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古き長州人体現した作家

 歴史小説で知られた古川薫さんの作家人生は、今から半世紀前の「明治百年」の波の中で始まっている。ただし、長州(山口県)に根差して活動した古川が当初描いたのは、幕末長州史の光ではなく、どちらかと言えば影の部分だった。ほぼ同世代の司馬遼太郎が、坂本龍馬をはじめ英雄を主人公に据えた大作を次々と発表しているのとは対照的であった。 昭和四十年(一八六五)に地元同人誌に書いたデビュー作の短編『走狗』で、初めて直木賞候補になった。主人公の大楽源太郎は、新時代の波に乗れず、明治に入り暗殺された悲劇の人である。 続く『幕末長州の舞台裏』と『獅子の廊下』は、高杉晋作らとの藩内抗争で敗れて処刑された「俗論党」の椋梨藤太を描く。史料の大半が失われ、地元でも「悪役」扱いの椋梨を主人公にした、唯一の小説だろう。 他にも理不尽な切腹命令に抵抗する家老の福原越後や、女囚に恋する吉田松陰など、昭和四十年代から五十年代にかけて、郷土史の片隅から地味な素材を発掘し、作品化したものが多い。新聞記者出身のジャーナリスト魂が、明治維新に疑問を投げかけた。軍国少年として育った世代だけに、「国家」「権力」に対する不信感も強かったはずだ。 そうした前半期の古川さんの集大成が、昭和五十六年の『暗殺の森』である。明治天皇につながる公家の中山忠光を、長州藩がひそかに暗殺した事件の謎を、後世の新聞記者が権力側の圧力と戦いながら暴いてゆく歴史サスペンス。主人公の記者に、自身を投影させたことは想像に難くない。 私も多感な十代後半、こうした作品群を熱心に愛読した一人であり、強い影響を受けた。ところが、下関出身のオペラ歌手藤原義江を主人公にした『漂白者のアリア』で平成三年に直木賞を受賞した頃から、作風の変化が見られるようになる。それは、作家自身の生き方とも重なっていたようにも見える。 長州出身の創業者を持つ大学や大企業とコラボレーションした偉人伝など、栄達を遂げた長州人を主人公に据えた作品が増えていった。また、やはり長州出身の日露戦争の英雄・乃木希典に対して批判的だった司馬が平成八年に亡くなるや、『軍神』『斜陽に立つ』といったアンチテーゼ的作品も書いた。 それらは、同郷人としての身内びいきのようなものが感じられ、私などは共感出来なかった。批判的な視点が希薄になったのは、地元の政治家や行政との関係が深まったことにも関係するのだろうか。 晩年には、最新の歴史研究の成果を強く拒むような姿勢も見られた。「研究家と称する人々が、新資料をかざして、あれは違う、これはウソだと全否定し、語り育てられてきた歴史ロマンを突き崩しているのは、いかがなものか」。ネット上で目にした古川さんの言葉は、『走狗』や『暗殺の森』を愛読してきた私には、残念に感じられた(実は私も久坂玄瑞の史料集を編纂している最中、ある新聞上で同様の非難をされた)。 自身が描いて来た世界こそが「長州史」でり、それ以外は認めないという境地に陥ってしまったのではないか。良い意味でも悪い意味でも、古き時代の長州人を象徴するような作家であった。(『中国新聞』平成30年5月8日号)

晋作、筑前からの手紙

(1) 近日マツノ書店から出版予定の『久坂玄瑞史料』には既刊『高杉晋作史料』(平成十四年)・『吉田年麻呂史料』(平成二十四年)の「補遺」も収めている。この種の史料集は出版後に新たな史料が出て来るのは宿命のようなもので、こうした形で補わせていただいた。 初めて活字化される史料のひとつに元治元年(一八六四)十一月十四日、高杉百合三郎あての晋作書簡がある。百合三郎はのちの南貞助で、この頃高杉家の養子になっていた。高杉小忠太の妹マサが、藩士南杢之助に嫁ぎ生んだ子である。晋作からすると実の従弟であり、義弟ということになる。 書簡の初めの方で晋作が「拙兄は旧に依り碌々偸生(とうせい)候間、御一笑下さるべく候」と言うが、同月はじめより二十五日頃まで、九州筑前に亡命していた。同年七月十九日、「禁門の変」で敗れた長州藩は「朝敵」の烙印を押され、長州征伐軍が迫っていた。長州藩は恭順謝罪すると決め、晋作は危険を察して、逃げたと言われる。 これは晋作が亡命先から長州の義弟に宛てた、「密書」なのである。「偸生」とは、無駄に生きながらえているとの意味。つづいて「脱走」につき、次のように弁明する。「さて、脱走の儀は、邦家の危難輔助奉りたく存じ候ても、幽囚致され候ては、とても尽力の目程これ無く候につき、やむを得ず無情の一処置つかまつり候」 晋作は主家のために働きたいのだが、幽囚されたら動けないので、「やむを得ず」脱走したと言う。しかも幽囚は「決して真の君意」ではなく、「天地神明に誓って」奉じなくてもよい命だと判断した。(2) つづいて晋作は、近況を少しだけ知らせている。「此の節は筑藩に潜居、天地の周旋致しおり候。いずれ一死地を得たく、望みおり候」 脱走前、百合三郎に「大小」や「武品」といった刀剣武具の調達を依頼したようで、それらを長府の大庭伝七(長府藩士。白石正一郎の実弟)のもとに届けておくよう、指示している。 この後、十一月二十五日に晋作は下関に帰り、十二月十五日に新地の藩会所を襲撃して内戦を起こす(下関挙兵)。その際身につけていた復古調の小具足や烏帽子型の甲は、百合三郎がどこかで手に入れて来たものかも知れない。 父母のことも忘れていないので、そのうち書簡をひそかに出すと言う。また、妻マサには、同年十月五日に生まれたばかりの長男梅之進(のち東一)を「勤王の士」に育てて欲しいとか、「拙事は決して思うてくれるな」といった伝言を頼む。 これを読むと晋作は、他の家族には知らせず、百合三郎にのみ手紙を出していたようだ。しかも、「拙ここ元滞留の儀は、内輪えも御明かし下さるまじく、ただ、どこともなしに一筆届き候と御噂下さるべく候」と、口止めをしている。 追伸では「何卒勤王の為、御亡命、御尽力有りたく祈り奉り候。一身一御国の利禄にかかわり候ては相済まぬ時節なり」としめくくり、「負親去国回天誠 必竟斯心莫世知 自古人間蓋棺定 豈得口舌防嘲識」という五絶を添える。署名は「変名 谷梅之助拝」となっている。(3) この晋作書簡は、奈良県天理市の天理大学附属図書館の所蔵である。六年前、史料収集のため訪れた同館で、初めて閲覧させていただいた。筆跡は晋作のクセが良く出ており、疑う余地はないと思う。 現状は元治元年六月一日、久坂義助(玄瑞)が京都から藩政府に宛てた書簡と巻子に合装されている。また、大正十年十一月、伊木寿一による奥書が付く。伊木は山口県出身の歴史家で、特に古文書学の大家として知られたが、妻は晋作の孫暢子(大正二年病没)だった。 伊木は奥書で晋作が筑前に亡命し、野村望東の平尾山荘に潜伏した経緯などを簡潔に述べた後「然レバ本書ハ山荘潜伏中ノモノナルヲ知ルベシ。コノ間ノ書牘ハ未ダ他ニ現存スルアルヲ聞カズ」云々とする。十一月十日から二十日までの間、滞在したとされる平尾山荘でしたためられた書簡なのだろう。 九州の亡命先から発した晋作の書簡は従来一通も確認されておらず、その点でまず貴重である。伊木も編纂に関わった『東行先生遺文』(大正五年)の出版後に見出されたのであろう。(4) 岩国市立博物館「岩国徴古館」に晋作の斬首が検討されていたことを示す文書が所蔵されていたとの記事が、『読売新聞』平成三十年一月二十一日号に掲載された。 記事によると、史料は二点あるという。 ひとつは長州藩重臣志道安房が元治元年十一月九日、征長軍の広島本営に交渉に向かう途中、岩国に立ち寄った際の「手控」で、藩の処分案「切腹の部」に「清水清太郎・毛利登人・前田孫右衛門・大和国之助」に続き、「高杉和助(晋作)」の名がある。 もう一点は晋作ら急進派七名の姓名が列記された「斬首状写」で、「姦吏と徒党を結び、上を欺き、下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、「斬首仰せ付けられ候事」とする。さらに「出奔し、行方知れず」との貼り紙も付くという。 いずれにせよ、藩政府の中で晋作の「切腹」または「斬首」が検討されていたことがうかがえる。そんな話は、既刊の晋作伝記などには見えない。だから、特筆すべき史実ではある。 実は同記事を書いた小山田記者から昨年秋以来、何度も連絡をいただき、当該史料につき意見を求められた。 だが、晋作の「斬首」「切腹」が現実的に、どの段階まで進んでかたかがはっきりしない限り、評価するのは難しい史料だと思った。刑は執行直前だったのか、ひとつの案だったのか。「京都進発」「禁門の変」に限れば、晋作は「斬首」「切腹」に匹敵するような罪を犯しているとは思えない。本来「法」で裁かれるはずだから、取り調べが行われ、罪状が決まるはずだ。だが、晋作の裁判が行われた形跡はない。 気になるのは「斬首状写」にある「不義不忠の至り」の一節である。権力側が問答無用で個人を殺そうとする場合、こういう抽象的な罪状が一方的に使われる例が、特に幕末には見られる(例えば慶応二年一月のもと奇兵隊総督赤禰武人の斬首)。 ただ、生命まで奪われるという危機感を、晋作が抱いていたかは怪しい。先に見た筑前からの手紙によれば、晋作自身は「斬首」「切腹」に処されるとは思っていない。「幽囚」されては活動出来ないから、逃げると言っている。 結局「斬首」「切腹」という刺激的な単語がウリのセンセーショナルな史料として、新聞紙上で紹介された。しかし、問題は何も解決していないと思う。繰り返すが、まずは晋作の「斬首」「切腹」が、どの段階まで進んでいたのかを示す史料の発掘が待たれるのだ。(「晋作ノート」42号、平成30年3月)

