやうな人物は一度も未だ妾は見たことがなか、と云ふので大はまりにはまつた。 林の回顧録によると、晋作が望東と交流したのは山荘というよりも、練塀町の野村家である。また潜伏先が山荘に決まった理由も、望東ありきでは無いようだ。そうなると、山荘の「史跡」としての在り方はいまなお誤解を与え、中島・春山らの指摘も含め、多くの問題を抱えていると言わざるを得ない。 ただ、林も晋作が山荘で西郷と僅かにだが会った旨を述べており、問題を残す。福岡人林の当時の立場が、そのように言わせたのだろうが、この点については別の機に考えたい。清子については最後に中原邦平が「平尾山に小さい娘が居りましたか」と問うと、林は「あれは須賀子とちくし、望東尼の歌の弟子です」とだけ答えている。中原が清子(須賀子)の数々の「証言」を疑問視していたことを、うかがわせる。なお、林は晋作が山荘潜伏後に田代に赴いたと語るが、これは単なる記憶違いだろう。 春山も、晋作の九州亡命時、望東は練塀町で起居し、山荘は瀬口に託していたと繰り返し述べる(『野村望東伝』一八七頁以下)。月形の叔父の長野誠が明治二十二年に編んだ『筑前志士伝』(福岡市立中央図書館蔵)の瀬口の項にも「高杉晋作春風来奔シテ平尾村ニ匿レシ時、志士善和(瀬口の諱)ヲシテ侍セシメ、炊爨ヲ執ラシム」とある。さらに『山路すが子』にも望東の使いとなった清子が、嫌がる瀬口に「朝夕の御給仕」を依頼する場面がある(三一頁以下)。翌年、瀬口は「乙丑の獄」に連座し、二十九歳で斬首された。 晋作が望東にあてて「先日御厄害に相成候儀千万奉恐入候」云々と何かに対する礼を述べた短い書簡があり(福岡市立博物館蔵)、年は無く、月日は「十一月廿七日朝」になっている。この書簡は「元治元年」の、山荘潜伏の礼を述べたものと解釈されることが多い。私もその可能性が高いと思うが、絶対だとも言い切れない。慶応二年九月十六日、望東は姫島の獄を脱し、翌日、晋作がいる下関に迎えられたから、「慶応二年」の可能性も考えられなくはない。 春山の望東伝で紹介された慶応二年十一月七日、望東が下関から福岡の家人にあてた書簡(三三四頁以下)は「高杉ぬしは我山里に隠れすまれしむかしのゆかりに」と、晋作の山荘潜伏に触れる。また、「長も高杉一人の力にてかゝる国柄となりたるさまになん、誠に\/日本第一の人と、こゝの人も山中あたりもいひ侍れ」と、絶賛する。両者間に信頼、尊敬の念が芽生えていたことは確かなようだ。 なお、晋作と西郷は元治元年十二月十二日、下関で会見したとの説もあるが、これは梅渓昇「馬関挙兵直前における高杉晋作の心情」(『日本歴史別冊 伝記の魅力』昭和六十一年)などで検証されているから、今回は触れない。また、晋作の山荘潜伏については全晋連発行『晋作ノート』55号(本年五月発行予定)にも書くつもりなので、併せてお読みいただければ幸いである。 (『萩博物館調査研究報告』17号・2022年3月)2022.04.25 12:06
久坂玄瑞とある土佐人久坂玄瑞とある土佐人以蔵が斬った男 幕末、土佐の岡田以蔵が京都で、幕臣勝海舟の警護を務めたこと時のこと。寺町通りで三人の刺客に襲われたが、うち一人を以蔵が「真っ二つ」に斬り、あとの二人は逃げたと、後年海舟は『氷川清話』で語っている。勝新太郎が以蔵に扮した映画「人斬り」(昭和四十四年)では、長州の久坂玄瑞が放った刺客となっていた。久坂云々はフィクションとしても、その正体は反幕的な「志士」だろう。だが、維新後「殉難者」として顕彰された「志士」の中に、適当な者が見当たらない。斬られた刺客は、何者だったのか。 この件につき、インターネット「またしちのブログ(二〇二〇年二月)」に、以蔵が斬ったのは土佐脱藩の豊永伊佐馬(高道)ではないかとの興味深い指摘、考察がある。 豊永伊佐馬ならば「殉難者」として従五位を追贈され、靖国神社にも合祀されている。天保十二年(一八四一)、土佐郡細工町に生まれた豊永は、寺石正路『土佐偉人伝』(昭和三年三版)によると、読書に倦むと塀の上で熟眠したとか、一升飯を食らって二、三日何も食べなかったという。吉村虎太郎の同志で、文久二年(一八六二)十二月、脱藩して上京。『土佐偉人伝』や瑞山会『維新土佐勤王史』(大正元年)によると文久三年「七月四日」、四條畷で、「何者」かに暗殺されたとなっている。宮内省『修補殉難録稿・下』(昭和八年)では「七月四日」に「四條の畷」で、「新撰組」に暗殺されたとする。 ところが伊佐馬の八歳下の弟豊永貫一郎(高義)が明治七年(一八七四)に書いたとみられる『勤王殉国事績』では「五月二十一日」、「新選組」に「四條畷」で暗殺されたとし、遺骸を埋めた場所は不明とある。なお、四條畷は「縄手通り四条」の誤りではないか。ならば、寺町通りも近い(ちなみに、ある長州人の全く別の件の回顧談にも、縄手通り四条を四條畷としたものがあった。あるいは、そのように呼ぶのかも知れない)。 「海舟日記」によると、海舟は五月十日から十五日までの間に、大坂から入京したと見られる(講談社『勝海舟全集・1』昭和五十一年)。