木曽源太郎が見た彦斎と晋作

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 いまから四十年近く前のこと。ある出版社の編集長に持ち込んだ企画が通ったので、私は連日のように東京都内の幕末維新に関する史跡や墓を訪ね歩いた(その成果は紆余曲折を経、『幕末歴史散歩 東京篇』の題で平成十五年、中公新書の一冊として出版した)。

 先日、当時撮影した大量の写真が出て来たので眺めていたら、府中市片町の高安寺にある木曽源太郎の墓を写した一枚があった。メモには、昭和六十二年(一九八七)十二月とある。

 それは、表に「贈正五位木曽源太郎義顕墓」、裏に沢宣元(宣嘉次男)の撰文を刻む。墓地の中でもひときわ立派にそびえ建ち、昭和十四年五月に東京府旧跡に指定されている。しかし、木曽の事績を見る限り、失礼ながら墓が「旧跡」になる程の人物とは思えなかった。

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 木曽源太郎は天保十年(一八三九)、肥後熊本藩士の家に生まれ、国学者の林桜園などに師事した。文久三年(一八六三)に脱藩、尊攘運動に奔走する。同年十月には七卿のひとり沢宣嘉を奉じて、平野国臣(次郎)らと但馬生野で挙兵するも、敗走した。

 その後は長州藩の庇護下に入り、維新後は徴士となって伊勢度会府判事、湊川神社・鎌倉宮の宮司などを務める。府中の長女の嫁ぎ先に身を寄せ、大正七年(一九一八)十二月二十一日、八十歳で没した。『贈位諸賢伝・上』(昭和二年)には「平素名利の念に薄く、晩年野に下り民業に従事せしも、多くは失敗に終る。不遇の間、老に至るも钁鑠として志気毫も衰へず」とある。大正十三年二月には正五位を追贈された。

 地元で作られた数冊の郷土史本や史跡ガイドでは、木曽に「勤王の志士」の肩書を付していたと記憶する。ただ、「志士」と呼ぶには、いささか長生きのような気もする。一般的に「志士」の「志」とは明治維新の成立だから、成立後まで生きても「志士」とは呼ばれない。木曽の場合は晩年、府中あたりで「勤王の志士」の生き残りとして、名士の扱いを受けたのかも知れないとも思った。没して二十余年後に墓が旧跡に指定されたのも、そうした空気が残っていたからではないか。

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 その後私は、木曽の回顧録『維新志士 回瀾余滴』と題された、毛筆書きの和本を手に入れた。それは罫紙二十四丁(表紙を除く)から成る。いまのところ、翻刻されたものにはお目にかかったことがないから、あるいはこれがオリジナルなのかも知れない。

 緒言には「今般、野生が若年の頃、天下の有志と交際を致しました実歴を御尋ねに付、聊か記憶したる事を物語り致すでござる」(カタカナは原則てして平仮名に改めた。以下同)云々とある。質問者が誰なのか、いまのところ不明だが、木曽の談話を書きとめて整理したもののようだ。

 目次は「坂本龍馬」「石川誠之助」「高杉晋作」「久坂玄瑞」「真木和泉守」「佐久間象山之最後」「春日潜庵の人物、横井小楠との議論」「元治の役、来島又兵衛の討死」「枝吉木工介」「鷹取養巴」「野村望東尼」「藤四郎」「当年の介子椎」「薩長和睦の事」「西郷南州」「平野次郎」「宮部鼎蔵」「轟武兵衛」「肥後藩勤王党の奐起」「諸藩の勤王家と肥後の有志」「月照薩摩潟にて入水の事」の全二十二項から成る。ざっと読んだところ、木曽自身が若い頃、いかに「有名人」たちと付き合ったかを、懸命になってアピールしているような印象を受けた。

 「坂本龍馬は、私は故ありて懇意でござりました」「真木和泉守は、私も同志中で最も親しく交際をした人でござる」「来島又兵衛の事お尋ねであるか。此は私よくよく知己でござりました」「西郷吉之助も私は故あつて古い知己である」「平野次郎は、故あつて私も極く懇意でござりました」といった調子である。

 聴取の時期は明治の終わりか、大正のはじめだろう。すでに、西郷や龍馬などは講談小説の「英雄」「偉人」になっていた。そうした人物たちとの交流を語りながら、「勤王の志士」として府中で不遇な晩年を過ごす木曽の姿が思い浮かぶ。もっとも、府中のある多磨地方は新撰組贔屓も多いだろうから、反感を抱かれたかも知れないが。