『甲子残稿』の半丁

(1) 『甲子残稿』は高杉家に伝わった、高杉晋作自筆の詩歌草稿のひとつである。元治元年(一八六四)八月四日、家居謹慎のまま藩命により山口に呼び出され、やがて馬関から海路、九州筑前にめざして出発するまでの間に作ったとされる詩十一篇、発句二首が日記風につづられている。 サイズは縦十九・六、横十三センチ。罫芯に「塞淵斎」と刷られた罫紙を使用する。ただし、最後の部分は、「十一月二日、発馬関趣筑前、賦呈同行野唯人・大庭伝七」 と、詩の題らしきもので尻切れトンボで終わっている。この続きに、詩の本篇があったのだろう。 『甲子残稿』が初めて原本から翻刻されたのは、東行(晋作)五十年祭を記念して編まれた『東行先生遺文』(大正五年)である。その時からすでに「…大庭伝七」で終わっているから、少なくとも百年前から現状と同じだったことが分かる。 ただし私は、『高杉晋作史料』二巻(平成十四年)中で『甲子残稿』を翻刻したさい、「…大庭伝七」の後に(以下欠)の三文字を加えておいた。かつては、この続きもあったのだろうと推測したからだ。それは次のような理由による。 晋作は自作の詩歌に対し、愛着が深かった。後日『甲子残稿』を推敲して『放囚集』と『潜伏集』(いずれも『捫蝨処草稿』所収)の中に組み込んでいる。特に『潜伏集』を見ると、失われた『甲子残稿』後半部分がどのようなものだったのか、ある程度推測出来る。先の「十一月二日、発馬関」云々はやはり詩の題部分で、詩本篇が続く。さらに「船中、次野唯人韻」「筑前掩留中偶成」「四日、将到福岡」「六日、田代駅寄肥前閑叟侯」「帰馬関有此作」と題された五篇の詩があり、最後は三条実美ら五卿を引き留めようとする「死ヲ以ッテ をとめ申ヲスソ をとマリナサレ 長門国ニモ 武士モ有ル」の「俗曲」で終わる。(2) ところが数年前、失われたはずの『甲子残稿』の半丁分が出て来た。山口県から遠く離れた、関西の古美術商からである。使われている罫紙は、『甲子残稿』と同じもの。結論から言えば、『甲子残稿』最後の半丁に違いない。それは、次のような二篇の詩が書かれている。「  六日田代駅寄肥前閑叟侯妖霧起雲雨暗濠。路頭楊柳舞東風。政知猛虎秦民怨。今日何人定漢中。   帰赤馬関挙義兵売国囚君無不至。忠臣死義是斯辰。天祥高節成功略。欲学二人作一人。」 罫芯部分は切られており、「塞淵斎」の三文字は見れない。ただ、旧蔵者による次のような古い貼紙があり、この間の事情を知ることが出来る。「長門人高杉晋作真牘 前半小倉人南護儲蔵具折半、欄内楷書刻塞淵斎三字仍欄外捺南氏与予為后證」 つまり、『甲子残稿』の一丁を手に入れた旧蔵者は「小倉人南護」なる者と、これを切断し半丁ずつ所有することにした。「…大庭伝七」から先の詩などが書かれていたと思われる前半は南、後半は旧蔵者。「塞淵斎」と印刷された罫芯部分は、南が持ったことも分かる。この二人はよほど慎重だったようで、半丁ずつ切り分けたさい、それぞれ印を捺き、割印としたという。 書かれている二篇の詩のうち、ひとつ目は晋作が田代(現在の佐賀県鳥栖市)から佐賀藩主鍋島閑叟に贈ったものだ(届いたかは不詳)。晋作は佐賀藩が四面楚歌の長州藩に味方してくれると期待し、決起を促したのだが、上手くゆかなかった。 ふたつ目は晋作が馬関(赤間関)に帰り、挙兵による藩の政権奪取を決意したさいの詩だ。中国の忠臣である天祥の高節と成功の略を学び、二人を足して二で割ったような男になりたいとある。現在、この詩を刻む石碑が、下関市日和山公園の晋作像の傍らに建つ。(3) これまで『甲子残稿』は現状から、馬関を発つまでの詩歌を集めたものと説明されていた。だが、この半丁の紙片が見つかったことで、馬関を発ち、九州筑前に入って奔走し、さらに馬関に帰って来るまでの詩歌集だったことがうかがえる。 近年、晋作の故郷山口県では「歴史」は「ロマン」だとし、それを「史料」によって傷つける奴は県民の敵だ、攻撃せよといった、信じ難いくらい馬鹿馬鹿しい理屈がまかり通っているらしい(大分迷惑を被った)。 だが、私に言わせれば失われたはずの紙片が、百数十年の時空を越えて出現することこそ「ロマン」である。「小倉人南護」が持っていた半丁はいまなお、どこかに存在するのだろうか。私の中で、さらなる「ロマン」は続く。 最後に今回の史料の行方についてだが、流出しそうなので個人で購入しておいた。吉田松陰は、「今吾が骨は未だ何れの所に暴露するのか知らず、しかれども公先づ吾が文を録存せば、吾れ道路に死すと雖も可なり(自分はどこで死ぬか分からないが、書いたものが保存されるのなら、たとえ道端で死んでも構わぬ)」「遺著を公にして不朽ならしむるは、万行の仏事に優る(著作を出版して残してくれる方が、一万回坊さんに経を読んでもらうよりもいい)」 とか述べている。そのことが、いつも私の心にひっかかる。なんとか賞作家により創られた「ロマン」ではない。遺墨には、若くして死なねばならなかった、かれらの本当の思いが籠もっているはずなのだ。(『晋作ノート』39号、平成29年3月)

子煩悩な高杉晋作

晋作の詩書 市場で売買される「高杉晋作遺墨」の九九パーセント以上は、贋作だ。真筆には一、二年に一度お目にかかれれば良いくらい。それが晋作百五十年祭の今年は、私の知る範囲でも、すでに三点も真筆が出て来ている。このままでは流出しかねないので、いずれも個人で購入しておいた。私は晋作百年祭の昭和四十一年(一九六六)に生まれ、今年満五十歳の誕生日を迎えようとしている。そんな節目の年、この豊作には不思議な縁を感じてしまう。 直近で手に入れたのは、名古屋の古美術商が持って来てくれた詩書の軸だ。本紙はおよそ縦一九、横一五・三センチと小品である。署名は無く、あるいは帳を崩したものかも知れない。 筆跡は、晋作の癖が実に良く出ている。右肩に捺された関房印は高杉家に伝来した晋作の遺品中に実物があり、他の確かな遺墨(たとえば国会図書館憲政資料室蔵石田英吉文書中の晋作詩書)でもお馴染みのものだ。そして何よりも、詩の内容が泣かせる。「待童欲慰我愁思 携得桜花々一枝 好挿小瓶相対座 忘他疾病在膚肌」 この五言絶句は晋作の詩稿「捫蝨集」(『高杉晋作史料・二』平成十四年)にも、「病中作」として出て来る。場所は下関で、慶応二年(一八六六)の四作目の詩である。 子供が自分を慰めようと、桜花を一枝携えて来てくれた。それを小瓶に差して対座していると、病気のことを忘れてしまいそうだ、との意味であろう。 では、晋作に桜花を届けた子供とは誰か。本来「侍童」とは貴人の側で仕え、身の回りの世話をする子供のことだが、必ずしも額面どおりではないだろう。実はこの年二月二十三日、数えで三つになる晋作長男の梅之進(のち東一)が、母や祖母たちとともに萩から下関に出て来ている。旧暦だから桜の季節だ。晋作に桜花を届けたのは、よちよち歩きの梅坊(晋作はそう呼んだ)ではないか。 ほんの一瞬の、父と息子の交流だ。一年後、晋作はこの幼子を残し、亡くなった。そう考えて対峙すると、なんだか切なくなる遺墨である。マサの回顧談 晋作の五十年祭にさいし、「朝日新聞」大正五年五月九日号に妻マサは回顧談を発表しているが、その中に次の一節がある。「至って子煩悩で、三つや四つの子供であったが、『偉くなれ、偉くなれ、国の為に尽くすようになれ』 と、申しておりました」 晩年の晋作は下関で起居していたから、萩で育つひとり息子の梅之進と一緒に過ごす時間は、ほとんど無かった。 先述のように慶応二年二月二十三日、数えで三つになる梅之進は母たちに連れられ、下関に晋作を訪ねている。しかし、もろもろの事情から晋作は約ひと月後の三月二十二日、妻子を下関に置き去りにしたまま、海路長崎へと旅立つ。右のマサの回顧談は、この間のことかも知れない。 長崎に到着した晋作は、妻マサに下関での非礼を詫びる長い手紙を書いているが、その中で梅之進のことにつき、「なおまた梅坊事は、御父さまに似候よう御育て下され候よう」云々と頼む。自分ではなく、謹厳実直な父の小忠太(丹治)に似るように育てて欲しいというのが、面白い。 また、その年の十二月二十四日、晋作が下関の病床から萩の父にあてた手紙には、「梅坊も日を追って成長、言語等も相わかり候の由、さぞさぞ御胆焼きの事と愚察致し居り候。此の一事私儀大不幸(不孝)中の一幸(孝)、是れ又、御先霊神明の御影と、かねがね落涙罷り在り候」 とある。父の意に背き、危険な政治運動に身を投じた晋作は、一人息子だったこともあり、死ぬまで後ろめたさを感じていた。それでも子孫を残すことが出来た、ご先祖のお陰であると、涙を流しているのである。届かなかった短刀 梅之進が生まれたのは、元治元年(一八六四)十月五日だ。十一月、晋作は九州筑前に亡命し、十二月には「俗論党」打倒を掲げて下関で挙兵し、内戦のすえ藩政府の主導権を奪う。ここで大胆な行動に打って出たのは、梅之進誕生により、自分が死んでも血筋は残るとの安心感を抱いたからではないか。 挙兵前、晋作は五卿西遷の問題で下関に来ていた福岡藩士月形洗蔵・早川養敬(勇)と酒を酌み交わした。そのさい晋作は生まれたばかりのわが子のことを、次のように語ったという。「僕と月形君とはその性質能く似たり。抗直にして長く此の世に生存すべき者にあらず。ただ早川君は温厚にして能く寿命を保全し、必ず僕等よりも後に生き残られるなるべし。僕に一人の子あり。この子幸い俗論党の為めに殺されずして生長し、僕が中途に斃るるに至らば、早川君今日の交誼を以てこれを視られよ」(江島茂逸『高杉晋作伝 入筑始末』明治二十六年) 月形は翌慶応元年(一八六五)十月、福岡藩の弾圧に連座して処刑された。晋作も同三年四月、病没した。生き残った早川は維新後、奈良府判事を務めていたさい、晋作との約束を思い出し、短刀二柄を装飾して、ふたりの遺児に贈ろうと考える。それは月形の遺児へは届いたが、晋作の遺児へは従僕の藤次郎が途中、大阪で売却してしまったので届かなかったらしい(この逸話は早川から直接取材して書かれた文献に出て来るから、信憑性が高い)。以後、早川は司法権大丞・元老院大書記官などを歴任し、明治三十二年(一八九九)に他界した。晋作と少女たち 晋作は「子煩悩」というか、少女好きだったようだ。小さな女の子は、同年配の男の子よりも「おませさん」が多く、それが微笑ましくて相手をしていると退屈しないものである。そのことをうかがわせる逸話を、いくつか紹介しておこう。 晋作には三人の妹がいたが、十数歳離れた末妹のミツを、最も可愛がったようだ。文久三年(一八六三)四月、妻を連れて萩の松本村に隠棲した晋作は、城下菊屋横町の自宅からミツ(年齢は十歳ほど)を連れて帰ることがあった。坊主頭の晋作は、頬被りに落とし差し(刀の差し方)で、妹の寝巻が入った風呂敷包みを首に掛け、少女の手を引いて寂しい夜道を、歌いながら歩いたという。そして家の戸を叩き、妻を呼んで「ソラお友達を連れて来た」と言った。あるいは自宅ではミツとお弾きをしたり、ミツとマサと川の字になって籐の寝台に寝転んで、戯れたという(横山健堂『高杉晋作』大正五年。その後ミツは高杉家を継ぎ大正元年まで生きたが、回顧談を残していないのが残念である)。 九州筑前に亡命したさい、野村望東の平尾山荘で晋作の身の回りの世話をしてくれたのは、吉井清子という十四歳の少女だった。清子は皇学者の娘で、のち山路重種の妻となった人。ある時、晋作は清子に「阿嬢も大和心を持てるや」と問うたところ、清子は「我もまた同じ御国に生れ来て大和心のあらざらめやば」と歌で返事したので、感心したという(『高杉晋作伝 入筑始末』)。 朝日新聞下関支局の記者が、地元に伝わる昔話を拾い集めた『馬関太平記』(昭和三十年)という本がある。その中に、下関の山形屋という魚屋の五、六歳の娘カネを、晋作が可愛がったという話が出て来るが、それは次のような不幸な結末で終わる。「ある日のこと、飄然としてあらわれた晋作は山形屋の娘が店の表で遊んでいるのを見るなり、やにわに両手をひろげて抱きかかえた。 ところが、どおしたはずみか晋作の刀の柄がその娘の右の目を突いた。それがおこりで可愛いさかりの山形屋の娘は遂に半眼を失ってしまった。その娘の名はカネといい、私の友人である山形吉蔵の祖母にあたる」 少女を失明させてしまった晋作は、大いに悔いていたとの話を、他の何かで読んだ記憶がある。この逸話のせいでカネさんは、かつて下関では、ちょっとした有名人だったようだ。 (『晋作ノート』38号・平成28年11月)