以蔵の事件は「海舟日記」に記述が無いが、件のブログは弟貫一郎が記した「五月二十一日」を重視する。「海舟日記」によると二十二日に吉村虎太郎が訪ねて来たり、二十三日に「京都殺伐の風聞」を聞いた「門生四人」が大坂より上京して来たりと、確かに騒がしくなっている。 以蔵が伊佐馬を斬ったとすれば、はからずも土佐人の「同志討ち」になってしまう。それは、あまりによろしくない。そこで遺族に知らせる際は犯人を「新選組」にして、後世、顕彰の立場から歴史を編む際は「五月二十一日」から「七月四日」に変更し、目暗ませを行ったのではないかとの推察は腑に落ちる。明治政府側にとり不都合な「同志討ち」は、歴史から極力抹消したかったようで、私も幾つか他の例を知っている(拙著『長州奇兵隊』平成十四年)。久坂玄瑞との関係 以蔵に斬られたのが豊永伊佐馬とすれば、私も弟貫一郎が記した「五月二十一日」の方が、信憑性が高いと考える。なぜなら事件後、兄の志を継ぐべく上京した貫一郎が、薩摩藩邸で長州の久坂玄瑞(義助)に接触した形跡があるからだ。 私の蔵書中に、軸装された小色紙くらいの久坂遺墨二点があり、「君は今ころ駒かたあたりなひてあかせし山郭公月の影見りやおもひだす」「いにしきのこゝにてあれはよそにみて世の憂事もいろはわか身に」とある。落款は無いが、久坂の筆跡と見てよかろう。そして「…此書は長藩久坂玄瑞〈通称義助〉の在京都白川薩邸豊永高義〈土州人、通称貫一郎ト言〉の習字帳の裏ニ戯書せるもの也。予京師を去るの日、豊永氏の贈らるゝものなり。時は明治三年七月也。義業誌」との、貫一郎から久坂遺墨を譲られた旧蔵者(詳細不詳)による箱書が付く。 脱藩した貫一郎は土佐藩邸には入れず、白川云々はともかく、薩摩藩の同志を頼り、潜伏したのではないか。一方、このころの久坂は慌ただしい。六月一日、京都に入ったが、十五日には山口に帰る。つづいて二十三日に山口を発ち、二十八日には再び入京した。そして攘夷祈願の大和行幸のため、奔走する。 伊佐馬が殺され、土佐の遺族に知らせが届き、貫一郎が上京し、久坂と会うまでには相応の時間が必要だろう。それがひと月半以上かかったとすれば、「七月四日」では貫一郎が久坂に会うのは時間的に厳しい。なぜなら八月十八日に政変が起こり、大和行幸が中止となり、京都政局での地位を失った長州藩は、薩摩・会津藩を激しく敵視するようになるからだ。八月十八日以降なら、久坂が薩摩藩邸に立ち入ることはまず無い。 久坂・貫一郎を薩摩藩邸で会わせるなら、事件は「五月二十一日」の方が、妥当である。久坂は兄を失った貫一郎に、激励の言葉のひとつも掛けてやっただろうか。なんらかの真相を、知っていたのだろうか。そして、刺客の黒幕はいたのだろうか。 薩摩藩は五月二十五日の公卿姉小路公知暗殺事件の嫌疑により、同月二十九日に御所乾門の守衛役を解かれ、九門出入を禁じられていた。それでも七月二日には錦江湾でイギリス艦隊相手に戦ったので、奉勅攘夷に凝り固まった長州藩は共感し、薩摩藩に慰問状を送る。だから政変前なら、「横議横行」を得意とする久坂が、薩摩藩邸に出入りしてもおかしくはない。 貫一郎はその後、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に対する報復である天満屋事件に係わったりした。件のブログによれば維新後は山梨県北都留郡の郡長を務めたが、明治二十七年に辞している。心臓病で苦しんだようだが、同二十九年、台湾の台南地方法院検察官兼台南部警察部長に就任。だが、同三十一年四月に非職、同年九月二十七日に依願退職した。以後の消息は不明という。 久坂は元治元年(一八六四)七月十九日の「禁門の変」に敗れ、二十五歳で自決した。その後、薩長は提携して討幕を画策し、明治政府の中心勢力となる。こうした連携は久坂が万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて、江戸で水戸・薩摩・土佐などの同志と藩や身分の垣根を越えて交流した「横議横行」が原点だった(高杉晋作も文久の頃「横議横行」に加わった形跡はあるが、他藩士との交流はあまり得意ではなかったようだ)。 そのためか、薩摩藩では没後も久坂を慕う者が少なからずいたらしい。慶応二年(一八六六)四月一日、京都の薩摩藩邸に潜伏する長州の品川弥二郎が、国もとの木戸孝允にあてた手紙に「…久坂等の手跡、何卒御送り下さるべく、糾合方より段々頼まれ候に付き、どふぞ願い上げ奉り候」とある(『木戸孝允関係文書・四』平成二十二年)。 久坂は「横議横行」の際、亡師吉田松陰の遺墨を他藩とのコミュニケーションツールに使った(拙著『久坂玄瑞』平成三十年)。そして久坂の遺墨も、似たような使われ方をしたというのが面白い。貫一郎が久坂から貰った書も、「横行横議」の片鱗を伝えていると言えよう。 (『晋作ノート』54号、2022年1月)2022.01.31 11:59