 話がオーバー気味なのはともかく、こうした回顧録にありがちな故意の創作は、あまり無さそうだ。その辺りを考慮して冷静に読めば、他には無い面白い話も拾えるだろう。

 先の龍馬の部分で言うと、木曽と「懇意」になったのは「坂本は薩摩に潜匿して薩摩の上町の開成所に居る時分」だったという。龍馬が薩摩の庇護下に入っていたと、私はずっと以前から考えているが(そういう見方が気に食わないというカルトめいた会の連中から、暴力的で不快な誹謗中傷をさんざん受けたが、その考えに変わりはない)、具体的な居所まで述べるのは信憑性がある。また、長州再征さ中、長州で会った龍馬は「夫戦争を仕舞つたら洋行をする」と語ったというのも、他の史料と符節する。

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 宮部鼎蔵はじめ肥後熊本の同志の話も、具体的で面白い。木曽の故郷に対する思いは、かなり強かったらしい。

 元治元年(一八六四)七月十一日に京都で起こった佐久間象山暗殺事件の犯人が肥後の川上坊主(河上彦斎)との情報が、木曽にどう伝わって来たのかも、語られている。今日、犯人を河上とすることには異説もあるようだが、あくまで木曽の視点である。

 その頃木曽は京都河原町の長州藩邸に潜んでいたという。象山が天皇を彦根に移すとの「風説」があったため、「隠岐国の浪士松浦太郎、大和の浪士友(伴)林光平の伜友林六郎、因州鳥取の脱藩、川上彦斎、此四人で河原町で斬戮したと云ふことである。是は河原町の長州邸内に私は居て此事を慥に聞ました」と、述べる。

 その後、「禁門の変」に参戦するも敗れた木曽は、またも長州藩に逃れたが、「長州(周防)の賀川(嘉川)駅の何とか云ふ一向宗の寺(明正寺)で播州赤穂藩の望月列、中島作太郎信行、又中島信行が親友に細見某、又芸州の穂上照人、又彦山の山伏の鬼谷●(日へんに真)、柏木民部と云法師武者数人屯して居ました」とする。長州藩が嘉川に浪士を集めていたことも、他の史料と符節する。そして、ここで木曽は河上と再会し、直接象山暗殺の状況を聞く。

「其処で京都以来、始めて川上彦斎に面会致しました。其時、佐久間象山斬戮の話を致した。其時、初て川上彦斎の実際の話を聞たでございます」として以下、暗殺の様子がリアルに語られる。ここでは後半部分を引用する。

「果して佐久間修理が馬を引返へして駈戻つて来た。其処を隠岐国の同志の松浦太郎と云ふ、此者が行きなりに脛を斬つた。其処で馬から落ちた。其の所に川上坊主が斬掛けたところが、陣笠を切つたと云ふ。それでも象山も壮になもので刀を七、八寸抜いたが、今度は因州の吉村、是は剣術使ひで、漸く首を刎ねたと云ふことで、其処で象山は落命したと云ふことである」

 この話をした後、河上は「若し肥後流の居合を佐久間修理が稽古したものであらば、迚ても川上坊主は命は無かつたが、佐久間が抜刀の術知らなかつたが仕合せ」との感想を、木曽に吐露したという。河上は颯爽として剣を奮ったわけでもなく、後々まで脅えていたというのも、何だか生々しい。

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 木曽は高杉晋作についても、「高杉も能く私は知りて居りますが」といった調子で話を始める。「追々筑前でも落合ひ、長崎でも落合ひ、下関でも落合つて、極く懇意であつた」とも言う。検討の余地はあるが、筑前や長崎で木曽と会ったというのは意外である。

 また、「高杉は余程面知(白)い人物で、同志中の人望も余程ござりました。就中、長州内乱の節などは余程功績がござる」と言う。それから、晋作が『孫子』を愛読していた話になる。

「孫子を読むことを好みて、孫子の談に及ぶと、食することを忘るヽ位なことでござつた。或る時下ノ関戦争後、面会したとき語つたことに『孫子ならざることなし』と言つた。小倉の戦争は大に高杉の力がある」

 この『孫子』は、「松下村塾蔵板」として出版されていた亡師吉田松陰の『孫子評註』だろうか。晋作が孫子の一節「見日月不為明目聞雷霆不為聡耳」を揮毫したものも残っているから、この話も他の史料と符節する。

 木曽が「同志中の人望も余程ござりました」と語るように、晋作は嘉川の浪士たちに何かと親切だった。土佐浪士の田中光顕には陽明学を勧め、その一節を揮毫して与えている(田中光顕『維新風雲回顧録』)。あるいは慶応元年(一八六五)十一月頃には田中の紹介という京都浪士の沢田信太郎に「読書、松陰先師の遺教を受けたし」と弟子入りをせがまれ、困惑した様子が木戸孝允宛て書簡からうかがえる。

 木曽もまた、このように晋作を頼った浪士の一人だったのだろう。そして、数々の思い出話が数十年後、木曽を名士に祭り上げ、その墓を旧跡に指定させたものと考えている。

          (「晋作ノート」61号・2024年5月)

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