晋作が描いた関門海峡

(1) 高杉晋作の画賛扇面(以下、扇面と略称)が市場に出て来た。扇面の一面に水墨画が描かれ、賛として七言絶句が添えられている。私もずいぶんと晋作の遺墨を見て来たが、あまり他に類を見ない面白い史料だと思い、個人で購入することにした(最近、市場には晋作の貴重な史料が続けざまに出て来る)。 晋作の「自画自賛」なるものは、骨董市場などでたまに見かけることがある。だが、それらは明治以降、晋作人気に当て込んで作られた贋作である場合が、ほとんどだ。 晋作の遺墨は、たとえ写真図版でも近年まで公開される機会に乏しかった。だから贋作を作るにしても、限られた「お手本」しか無かった。贋作の大部分は、数少ない「お手本」をいろいろとアレンジしたものか、あるいは好き勝手に書いたものかのいずれかであることが多い。この点、早くから遺墨集などが何種も出版され、ひじょうに贋作が作られ易い環境にあった西郷隆盛や吉田松陰の筆跡とは違う。 今回紹介する晋作の画賛扇面には、次の七言絶句が小さな文字で書かれている。「此是奇兵古 戦,砲台々上 草茫々同人 埋骨知何処 觸岸波声 訴恨長 場  潜狂生題」 読み下すと、「此は是れ奇兵の古戦場。砲台々上草茫々たり。同人骨を埋む知ん何れの処ぞ。岸に觸るる波声恨を訴えて長し」(『高杉晋作全集・下』昭和四十九年)となる。一連目の「場」の一文字を書き忘れたので、「戦」の下に点を付けて、最後に加えているのも、リアリティがある。 この七言絶句は、作られた時期がはっきりしている。晋作自筆の詩歌草稿「捫蝨処草稿」(『高杉晋作史料・二』平成十四年)の中に、「乙丑(慶応元年・一八六五)七月十七日、馬関を発し吉田駅へ趣むく途上、壇浦・前田両砲台を過ぎ感有り」 という題のもとに、書かれているのだ。この日、晋作は馬関(下関)から奇兵隊陣営のある吉田村に向かった。途中、前年八月に奇兵隊が四カ国連合艦隊と死闘を繰り広げた、壇ノ浦と前田の砲台を通過する。そのさい作った詩なのだ。峯間鹿水『高杉東行詩文集』(大正七年)には、この七言絶句の総解として次のようにある。「こゝは奇兵隊の古戦場である。砲台の上に草が茫々と茂つてゐる。奇兵隊の連中が骨を埋めたのは何の辺か知らん。岸に打ち寄する波の音は、恨を訴ふるものゝ如くである」 それは、どんな戦いだったのか。たとえば、奇兵隊士金子文輔の日記「馬関攘夷従軍筆記」には、四カ国連合艦隊との凄まじい戦いの様子が、生々しく記録されている。壇ノ浦砲台を死守する隊士に敵の砲弾が命中して、その遺骸がばらばらになったとか、「前田砲台は尤も多数の弾丸を被り弾丸又尽きんとすと」などとある。 ただし、晋作は四カ国相手の戦闘には直接参加していない。戦後処理である講和談判で活躍したことは周知のとおりだ。無論直後の戦場は目撃しただろうし、戦いにかんする様々な情報は耳にしていたであろう。 そして、この戦いにおける苦い経験を経て、長州藩は排他的な攘夷論にピリオドを打ち、新たなる開国への道を模索してゆく。一方、西洋列強も長州藩の凄まじいエネルギーを評価。この詩には、そこに至るまでに生命を散らせた者たちに対する、追悼の意が込められているのだ。(2) 扇面に書かれた七言絶句の筆跡は、どの文字をとってもこの時期の晋作の筆跡の特徴が出ていて、それは気持ち良いくらいである。だが、もし「お手本」があったとしたら、それを上手に写しとった贋作かも知れない。あまりにも出来過ぎた史料には、さらなる注意が必要だ。 管見の範囲では、この七言絶句の晋作直筆は「捫蝨処草稿」に書きとめられたものの他に、長府藩の興膳五六郎に書き与えたもの(個人蔵)が一点あるのみだ。活字では『東行遺稿』(明治二十年)などに収録され、古くから知られていた詩だが、晋作直筆の図版が書籍などに掲載されたのは、近年のことである。 いずれも私が自著の中で、図版で紹介した。草稿の方は『高杉晋作漢詩改作の謎』(平成七年)に、興膳に与えた方は『高杉晋作史料・二』に、それぞれ出ている。 平成七年以前はこの詩の直筆を、図版で見る機会は一般には無かったと言っていい。つまり贋作を作るにも、「お手本」がなかったのだ。この点だけ見ても、今回の扇面の信憑性は高い。 (3) 詩の後の款記が「潜狂生題」となっているのも、興味深い。言うまでもなく「潜」は、晋作の別名「谷潜蔵」から来ている。 幕府からマークされていた晋作が、「谷潜蔵」と改名するのは慶応元年九月二十九日のことだ。それは藩命で行われた、正式なものである。よって扇面も慶応元年七月十七日に作った七言絶句を、改名の沙汰が出た九月二十九日以降に揮毫したものと考えられる。 ただ、似たような款記の現存例は、あまり多くない。『高杉晋作史料・二』に紹介した次の二点くらいしか、私は知らない。 ひとつは坂本龍馬に与えた「詩書扇面」(個人蔵)で「辱知生潜拝生」とある。 いまひとつは、児島高徳の言を揮毫した偏額書(周南市美術博物館蔵)で、「潜狂生謹録」とある。 宮地佐一郎編『坂本龍馬全集・3版』(昭和六十三年)では龍馬に与えた扇面を紹介し、款記を「辱知生澗拝草」と読んでいる。そして「澗」につき「澗は谷と同義で、谷梅之助即ち高杉晋作である」と説明する。事実とすれば他に類を見ない款記だ。晋作はこのころ谷姓を名乗っているから、あり得ない話ではないと思う。 しかし、龍馬に与えた扇面の実物を間近で見たさい、私は「澗」ではなくて「潜」と読んだ方が、よいのではと思った。児島高徳の言を揮毫した偏額書も、同様。だから『高杉晋作史料・二』にこの二点を掲載したさいは、いずれも「潜」と翻刻しておいた。 このことは、たとえば慶応元年十月二十一日・同年十一月二日の木戸寛治(孝允)あて晋作書簡(いずれも宮内庁書陵部所蔵「木戸家文書」)の署名部分の筆跡「潜」の字と比較しても、「澗」ではなく「潜」と読むのが妥当であることが分かる。だから今回出て来た扇面は、管見の範囲では三点目の「潜」と款記した揮毫ということになる。(4) 最後に、絵の部分について触れておく。 晋作が描いたと云われる絵で、確かなものは極めて少ない。この扇面も絵部分を、晋作が描いたのかについては、確証がない。比べる他の例が、殆ど無いのである。ただ、絵の方には別の署名もないから、詩とともに晋作が描いたと考えるのが自然ではある。 では、「アーティスト晋作」は何を描きたかったのだろうか。画題は当然、七言絶句の内容と関係するものだろう。下関の海岸線が真ん中あたり、下方は草が茂る砲台跡、上方の空白は海(関門海峡)を表しているようだ。手際よく描いたようだが、あまり巧い絵にも見えない。 現状は広げられて台紙に貼られ、軸装されているが、本来は扇だから、骨が入り、折り畳みが出来るようになっていたはずだ。「アーティスト晋作」が揮毫した時の、山あり谷ありの状態にすれば、もう少し絵が理解出来るかも知れない。そこで写真に撮ったものを折り、本来の状態の再現をこころみる。 だが、しかし…雰囲気は若干変わったものの、やはり何となく理解し難い絵ではある。果たして「アーティスト晋作」の画力は、いかが。この点については、今後の課題としたい。  (「晋作ノート」37号、平成28年7月)

