赤禰武人と坂本龍馬
(1)
長州再征の勅許を得た幕府は慶応元年(一八六五)十一月十六日、大目付永井尚志ら詰問使一行を、安芸広島に送り込む。そして同月二十日と三十日、城下国泰寺に長州藩代表の宍戸備後助を呼んで、取り調べた。
そんな中、薩摩藩は土佐浪士の坂本龍馬を長州藩に派遣し、情勢を探索させる。十一月二十四日、薩摩艦で大坂を発った龍馬は、二十六日、周防上関から上陸した。
だが、龍馬ははからずも、蒸気船ユニオン号の所属をめぐる薩長間のトラブルに巻き込まれてしまう。下関で足止めを食らった龍馬は十二月十四日、薩摩藩士岩下佐次右衛門(方平)・吉井友実連名宛てに書簡を発した(原書簡は木戸孝允のもとに保存されていたようで、現在は宮内庁書陵部蔵木戸家文書の中にあるのが引っ掛かるのだが、本題とは直接関係無いようだから、ここでは突っ込まない)。
まず、龍馬は岩下・吉井と上関で待ち合わせの約束をしていたのだが、行けなくなった旨を知らせる。つづいて、長州藩内で得たのであろう、幕府詰問使に関する次の情報を知らせる。
「案ずるに永井は諸隊の者と政府の論と、甚だことなり候心づもりなり。ゆえ、政府をたすけ諸隊を撃つ、或いは諸隊を助けて政府を撃つとの論のよしなり」
前年の長州征討の際、幕府側は長州藩内の「俗論派」と呼ばれた恭順派と結び付き、「正義派」と称する急進派を押さえて、降伏させた。その後、恭順を不満とする高杉晋作の下関挙兵に始まる内戦のすえ、「正義派」が再び政権を奪い、武備を充実させていた。だから、再征になったのである。
それでも永井尚志は、長州藩内には「俗論派」が、反主流派ながら生き残っていると見ていた。そこで再び「正義」「俗論」の対立を利用し、長州藩を屈服させようと企てていると、龍馬は言うのである。
(2)
永井尚志の情報源は、もと奇兵隊総督の赤禰武人である。内戦を主張する高杉晋作らと対立した赤禰は慶応元年三月八日、筑前黒崎から船で上方に走った。だが、四月二十八日、大坂で捕らえられ、京都の獄に投ぜられる。五月、永井の訊問を受けた赤禰は「和議」を望み、藩内情を説明した(史談会『報効志士名録・二』明治四十四年)。
ただ、赤禰の持つ情報は古かった。内戦のすえ、刷新された長州藩政の主導権を握っていたのは、木戸孝允である。木戸はきわめて独裁的なやり方で、椋梨藤太を首領とする「俗論派」勢力を根絶やしにし、藩が進む方向を明白にしてゆく。その時期は閏五月後半頃で、「明確に椋梨の味方と分かる者だけではなく、曖昧な態度を示し、椋梨らを容認する姿勢を見せ、藩主の判断を迷わせた者にまで処分を求めたのである」(斎藤紅葉『木戸孝允と幕末・維新』平成三十年)といった、徹底したものだった。
「俗論派」側の史料がほとんど現存しないため、ニュートラルな視点で幕末長州史を語るのは不可能とされる。それを抹殺したのは、明治以降の修史事業ではなく、おそらく木戸政権だろう。
そうとは知らない永井は十一月二日、赤禰と筑後浪士渕上郁太郎を牢より出し、広島まで連れて行き、釈放する。十二月になり長州藩に入った赤禰は「和議」を唱え、かつての理解者だった長府藩主毛利元周や吉川監物に働きかけるなどして周旋したがうまくゆかず、故郷の柱島に潜伏した。ところが十二月二十七日に捕らえられ、山口に送られて、一度の裁判も経ぬまま「不忠不義の至り」との罪状により、慶応二年一月二十五日、鰐石河原で斬首される。享年二十九。赤禰が着ていた白地の羽織には「真似偽、々似真(真は偽に似、偽は真に似たり)」と書かれていたという。
(3)
先述の龍馬書簡には、赤禰らしき者の話題が出てくる。宮地佐一郎『龍馬の手紙・講談社学術文庫版』(平成十四年)から引用すると、「京よりミブ(壬生)浪人同伴ニて帰りし、長人ハ虎口をのがれしと大ニ笑合候」となる。壬生浪人とは、永井に従い広島まで来た新撰組局長近藤勇らのことで、赤禰と渕上を京都の獄から出し、連れて来たと見られていた。
『龍馬の手紙』の翻刻では「帰りし」の後に句読点を打ち、「長人」とつづく。このため意味が通じ難くなる。この読み方に従った宮川禎一『増補改訂版 全書簡現代語訳坂本龍馬からの手紙』(平成二十六年)では、「この永井主水一行には、京都から壬生浪士が同行して来ました。しかし何ごともなく、永井とともに帰っていったので『長州人は虎口を逃れたよ』などと皆で大笑いしました」と訳しているが、かなり苦しい。大体、虎口を逃れるか否かは、これから決まるはずだ。
この部分は「帰りし長人」と、句読点無しで読むのだと思う。「長人」とは長州藩の全住民ではなく、赤禰一人(もしくは渕上と二人)を指すと考える。すると、壬生浪人が連れ帰った赤禰は、まんまと釈放されて、命びろいしたといったニュアンスになる。それが龍馬には、幕府側に一杯食わせたように見えて、痛快だったというのだ。第三者が付ける句読点ひとつで、書簡の意味ががらりと違ってしまう一例である。
もっともこの時点で龍馬は、赤禰の苛酷な末路を知るよしもない。藩政府にすれば、「和議」を唱える赤禰をより残忍な方法で処刑することにより、確固たる開戦の決意を藩内外に示す意味もあったのだ。
なお、晋作が亡くなる間際に、「先きに武人の心事を洞察すること能はず、其生命を保たしめざりしは遺憾とするところなり」と漏らしたともいうが、真偽の程は定かではない(赤禰篤太郎「長州藩報効志士赤禰武人事歴補遺」『史談会速記録・二二八輯』大正元年)。維新後、赤禰の霊は郷里の招魂場や東京の靖国神社にも、合祀されなかった。跡を継いだ篤太郎は追贈により赤禰復権を目指したが、軍人政治家として権力を握る山県有朋や三浦梧楼らの反対もあり、実現しなかった。
(「晋作ノート」63号、2025年1月)
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