高杉晋作と五代友厚

一、「横」の繋がり「幕末の志士」と呼ばれる人々は江戸や京都に集まり、藩や身分階級を超越して「横議」「横行」「横結」といった結び付きを強め、それが「維新」へと発展したとされる。いつの時代も、「お山の大将」「井の中の蛙」から歴史を動かすエネルギーなど、生まれて来るはずがない。長州萩に生まれ育った高杉晋作もまた、「外の世界」を見ることで大きく飛躍した若者であった。江戸で世子小姓役を務めていた晋作に、情勢視察の目的で清朝中国の上海に渡航せよとの沙汰が出たのは文久二年(一八六二)一月のことだ。幕府が出貿易視察のために上海に送り込む一団に、幕臣犬塚某の従者という身分で従うのである。身分を変えるのは一大名の家臣では、海外渡航の資格が無かったからだ。晋作はひとまず、長崎へと向かった。幕府が上海行きのためイギリス商人から購入した千歳丸は、三本マストの木造帆船。これに日本側からは水夫も含めて五十一人が乗り込んだ。他に操船のため、イギリス人十三人と貿易仕法の指導者としてオランダ人一人が同行する。晋作のような、幕臣の従者となって参加した諸藩士などは十二人を数えた。その年四月二十九日、千歳丸で長崎を発った一行は約二カ月の上海滞在を終え、七月十四日、長崎に帰着している。この時から二十年前、「アヘン戦争」でイギリスに敗れた清朝中国は、「南京条約」を締結させられた。それによって上海など五港が開かれ、開港場にはイギリスの領事館が設けられる。中国の貿易の主導権は、イギリスに奪われ、なかば植民地のような状況になってゆく。さらにアメリカやフランスも中国と通商条約を締結して、上海などに進出して来た。旅行中、晋作は幕府役人に対し不満を抱いていた。かれらはホテルの部屋が狭いと文句を言ったり、出張手当がいくら貰えるかなどと語り合っていたらしい。晋作は西洋列強の実力を目の当たりにし、危機感を高めていたから、そんな低俗な役人たちに腹を立てていたのだ。一行の中で晋作が人物として認め、特に親しく交わったのが、佐賀藩士の中牟田倉之助と薩摩藩士の五代才助(友厚)である。中牟田は晋作と同じく幕臣の従者という立場だったから、上陸して同じホテルに泊まり、共に上海市街を歩きまわることが出来た。英語が堪能な中牟田は英字新聞を訳し、漢文が得意な晋作は中国人との筆談に実力を発揮するなど、お互いを補い合って情報を収集している。一方、五代は港に碇泊中の千歳丸から、原則として離れられない。薩摩藩から上海渡航の許しを得た時、すでに幕臣の従者という枠が埋まっていたため、「水夫」として参加したからだ。だから晋作は五代を千歳丸に訪ね、いろいろと話し合った。いささか不便な「横議」「横行」「横結」であったが、それは晋作の人生にとり、大きな意味を持つ時間となったようだ。二、五代との出会い五代才助は天保六年(一八三五)生まれだから、同十年生まれの晋作よりは四ツ年長だ(文久二年当時で五代は二十八、晋作は二十四)。十三歳の時、世界地図を模写して藩主島津斉彬に献じたとか、直径六〇センチの地球儀を自作したといったエピソードがある。安政四年(一八五七)に選ばれて長崎の幕府海軍伝習所へ遊学し、オランダ士官から指導を受けた。また、文久二年(一八六二)一月、英国商人グラバーと共にひそかに上海に渡り、蒸気船一隻を購入し、翌月には薩摩に回着している。このように、すでに上海渡航の経験もある五代は、当時としてはずば抜けた国際感覚の持ち主だったことは想像に難くない。晋作と五代が初めて話したのは、文久二年五月三日のこと。場所は長崎から上海に向かう、千歳丸の中だ。その日の晋作の「航海日録」(『遊清五録』所収)には、次のような記述がある(以下、原則として現代訳。拙著『高杉晋作の「革命日記」』〈平成二十二年〉など参照)。「この日、はじめて同船の才助という水夫と話す。才助は実は薩摩藩の五代才助である。姿を変えて水夫となり、この船に潜り込んだという。先日、才助が長崎の宿に僕を訪ねて来てくれた時、病のため話せなかった。一見して旧知の友のように、肝胆を吐露して大いに志を語り合い、得るものがあった」もう、のっけから手放しの絶賛である。実は晋作も数年前の安政六年(一八五九)八月二十三日、盟友の久坂玄瑞にあてた手紙の中で「大軍艦に乗り込み、五大洲を互易するより外なし」とし、「軍艦の乗り方、天文地理の術」を学びたいと述べていたほどだから、五代の話に共感したのも頷ける。つづいて同日の晋作日記には五代が、「私はさきに主君に従い、大坂に行った。大坂のあたりでは、浪人狂士が何やら騒動を起こそうとしている」と、不安をかき立てることを言ったとある。これは薩摩藩国父の島津久光が一千の兵を率いて上洛するさい、攘夷激派が挙兵討幕を企んだことを指す。実は久坂玄瑞など松下村塾グループも、この計画に参加していた。四月二十三日、伏見でいわゆる「寺田屋騒動」が勃発し、薩摩藩士有馬新七ら犠牲者を出して挙兵計画は頓挫するのだが、その知らせはまだ、上海に向かう晋作や五代のもとには届いていない。三、上海での交遊上海到着から十日あまり経った晋作の日記「上海淹留日録」(『遊清五録』所収)の文久二年(一八六二)五月十六日の条には「この日、僕は外出して千歳丸に行き、五代才助と話をして帰館する」、翌十七日の条には「中牟田・五代と川蒸気に行き、諸器械を見る。船はイギリス人の所有」などとあり、時々は行動を共にしていたことが分かる。同月二十三日の条には、「五代とともにイギリス人ミユルヘットを訪ねる。ミユルヘットは耶蘇教の宣教師だ。耶蘇教を上海の人々に布教してまわっている」などとある。晋作はキリスト教に対して強い不信感を抱いており、ミユルヘット(ウィリアム・ミュアヘッド)のことも信用していない様子だ。この日会ったミユルヘットは、『大英国志』の著者であった。同書は日本にも輸入され、長州藩の「温知社」からも上梓されており、晋作も読んでいた。そのことに、晋作が気づいていた様子はない。六月七日には衝撃的な知らせが届く。「千歳丸に五代を訪ねる。五代が言った。『日本からの手紙が届いた。それによると、京摂の間で少し変事があったという。長州藩もまこれに関わっているらしい』僕はこれを聞いて少し驚いた。五代は、『事は決し、すでに鎮まったようである。あなたは心配しなくてもいい』とも言ってくれた。それでも僕の魂は飛び、心は走る。しばらく慨然としていた」これが先述の「寺田屋騒動」のニュースだったことは、ほぼ間違いない。衝撃を受けた晋作はオランダ商館に赴き、ピストルと地図を購入した。以後、『遊清五録』に収められた日記の断片のようなものによると、六月十八日の条に「朝、五代来談」と見える。あるいは上海を離れる直前の七月二日の条には「朝、五代と上陸(すでに晋作もホテルを引き払い、千歳丸に乗り込んでいるのだ)。字林洋行及び施医院堂書を求む」とある(『高杉晋作史料・二』平成十四年)。三、世界へ飛躍すること帰国直後、晋作が長州藩へ提出するレポートの下書きとして作成したと思われる「内情探索録」(『遊清五録』所収)の中で、「薩摩より五代才介(助)と申す人千歳丸水夫となり、上海へ罷り越せしなり。五代は薩の蒸気船の副将くらいの処を勤める者の由にて、だんだん君命を受け、当地罷り越せし様子なり」と紹介している。  つづいて晋作は、五代から有益な情報を得たとして、次のように述べる。「おいおい心易くなり、その論を聞くに、帰国の上は蒸気船の修復と申し立て、上海辺りに交易に来る心得なり。上海渡海の事開くれば(上海との航海ルートが開けたら)、欧羅斯(ヨーロッパ)・英吉利(イギリス)・悪米利(アメリカ)へも渡海相成るよう開くならんと云う」薩摩藩はなんと、上海ルートを踏み台として、世界中を相手に交易を計画しているという。そうして経済力をつけて、外圧をのぞくのだ。それには、蒸気船が必要なのだと、晋作は続ける。「蒸気船買い入れの節の咄を聞くに、余程有益に相成る様子なり。蒸気船買い入れの直段十二万三千ドル、日本金に直し七万両」薩摩藩から五代に、上海での蒸気船購入の内命が出ていたらしい。ただし、具体的な点については諸説あり、よく分かっていない。宮本又次『五代友厚伝』(昭和五十六年)には「五代は結局汽船を買い入れなかったとも考えられる」とある。ともかく蒸気船により、どれ程世界が広がるかを、晋作は五代から教えられた。そのころの長州藩は、木造帆船を二隻所有していたに過ぎない。蒸気船購入の計画は持ち上がってはいたものの、江戸や京都での政治活動に大金を費やしたため、頓挫せざるをえなかったのだ。これでは本末転倒である。そこで晋作は長崎に帰着するなり、オランダが売りに出していた蒸気船を長州藩が購入するという契約を、「独断」で結んでしまう。五代の話が、晋作を突き動かした結果であることは言うまでもない。『遊清五録』中には「蒸気船、和蘭国へ注文つかまつり候一条」という、晋作の報告書草稿が収められている。それによると中国が「衰徴」した原因は、「外夷を海外に防ぐの道を知ら」なかったからだとする。「断然太平の心を改め、軍艦・大砲制造し、敵を敵地に防ぐの対策無きゆえ」だった。しかも「我が日本にもすでに覆轍を踏むの兆し」があるのだという。この草稿は「速やかに蒸気船の如き」の部分で、なぜか突然終わってしまうのだが、晋作の攘夷に対する考え方がうかがえ興味深い。だが、藩政府内では晋作の独断専行を非難する声が高まってしまう。とても購入出来る気配は無く、そのうちオランダも手を引いたので、破談になった。間もなく京都に上った晋作は八月二十六日、桂小五郎(木戸孝允)に、今後の決意を示す手紙を書いたが、その中に「実は蒸気船壱艘和蘭国へ独断にて注文つかまつり候。右ゆえ只様上京延引に相成り、恐れ入り候」と述べている(この手紙は、萩博物館特別展「高杉晋作の恋文」で展示予定)。四、その後のふたり上海から帰国後、晋作と五代は会う機会があったのだろうか。晋作は翌年の文久三年(一八六三)六月に君命により下関で奇兵隊を結成したり、慶応元年(一八六五)には藩内戦のすえ、長州の藩論を武備恭順で統一したりと、大奮闘。一方の五代は慶応元年に薩摩藩の秘密留学生を引率して渡欧し、イギリス・ベルリン・オランダ・フランスなどを巡り、翌二年二月九日に薩摩の山川港に帰っている。この間、長州藩と薩摩藩は文久三年(一八六三)八月十八日の政変以来、対立を深めていた。元治元年(一八六四)七月の「禁門の変」で敗れた長州藩には「朝敵」の烙印が捺され、薩摩藩は第一次長州征討に参加した。しかし幕府独裁に批判的な薩摩藩は裏で長州藩との提携を進め、慶応二年一月、いわゆる「薩長同盟」が締結される。五代の帰国は、ちょうどそんな時だ。御納戸奉行格で勝手方御用人席外国掛となった五代は慶応二年四月から十月まで長崎で勤務し、フランスやイギリス相手の交渉を担当している。一方、晋作は三月二十一日夜半、下関から海路長崎に到着し、薩摩藩邸に潜伏した。薩摩藩主父子と英国公使パークスが鹿児島で会談すると知らされたので、長州藩も参加しようと考えたのだ。もっとも晋作は鹿児島には赴かず、イギリス商人グラバーから独断で購入した蒸気船オテント号(丙寅丸)に乗り、四月二十九日夜には下関へ帰って来た。二度目の長州征討の戦端が開かれそうだったからである。つまり慶応二年四月、長崎の薩摩藩邸で晋作と五代は再会したはずだ。晋作の遺品中に、この時貰ったと思われる五代の名刺大の写真があり、裏に「薩藩五代才助、余かつてこれと支那上海に遊ぶ」と記されている。また、ふたりの親密さは晋作が下関に帰ったひと月後の五月二十六日、五代が長崎から晋作にあてた手紙からも、うかがうことが出来る(『高杉晋作史料・一』)。五代は手紙の冒頭で「両度の御芳翰相達し(二回にわたるあなたのお手紙が届き)、披見つかまつり候ところ」云々と述べているから、両者の間でしばしば文通があったようだ。しかし管見の範囲では、この一通しか確認出来ない。内容はまず、薩摩藩からの「御返翰」が長崎に届いたので、下関に行く者に託すから受け取って欲しいとある。おそらく晋作が持参した、長州藩主父子から薩摩藩主父子あての親書の返信であろう。つづいて長州藩が薩摩藩名義で購入した蒸気船「桜島丸」の引き渡しのこと、小銃のこと、イギリス領事がまだ長崎に到着しないこと(パークスの長崎到着は同月二十五日)、水師提督(キング中将)とは会っていることなどが述べられている。追伸には「度々結構なる御反物拝領いたし、誠にもって恐縮つかまつり候」との謝辞があり、晋作が反物を贈ったことが分かる。五代は「御互いに国家危急」を救うための交わりなのだから、「斯かる御謝礼等」は「心外の至り」としながらも、「麁器(粗末な器)」をお返しするから、受け取って欲しいと言う。さらに追伸で五代は、広島で行われている幕府詰問使と長州藩使節の談判が「日々切迫の御模様」だとし、長崎にいるグラバーやラウダも気にかけているから、情報を知らせて欲しいと頼む。この、広島での交渉は五月二十九日、幕府側が長州藩の歎願書を返還したため決裂。六月七日から、いわゆる「四境戦争(第二次長州征討)」が始まり、大島口・芸州口・石州口・小倉口の各所で激しい戦闘か繰り広げられる。晋作は小倉口の海陸軍参謀として奇兵隊などを指揮し、攻め寄せた征長軍を撃退した。休戦協約が結ばれたのは、九月に入ってからである。それから幕府権威は紆余曲折しながら失墜してゆくのだが、小倉口の戦いの最中から晋作は結核が悪化し、床に臥すようになった。五代は慶応二年十月、下関に来て長州側の木戸準一郎(孝允)らと会談するなど、商社設立のために奔走している。そのさい晋作を見舞ったようで、同月十七日、薩摩藩重臣の桂久武にあてた手紙(『高杉晋作史料・三』)の中では、次のように知らせている。「高杉も此の内より病気にて至極難症に相見え、同人相欠け候はば、馬関(下関)にも外に人物今これ無く」晋作がいなくなれば、もう、下関に「人物」は無くなると慨嘆する程、五代は晋作を高く評価していたのだ。そして晋作は下関新地の林家離れにおいて慶応三年四月十三日、二十九歳の生涯を閉じる。年譜によるとその月、五代は、それまでの功が認められて、兄から分家することが認められ、坂元家の娘トヨと結婚していた。そんな中、晋作の死をどのような気持ちで聞いたかは分からない。のち、五代は維新で衰退した大阪を、近代商業都市として蘇らせるため、大阪株式取引所や大阪商法会議所を創立するなど、大いに活躍した。かつて晋作を奮起させた、経済によって国力をつけ、外圧をのぞくという方針は生涯ブレなかったのだ。明治十八年(一八八五)九月二十五日、五十一歳で病没している。(「晋作ノート」36号・平成28年3月)

高杉晋作と南條範夫

(1)多くの時代小説・歴史小説を遺した直木賞作家の南條範夫さんには昭和の終わりころ、一度だけお目にかかったことがある。場所は東京の某出版社主催のパーティーの席上で、世はバブル経済の絶頂期であった。そのころ僕は大学生で、雑誌編集を手伝ったり、雑文を書いたりしていたので、そんな場に足を踏み入れさせてもらったのだ。痩せて、好々爺のような南條さんはソファーに腰掛け、銀座のホステスをはべらせて、数人の大御所たちと酒を酌み交わし、談笑中だった。にもかかわらず、おそるおそる近寄って行った僕を隣の席に招いてくれて、あれこれと話を聞かせてくれた。以前から僕は南條さんの十八番とされた「残酷モノ」の『戦国残酷物語』や『被虐の系譜』に魅了されていたのだが、『城下の少年』も面白かったですと言ったら、 「君は高杉晋作が好きなのか」と、眼鏡の奥の目を細めながら、機嫌がよかった。南條さんは明治四十一年(一九〇八)の東京生まれだが、戦前、山口高等学校で青春時代を過ごし、それから東京帝国大学法学部に進んだので、晋作には深い思い入れがあるらしい。そのことは、たとえば『高杉晋作 青春と旅』(昭和五十八年)というムック本に収められた、奈良本辰也さんとの対談などを読むと分かる。この対談で南條さんは、晋作との「出会い」を次のように語る。「私が高杉晋作の名前を初めて知ったのは大正五年です。まだ小学生でした。そのころ、親父がとっていた唯一の雑誌に『日本及日本人』というのがあって、大正五年に高杉晋作の特集号を出した。今も大事にとっています。高杉晋作の奥さん、妹さん、早くに死んでしまった伜、お父さん、お母さんの写真が載っています。それを見て、高杉晋作という人は、どういう人なのかと親父に聞いた。そうしたら親父がこういう人だと話してくれた。で初めて覚えたんですよ。それ以来のオールドファンです。(笑い)」南條少年の目に留まった雑誌とは政教社から出ていた『日本及日本人』六七七号で、晋作五十年祭記念の「高杉東行先生」特集である。当時は存命だった妻政子や、奇兵隊出身の三浦梧楼(五郎)の談話も掲載されていて生々しい(南條さんは大切にしていたこの雑誌を後年、東行記念館に寄贈された。僕はその復刻版の出版を企画担当することになるのだが、思えば奇縁である)。また、南條さんは大正五年当時のこととして、次のようにも語っている。 「最初に親父が晋作のことを話してくれたとき、子供にもわかりやすいと思ったのでしょう。『彼は義経みたいな人だ』といったのを覚えています。ほんのちょっとしか生きていなかったし、歴史に登場した期間もほんのちょっとだつたけれど、偉い人なんだと教わったことを覚えています。晋作は天才ですね」さらに、もし、晋作が明治以降も生きていたらとの問いに対しては、「晋作は、あれだけの地位にいたので、無理やりに参議くらいにさせられたと思いますね。だけど、陰険な策略のできない人ですから、おそらくは三日ともたないで、辞表をたたきつけて萩に帰り、叛乱を起こしていたんじゃないかと。(笑い)八十歳の晋作なんて想像できないですから、やっぱりあの時(二十九歳)で死んでよかったのでしょうね、おそらく」と答えている。いたずらに「夢」を追いかけないところが、「残酷」という厳しい視点から歴史や人間を眺め続けた南條さんらしいと思う。(2)南條さんは晋作を、同時代人またはそれに近い人と考えていたようだ。先の対談の中で、次のように語っている。「今から五、六十年くらい前、私が山口にいたころ、松下村塾へ行ったことがあります。そのころはまだ、明治維新を体験した老人がたくさん生きていました。松下村塾の近所に住んでいる老人が話してくれたことなんですが、松陰が伊藤俊輔(博文)を叱っている現場を見たっていうんです。その叱り方が、まるで小僧扱いに『伊藤おめえは…』というような感じだったそうです」南條さんは、維新の体験者に直接話を聞ける世代だった。つづいて、現代の若者たちと話したこととして、世代のギャップを次のようにも語る。「このごろ、若い人と話していると、伊藤博文とか井上馨とか、そういう連中は皆、テレビの『新撰組』で知っているんですね。(笑い)だから皆丁髷をつけて、しょっちゅう斬りあっていたと思っている。ところが、われわれが子供のころは、井上馨・山県有朋・西園寺公望、皆生きていた。大隈重信なんか、私の中学時代の人です。渋沢栄一は大学時代に大学新聞の取材で会いに行ったことがある。板垣退助だって生きていました。相撲を見にきていた。だから、彼等は私から見れば年はずいぶん違うけれど同時代人なんです。今の中・高校生が岸信介とか田中角栄を見るのと同じ程度の同時代人なんです。だから、若い人たちは伊藤を丁髷の志士だと思っているし、私は同時代人だと思っているので、話がおのずとかみ合わなくなるわけです」残念ながら、このような維新にかんする聞き書きが、山口県にはほとんど残っていない。あまりにも歴史が身近すぎて、軽視されたのかもしれない。(3)さて、僕が南條さん本人を前に書名を出した『城下の少年』だが、昭和五十年(一九七五)に中央公論社から単行本が出ている。藩校明倫館に通う思春期の晋作が、美少年の久坂秀三郎(玄瑞)に恋愛のようなモヤモヤとした感情を抱くのだが、遊郭に行って童貞を捨てると、なんだかすっきりしてしまうという三カ月間の物語。晋作が九州遊歴から帰って来た久坂と再会し、「おれも、明日から、吉田先生の処に行くつもりだ」などと話すところで終わるというのも、ユニークだ。「あとがき」によると、昭和三十八年、「小説中央公論」にとびとびに連載して『鷹と氷壁』の題でまとめたものを、全面的に改稿したのが『城下の少年』らしい。さらにもう一度改稿して、平成四年に『少年行』の題で講談社から単行本が出た。『少年行』の「あとがき」では、「私はかなり多くの小説を書いたが、すべて書き放しのままであり、大幅に改めたのは本書だけである。と云うことは多分、私が、この書に、多少の愛着をもっているからであろう」などと述べられている。こうして見ると、僕が『城下の少年』の話題を出した時、南條さんが嬉しそうな顔をされたのも、偶然ではなかったのかも知れない。こんにち、僕はこの物語は江戸遊学中、不安になった晋作が萩の久坂玄瑞に対し、「心中には僕はとても及ばぬ、これ頼るべき人と思い、兄弟の盟をも致したきと、しょせん思い居り候えども、これ迄遂に口外つかまつらず居り候」といった思いを吐露した、ラブレターのような手紙(安政六年〈一八五九〉四月一日付)を書いていることにヒントを得たのではないかと考えてたりもしている。この夜、南條さんと何を話したのか、三十年近くも前のことで、よく思い出せないのが残念なのだが、ともかく、なんだか悪い気がしたので、サインでも頂いてさっさと退散しようとした。すると南條さんは、「そんなものは後から送ってあげるよ」と言われ、もうしばらく隣で飲ませてくれた。こうした酒席での約束は一般的に、なかなか実現されない場合が多いのだが、南條さんは数日後、ちゃんと宛て名入りのサインが入った著作『天翔ける若鷲』(昭和五十三年)の単行本を郵送してくれたので感激した。こちらは成人後の晋作の活躍を描いた、『城下の少年』の続編のような歴史小説だ。のち、昭和六十三年に『高杉晋作』と改題されて、PHP文庫にもなった。いまもその時のサイン本は、封筒と一緒に大切に保存している。あとから思うと、南條さんは中央大学・立正大学・国学院大学で教えた経済学者でもあったから、もともと学生と話したりするのが好きだったのかも知れない。もう一度お会いしたいと思っていたが、その機会は訪れず、平成十六年十月三十日、九十五歳で亡くなられた。晩年まで執筆活動に精力的に取り組まれていたのは、驚異である。南條さんの人柄を評すに、「親分肌」という言葉が正しいか否かは分からないが、ともかく懐の大きそうな方だったという印象を、僕はいまも持っている。わずかな時間だが、お話し出来たことは、誇りに思える。いまは学界も文壇も、「親分肌」なんて人たちをほとんど見かけなくなった。器の小さい「親分」気取りが多すぎるから、餌を恵んでもらえない「子分」たちの気持ちは、荒む一方だ。せめて自分は付いて来る世代に対し、南條さんのようにありたいと願うばかりである。(「晋作ノート」35号、平成27年12月)

続・龍馬の「八策」の「前文」に関する一考察

「八策」の「添状」か土佐藩の建白を受け入れた将軍徳川慶喜は慶応三年(一八六七)十月十四日、朝廷に大政奉還を願い出、翌十五日に勅許された。坂本龍馬は大政奉還後、諸侯会議(十万石以上の大名会議)を経て誕生するであろう新政権につき、その構想するところを八カ条に分けて記し、示す。いわゆる「新政府綱領八策」(以下「八策」と略称)である。これは、日本の近代化を知る上での重要史料のひとつではあるが、現存する二通(国会図書館・下関市立長府博物館蔵)は肝心な伝来もはっきりせず、何分「謎」が多いことも確かだ。この点につき、以前私は「龍馬の『八策』の『前文』に関する一考察」(『萩博物館調査建久報告』八号、平成二十四年)中で、①成立したのは「慶応三年(一八六七)十月二十三日」、場所は「京都」ではないか。②中岡慎太郎(石川清之助)との合作との合作ではないか。などと推察した。根拠としたのは、私が所蔵する、古い遺墨集(巧芸)中、「八策」の「前文」のように貼られた、一通の龍馬直筆書簡である。「八策」の本歌は国会図書館蔵だが、現存のそれには書簡は付いていない。あらためて紹介すると、次のようになる。「昨日日(?)御会盟の時、今日認候て薩へ送り候書き付は、定て御出来と相成可申、又御かまいこれなくば乍恐拝見はできますまいか奉頼候。今日石清参り、共に是より先き の事を論じ、手順を書き認候間、写御目にかけ度奉頼候。 廿三日 謹言」この書簡を、龍馬が「八策」を誰か(おそらく土佐藩重役)に送ったさいの「添状」と仮定して読むと、先のようなことが浮かび上がって来たのである。薩摩藩との連携ちなみに龍馬は慶応三年十月二十三日に京都を発ち、越前福井に赴き、三岡八郎(由利公正)と国内の経済政策につき、話し合った。その内容は近年見つかり話題となった、龍馬が後藤象二郎に送った「越行の記」と題した報告書に明らかだ。これを見ると、越前での三岡との話し合いが、「八策」に反映されているかは疑問である。だから、従来言われているように、「八策」は越前から京都に戻った「後」に書かれたというよりも、その「前」に書いた可能性を考える必要があると思う。さらに私は「問題は『前文』前半で、薩摩藩に送る書類が出来ていたら見せて欲しいと述べているが、これが何だったのか、いまのところ私にはよく分からない」とも述べた。しかし、この点は現在では次のように考えている。当時、表向きでは薩摩藩は土佐藩の大政奉還建白を認めていた(慶応三年十月二日、小松帯刀から大政奉還建白提出に反対しない旨、手紙で通達)。そのため、薩摩藩もまた大政奉還の立役者として、世間では認識する向きもあったと思われる。結果、大政奉還に猛反対だった会津藩などの恨みを買い、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通などは危機を避けるべく、京都から逃れたとの説があるくらいだ。だが実は、薩摩藩は武力討幕を諦めていない。長州藩とともに「討幕の密勅」を手に入れて藩内反対派を黙らせ、諸侯会議潰しのために暗躍しているのだが、それは裏側での話である。土佐藩の面々は、何らかの形で薩摩藩との連携を保ちたいと願い、奔走していたのではないか。そう考えると、龍馬が見せて欲しいと頼む「薩へ送り候書き付」とは、それに関する内容ではなかったか。「薩土盟約」の「添状」かつぎに、これが「八策」ではない、別の文書の「添状」だったと仮定して見てゆきたい。その場合、慶応三年六月に成った「薩土盟約」の盟約文の「添状」であるとするのが、妥当な線だと考える。同月二十二日、土佐藩と薩摩藩の首脳が京都の料亭において会合した。薩摩からは小松・西郷・大久保、土佐からは後藤・寺村左膳・福岡孝弟・真辺栄三郎、そして浪士代表として龍馬と中岡が立ち会ったことになっている。この席で土佐藩側から大政奉還建白が提案され、薩摩藩側もこれを承諾した。その盟約文は二十三、二十四日と土佐藩側で練られ、二十六日、寺村から西郷のもとに届けられたことが分かっている(『寺村左膳日記』)。そして薩摩藩側もこれに同意した(のちに破棄される)。龍馬と中岡もまた盟約文案を練り、土佐藩重役に送ったさいの「添状」であると仮定しても、読める内容である。ならば「六月二十三日」であり、冒頭の「昨日日御会盟の時」は、薩摩・土佐藩首脳との会盟で、「薩へ送候書き付」は、盟約文ということになる。「薩土盟約」か「八策」か、それ以外の「添状」なのか。いずれにせよ、現時点での私は「決め手」が見当たらず、これ以上は何とも言いようがない。あくまで問題提議であり、仮説だ。先日、慶応三年後半における龍馬の国家構想をテーマとした、あるテレビ番組にスタジオゲスト出演するよう、依頼を受けた。しかし、スケジュールの蓋を開けたらその前週に放送する分にも私が出演することになってしまったので、さすがにまずいということになり、急遽VTRでコメントだけ撮影してもらった。そのため十分話せなかった部分を、書かせてもらった次第である。

明治維新と菅原文太さん

(1)よく、「いつから歴史が好きだったのですか」と尋ねられる。僕の場合は小学生のころ、学校図書室で読んだ子供向けの日本史本とNHK大河ドラマが原点だ。同世代の友は、似たような経験の持ち主が多い。大河ドラマは「元禄太平記」「風と雲と虹と」、そして小学五年生の時に観た「花神」で、「吉田松陰」や「高杉晋作」に出会った。中村雅俊さん演じる晋作は若々しいエネルギーが溢れ、魅力的だった。ずっと後年、テレビの仕事で雅俊さんとご一緒した時、晋作を演じたさいの逸話をお聞きすることが出来、「花神」の台本にサインをもらって感慨深かった。ディレクターが、「雅俊さんはあの後も『自分の演じた仕事で、将来を決めた人がいたんだ』と言ってましたよ」などと知らせてくれた。それから「黄金の日々」「草燃える」が続くが、いまひとつ印象が薄い。そして、中学二年生の時に観た、明治維新を題材にした「獅子の時代」に打ちのめされた。主人公は菅原文太さん演じる会津藩士の平沼銑次、脚本家山田太一さんが創作した人物である。銑次は日陰に追いやられながらも、明治日本を懸命に生き抜く反骨漢だ。樺戸集治監の囚人労働など、従来の大河ドラマが避けて来たような題材をどんどん前面に押し出す。そして秩父事件で敗れた銑次が、死んだのか、生きのびたのか、分からないラストになっている。明治維新とは何だったのか、近代化という大義名分は正しかったのかと、鋭く問いかけるような画期的な作品。テレビドラマがいまよりも、ずっと真面目だった気がする。それまで英雄偉人のドラマしか知らなかった僕は、なるほど、歴史というのは、こうした無名の人々の思いによって、少しずつ動いたり、動かなかったりするものなのかと、なんとなく分かった気がした。こうした視点は、いまも持ち続けているつもりだが、それは「獅子の時代」の影響だ。「獅子の時代」は全五十一話を通しで、五回は観ている。後にも先にも、こんなに何回も観たテレビドラマは無い。「獅子の時代」の衝撃が強すぎたのか、次の年の「おんな太閤記」が馬鹿馬鹿しく思えて、二カ月ほどで観るのを止めてしまった。それ以来、大河ドラマはほとんど観ていない。たまに勧められたりして、観ようと努力するが、まったく面白くない。時代考証云々が理由ではない。ドラマとして面白ければ、それで良いと思っているが、とにかく面白くない。四十五分もテレビの前に座っているのが、苦痛でしかないのだ。まして一年間観続けるなど、拷問である。(2)さて、「獅子の時代」と同じころ、僕は「仁義なき戦い」という東映映画に出会う。昭和四十八年から四十九年にかけて深作欣二監督が撮った、戦後の広島やくざの抗争事件をモデルに描いた作品だ。全五部作、八時間以上の一挙上映を神戸東映で観た中学生の僕は、またもや打ちのめされてしまった。それまでは、人間社会の美しさを謳歌するような映画ばかり観て来たのだが、「仁義なき戦い」では、これでもかと言うほど人間の浅はかさ、ずるさ、滑稽さが繰り返し描かれる。本来ならば暗いタッチの映画になってもおかしくないのだが、そこは深作監督の手腕で、結局は人間のおかしげな魅力を描いており、時に笑ってしまう。「仁義なき戦い」で僕は、汚い「大人の社会」を知った気になった(だが実際社会に出ると、描かれた広島やくざの抗争よりも、もっと汚いことだらけで、びっくりしてしまったが)。この作品などは、百回以上は観ている。そして「仁義なき戦い」も、文太さんが主演だった。考えてみれば僕の精神は、文太さんの肉体を通じて演じられたものから成っている部分が大のようで、一度お会いしてお礼を述べたいと思っていた。(3)今年九月五日、福岡市で開催される「がん制圧全国大会」で文太さんが講演されると知り、なんだか虫が知らせたので出かけた。文太さんの講演の演題は「がんと仲良く」。「今年八十一になりました」に始まり、七年前に膀胱癌が見つかったさいの話をされた。築地がんセンターの「偉い先生」に診せたところ、切るしかないと言われたが、それが嫌だった文太さんは知人を介して、十人の医者の意見を聞いたそうだ。ところが「偉い先生」が怖いようで、九人までが同じ意見しか言わない。たった一人、東大の中川先生が切らずに治せると言ったので、訪ねて行ったところ、直ちに筑波大の付属病院に入院させられ、結局切らずに治したという話である。また十代のころ、教師から「お前の成績では仙台一高は絶対無理」と言われたので、ならばと反骨精神が頭を擡げて受験し、さいわい試験が〇×だったので合格したなどの思い出話も面白かった。築地がんセンターのお偉いさん方を前に、木訥とした口調で遠慮なく話す文太さんの頭には白髪が目立ち、頑固な翁のようではあったが、まさに「獅子の時代」の銑次そのものだった。講演につづく、例の中川先生との対談では「癌は移らないのかな」「でも風邪は移るよね」「デング熱はどうかな」と、とぼけた発言をして中川先生を困らせ、会場を沸かせた。ともかく僕は、はじめて生で見る「菅原文太」に興奮していた。(4)講演を聴きに行く前夜、宿泊した福岡の東映ホテルの一室で、僕は文太さんにファンレターを書いた。芸能人にファンレターを書くなど、四十八年生きて来て初めてのことだ。「獅子の時代」「仁義なき戦い」に、どれ程強い影響を受けたか、三十数年間、これらの作品のどこかのシーンを思い出さない日は無い、また、原発反対、戦争反対を訴えて戦う文太さんに銑次が重なり、ファンを続けて来たことを誇らしく思うなどと素直な気持ちを便箋に綴った。そして、文太さんは明治維新に強い関心を持っていると聞いていたので、僕の著書を二冊同封し、講演会場の受付に預けて帰った。文太さんから、返事はなかった。別に期待していたわけではないから、それはよい。もし、僕の手紙と著作を、ちらりとでも見てくれたかも知れないと思うだけで、嬉しいのだ。ところが十二月一日、文太さんの訃報に接した。その日も、僕は福岡の東映ホテルに泊まっていた。十一月二十八日に亡くなられ、身内だけの葬儀が前日、福岡の太宰府天満宮で行われたとのことだった(宮城県出身だったが、太宰府天満宮に生前お墓を買われていたことは知っていた)。つい二カ月余り前、講演を終え、元気そうに満面の笑みを浮かべ、両手でガッツポーズを決めた文太さんの姿が目に浮かび、言葉を失った。泣けた。冥福など祈りたくない。銑次のように、文太さんが戦わねばならないのは、これからなのだ。「獅子の時代」最終回の、ラストシーンに被るナレーションが思い出される。「翌年、日本は日清戦争に突入。更に日露戦争への道を歩いて行く。そのような歳月の中で、幾度か銑次の姿を見たという人があった。それは、たとえば足尾銅山鉱毒事件の弾圧のさ中で、たとえば幌内炭鉱の暴動のさ中で、激しく抵抗する銑次を見た、という人がいた。そして、噂の銑次はいつも戦い、あらがう銑次であった」僕はこのショックから、当分立ち直れそうにない。今回はそんな心境だから、僕が明治維新に深入りした理由の一端を書かせてもらった。ちなみに長州がらみで言えば、かつて文太さんは「新選組」(昭和四十八年)というドラマで、桂小五郎を演じている(再放送で観た)。また、井上馨をモデルにした人物を演じた「鹿鳴館」という映画もあった。三島由紀夫原作、市川崑監督、昭和六十一年の作品で、大学生のころ、東京の映画館で観た。頬がブルドックのようにたるみ、ふてぶてしい形相の文太さんは、僕のイメージする井上馨そのままで、驚いた。銑次とは正反対の、力づくで権力も女も奪い、「大礼服」の虚構で塗り固めたような男だ。そう言えば、井上の前名は「聞多(ぶんた)」で、文太さんの一人息子の名は「加織(かおる)」(故人)なのは、妙な因縁だと思う。「鹿鳴館」は権利の問題から現在に至るまでテレビ放映も無く、ソフト化もされていない。もう一度観てみたい作品である。(「晋作ノート」33号。平成26年12月)

「贋作」から「真作」へ

高杉晋作の「遺墨」とされるものは実に贋作が多く、そのことは何度も書いて来たから繰り返さない。また、個人で贋作と知らずに入手して楽しんでおられる方に、わざわざこちらから指摘、説明する必要もないと思っている。知らぬが仏、勝手にやればいい。ただ、公立の機関が真作として贋作を公開している場合は、納税者として多少のクレームをつけてもよいのではないか。そこで今回は山口県立山口博物館の例を見てゆきたい。同館の所蔵品に「梅図賛 高杉晋作筆 一軸」というのがあり、水墨で描かれた梅の下に、次のような賛が加えられている。「玉府仙妹倚濃粧素衣一夕染玄霜相逢不訝姿客別為住王家竈治傍  丙寅秋日昼於馬関寓居倣清人張秋谷筆法             東行高杉晋題并戯」同館ではこれを晋作の真筆と評価し、公開している。私が最初に見たのは三十年近く前、大学生のころで、確か年少入館者向けのパンフレットにも写真付きで紹介されていた。「自慢の逸品」らしいが、贋作ではないかと思ったので館員の方にその旨理由を述べて指摘したが、薄ら笑いを浮かべられただけで相手にしてもらえなかった。その後も、たとえば平成十年に広島市の広島城で開催された「特別展 毛利氏と幕末維新展」にこの「梅図賛」が出品されており、同展覧会図録にも晋作の史料を代表するものとして、カラー写真付きで掲載されている。図録の解説によればサイズは「縦一二一・三 横三〇・〇(センチ)」であり、「慶応二年(一八六六)秋、馬関(下関)において、張秋谷の筆法を模して描かれたことが知れる。張秋谷は中国清代の画人で、草花と鳥を主題とする『花鳥画』や、草花のみの『花卉画』を得意とした。天明年間(一七八一~八九)に来日しており、日本における南画の成立と発展に寄与した」などと、もっともらしい解説が付されている。だが結論から言えば、これは真作ではない。贋作である。しかも低レベルの贋作だ。いくつかの点で、それは証明出来る。まず、「東行高杉晋」という署名がおかしい。「東行」というのは文久三年(一八六三)三月以降、亡くなるまで頻繁に使用した号だから、それ自体はおかしくない。問題は最もポピュラーな「高杉晋(作)」の方である。実は「晋作」は文久三年十一月、藩主から「東一」という名を与えられ、改名している。この時点で「晋作」の名は消えた。だが「東一」も脱藩の罪により投獄された元治元年(一八六四)三月二十九日、他の拝領品とともに没収されてしまう。「和助(和輔・和介)」と名乗ることになる。さらに慶応元年(一八六五)九月、幕府からの追及を逃れるため藩命により、「谷潜蔵」と改名した。この改名を命じた藩からの沙汰書にははっきりと、「高杉和助 改 谷潜蔵」とある。公文書は、すでに「晋作」でも「東一」でも無い。管見の限りでも元治元年以降の私信で、晋作が「晋作」と署名することはない。しかも「高杉」という家も出て「谷」姓を使っているから、「丙寅秋日」、つまり慶応二年(一八六六)秋に「高杉晋」と署名することなど、ありえないのだ。ありえないのだ、などと断定的に書くのは自分でも如何なものかとも思うが、それくらいありえないのだから仕方がない。もっと「ありえない」のは、こんな基本的なことも調べず、単純なミスにも目を瞑り、堂々と真作として展示した上、解説を付けて他館にまで貸しているのが、私たちが納めた税金で成り立っている施設であるということだ。しょせん私ごとき政治的立場ゼロの弱者が指摘しても、無駄のようである。無駄ついでに、山口県お墨付きの「梅図賛」がおかしい理由をいくつか指摘しておこう。二か所に捺された印だが、右肩の関房印は『高杉晋作史料』二(平成十四年)の印譜15をモデルにしている。これは早くから、たとえば『維新志士遺芳帖』乾(明治四十三年)に掲載されている晋作詩書にも捺されて公表されているので、真似るのは容易だったのだろうが、出来があまりよろしくない。左下の署名の下の「東行之章」に至っては見たこともない印である。また、同様の「梅図賛」が複数存在するというのも、面白い。私は山口博物館以外でも個人蔵のを数点見た。うち二点は写真があるので参考までに掲げる。笑うしか無い。他にも山口博物館はあやしげな晋作書簡を所蔵しており、かつては真筆として公開していた。そのため私もとんだ迷惑をこうむったことがあるのだが、そのことについては講談社学術文庫版の『高杉晋作の手紙』(平成二十三年)の「おわりに」で少しだけ述べておいた。晋作贋作を真作として公開している公共施設は他にもあるが、紙数が尽きるので、それらは又の機会に。しかし私が関係する萩博物館も、骨董屋の売り物(その中には怪しげな晋作の書もあったらしい)に「萩博物館鑑定済」というお墨付きを乱発していた大馬鹿者(自称学者)が館内にいたことが最近発覚し、ネット上で問題になっているそうだから(すでに公表されているので書く)、知らぬこととはいえ、偉そうなことは言えないのかも知れない。(『高杉晋作考』用の書き下し草稿、平成26年7月)

晋作と聞多の漢詩

(1)地域に根差し、地べたを這いずりまわるような努力のすえに生み出された「郷土史家」の業績には、その生きざまも含めて時に刮目させられるものがある。半面、顕彰やお国自慢の意味を履き違えた「郷土史家」の仕事に、マイナスの意味で驚かされることも少なくない。たとえば藤田伝三郎の伝記から贋札事件が、久原房之助の伝記から政民連携や大陸進出といった、いわゆる「不都合」な事跡がすっぽり抜け落ちていたとしたら、どうだろうか。しかも割愛した理由が、自分と地元が同じだからという態度が見え見えならば、これはもう嘲笑されても仕方あるまい。藤田はただの鉱山主で、久原は車屋の社長さんでしかないのだ。こうした「郷土史家」に限って自己顕示欲が強く、自分は学者だ、研究者だと自称し、敵を見つけてはあれは唯の物書きだなどと陰口を触れてまわる。「偉人」にはまるで弱いが、近くの他人に対する名誉棄損は平気らしい。その点、九州という地は古くから反骨精神、在野精神旺盛なすぐれた「郷土史家」の産地であり、私などはある種憧憬の念を抱くこともある。原田大六や松本清張も「郷土史家」ではないにせよ、そうした土壌が生んだ「大家」であろう。中でも大正三年から昭和二十年までに全部で九十冊発行された『筑紫史談』などは当時の福岡の郷土史家たちが切磋琢磨し、高い水準の成果を生んでいった過程が刻印されており、感動的だ。私は二十数年前、大学生のころ何度か福岡市某所を訪ね、夢中になって同誌を読んで必要記事をコピーした。それは二冊のスクラップブックになって、いまもわが家の書庫にある。(2)そのひとつ、大正五年発行の第十号に掲載された中島利一郎「高杉、西郷は会見せずといふ説の補遺」という小論文には、「高杉晋作ファン」がびっくりするような痛快な逸話がいくつか記されていて面白い(拙著『高杉晋作漢詩改作の謎』平成七年)。それはまず、高杉晋作の漢詩の大半が、維新後『東行遺稿』編纂のさい杉孫七郎(長州出身)によって「改竄」されたという、「その間の事情に通じた長州の某史家より聴取した」暴露話だ。つぎは、闇討ちに遭い負傷した井上聞多(馨)を、元治元年(一八六四)十月二十五日、晋作が見舞い、漢詩を交換したという有名な逸話にかんするもの。この時の詩は中原邦平という、山口県出身の御用郷土史家が著した『井上伯伝』(明治四十年)によって広まった。少し長くなるが、中島論文より該当部分を引用する。「歴史事実が、或時代に於て、造意を加へられ、別種の伝を作ることある例の一として、前回引用した高杉と井上聞多即ち後の井上馨侯との唱和の詩について、其後聞き得た事実を記述して置かう。高杉の井上に贈った詩は、原作が存してゐたけれど、井上の次韻の方は散佚してしまひ、井上侯自身記憶してない。けれど中原邦平翁が侯の陞爵以前、即ち『井上伯伝』を編纂する際、どうしても次韻の作の必要があって、侯は仕方なしに、其代作を中原翁に命じたのであった。かくして実際の唱和より二、三十年を隔てて、侯の次韻の詩が新しい形を以って作られ、それが麗々しく『井上伯伝』に収録されたのである」私はこの記述を見つけた時、筆者中島の皮肉っぽいタッチもさることながら、井上や中原のふてぶてしさに思わず笑ってしまった。ちなみに、中原が代作したという詩は次のようなものだ。「身は数創を被(こおむ)れども志は未だ灰(おとろえ)ず何時厥起(いずれけっき)して氛埃(ふんあい)を払はん喜ぶべし君が雄略に方寸存するを病苦を忘れ来り且杯侑(すすむ)」これに晋作の詩が続くのだが、ここでは割愛させてもらう。(3)萩出身の作家横山健堂などはこの事情を知らなかったのか、著書『高杉晋作』(大正五年)の中で晋作・聞多の詩唱和を紹介して「此の二人、勇気淋漓として雄略を語り合った有様が思ひやられる」との感想を述べる。詩を交換したのは史実のようだから、それはいい。ところが井上の詩につき、「特に此の際、瀕死病中、其の肺肝より出でたことを疑はぬ」などと手放しで絶賛しているのを読むと、複雑な思いがする。先の事情を知った上で、目をつむり、こんな評価を与えたとすれば、横山の人間性を疑わざるをえない。こうした悪弊は現代の「郷土史家」にも連綿と受け継がれているようで、ぞっとさせられる。作家の司馬遼太郎もこの井上の詩に引っ掛かったひとりで、『世に棲む日日』三巻(昭和四十六年)の中で「井上聞多は後年、明治政府でさまざまの風評があったとはいえ、かれの青春の昂揚はこの一詩につくされているといっていいであろう」などと評している。お気の毒様としか言いようがない。つづいて中島は、この暴露話の出所を皮肉たっぷりに次のように明かす。わずかな記述ではあるが、これを読むと中島が、顕彰、お国自慢の意味を履き違えたような郷土史の在り方に、強い反発を抱いていたことがうかがえる。「而して侯(井上)自身人の需めに応じて之れを揮毫されたこともあった位である。以上は中原翁が親しく余に話されたのであるから間違ひのあろう筈はない」実は井上が揮毫したこの詩の書掛軸を、山口市の実業家大隅健一さんが持っておられた。骨董屋から求められたという。大隅さんはこの詩を刻んだ石碑を、山口市の井上旧宅跡(現在の井上公園)に建てようと考えていたらしいが、私の示した『筑紫史談』などの資料を見て計画を素直に撤回された。大隅さんが「郷土史家」と言えるかどうかは別としても、親分肌でなかなか楽しい人だった。数年前に亡くなられたように記憶する。(『晋作ノート』29号・平成25年9月を改稿)

河上弥市の里帰り

因縁めいた話はあまり好きではないが、念が籠もっていると感じる史料に出会うことがある。兵庫県朝来市の山口護国神社が所蔵する、虫食いだらけの古い高札を拝見した時も、そんな印象を持った。高札には、次の歌が勢いよく書かれている。「奉献 議論より 実を行へ なまけ武士 国の大事を 余所(よそ)に見る馬鹿 皇国草莽臣 南八郎(花押)」これを書いた南八郎とは、萩城下金谷出身の河上弥市の変名である。河上は八組士の家に生まれたエリートで、滝弥太郎とともに高杉晋作の後継者として奇兵隊総督になった。志士としてのキャリアよりも、家柄が重視されたのだろう。血の気が多かったようで、『奇兵隊日記』などの史料を見ても過激な言動が目立つ。しかし、クセ者揃いの軍隊の統率は、容易ではなかったようだ。ひと月後、同志とともに隊を脱し、文久三年(一八六三)十月、但馬生野で挙兵するも敗れて自決する。享年二十一。死を前にして、思いどおりに時代が動かない焦燥感、尻込みする同志たちへの苛立ちを筆先に込め、書きなぐった絶筆である。強烈な歌は「国の大事を余所に見る馬鹿」が多い現代において、ますます光彩を放つ。この高札は、いままで弥市の故郷萩で展示された形跡がない。奇兵隊結成百五十年の今年、私はぜひ弥市の魂の「里帰り」を実現させたいと思った。さいわい、山口護国神社の武田和郎宮司がご理解下さったので、このたび萩博物館での展示が実現した(高杉晋作資料室で平成二十五年六月三十日まで展示中。なお、河上肖像・河上歌書軸も同時に展示)。百五十年前、絶望しながら異郷の地で死んでゆく弥市は、眼前の高札が萩の地に帰ると想像出来ただろうか。そう思うと、感無量だ。弥市の旧宅は、いまも萩市金谷に残る。八組士、百石どりにしては意外なほど質素な平屋である。また、故郷の墓所は萩市北古萩長寿寺にあり、傍らに又従兄弟にあたる山田顕義の撰文を刻む石碑が建つ。但馬の地が狙われたのは幕府天領が多く、軍事的にも無防備だったからという。自決した山口村(地名と山口県は関係ない)に建てられた墓は「南八郎さん」として信仰され、それはいまも続いている。明治になり司法大臣などをつとめた山田は明治二十五年(一八九二)十一月、但馬地方を訪れ、河上の墓に参るも、生野銀山を視察中に急逝した。だから播但線生野駅前には山田の終焉地であることを示す、巨大な記念碑も建っている。