同志たちからの見舞状
(1)
いま、高杉晋作の詳細な評伝を執筆中なのだが、ある時から「あとがき」の内容を漠然と考えるようになっていた。そこには、自分が本書を書き改めるのは、晋作宛て書簡(来簡)がまとまって見つかった時だとの一節を、入れるつもりだった。来簡が保存されているわけがないとの思いも、実はある。
晋作が発した書簡は二百数十通が残っており、その大半を私は『高杉晋作史料・一』(平成十四年)に収録した。ところが、晋作に来た書簡というのは一部の例外を除き、ほとんど残っていない。例外とは藩主世子と吉田松陰からの書簡で、このふたりが晋作にとり特別の存在だったことが、窺える。それ以外は沙汰などの公文書的なものを除けば、晋作宛ては十通ほどしか確認されていない。
たとえば晋作が木戸孝允(桂小五郎)に宛てた書簡は、連名あても含めて三十数通、往復書簡は二通が確認されている。その大半は今日、宮内庁書陵部木戸家文書中に保存されている。ところが、木戸(一人)から晋作宛て書簡となると、わずか二通しかない。どうやら晋作は来簡を処分し、木戸はマメに保存したらしい。そのため晋作の主張、頼みごと、喜怒哀楽、愚痴などは分かるものの、木戸がどう反応したのかは、なかなか分かりづらい。キャッチボールになっていないのである。この問題は晋作伝記を著す者すべてに立ち塞がる、大きな壁だと思う。
(2)
ところが昨年(令和六年)秋、私の先入観を少しばかり揺るがす「事件」が起こる。知り合いの古書肆が送ってくれた、東京・神保町の古書会館で開催される『古典籍展観大入札会』の目録を眺めていたところ、ある出品物のところで目が釘付けになった。
古文書一括の説明中に、「高杉晋作他宛」云々とあったのだ。掲載された小さな写真は不鮮明で、内容はよく分からないものの、谷潜蔵(晋作の別名)宛て書簡数点が含まれているのは明らかだった。しかも、いずれも見たことの無い新史料のようである。
ない、と思っていた晋作宛て書簡が出て来たのだ。何が書いてあるのか、ぜひとも知りたい。落札者が公共機関ならばともかく、コレクターなら秘蔵され、二度とお目にかかれない可能性も高い。これは大変だと思い、さっそく古書肆を通じて個人で入札した。インターネットのオークションなどとは違い、大入札会は一般人は直接入札出来ず、業者を通じなければならない。札はひとりで四枚まで入れられる。どうしても欲しかったら、いまの私としては目一杯の金額を入れた。
それから結果発表までの一週間は、すごく落ち着かなかった。例の晋作伝記のあとがきは、この結果に左右されるだろう。「来簡が市場に出て来たが、落札出来なかった」といった敗者の弁は、なんとしても書きたくないので、晋作の写真を朝夕拝んでみたりもした。その間、古書肆の店主氏とは某作家氏を交えて博多で大酒を飲んだりしたが、入札の話題にはお互い触れなかった。
十一月二十日、店主氏から電話が入る。まず、この前の酒席のことなどで数言交わした。落札出来なかったので、気を遣って世間話で和らげているのかとも思い、不安がよぎる。ところが店主氏は、思い出したようにあっさりと「こないだの古典籍会、落とせましたよ」と言った。
店主氏にとっては沢山の入札のひとつで、大した問題ではなかったのかも知れない。しかも私が入れた一番下(安い)の札で落ちたから、いかに必死で入札していたかが分かる。次点との差がどのくらいかは不明だが、この調子では、もっと低い金額でも落札出来たかも知れない。しかし後悔は無い。私は電話口で歓声をあげた。
だが、売り手(どの店なのか、明かされないシステムになっている。店主氏はあくまで仲介者)の事情が急変する場合もあるだろうから、現物を手に取るまでは安心出来ない。それから数日間上京し、月末近くに帰宅したところ、まだ届いていなかった。よもやと思い、店主氏に電話をしたら「あーすいません、忙しかったもんで、今日発送します」。拍子抜けした。晋作宛て書簡が出て来ても、世間はこの程度のことなのかも知れないと思ったりもした。
(3)
さて、届いたのは、幕末維新期の長州関係古文書や詩書計十点を張り交ぜた二巻の巻子で、うち一巻に晋作宛て書簡が四通収められている。他にも若い頃の伊藤俊輔や山県狂介の書簡(晋作について触れた内容)など、興味深いものも含まれているのだが、ここでは晋作宛て四通につき、述べておく。まず、差出人と日付などは次のとおり。
①(慶応二年)(月欠)十三日 「谷潜蔵様」宛て 前原彦太郎書簡
②(慶応二年)十月二十三日 「谷潜蔵様」宛て 前原彦太郎書簡
③(慶応二年)十二月二十日 「谷潜蔵様」宛て 山県狂介・福田侠平書簡
④(慶応二年)十二月十三日 「谷先生」宛て (山田)市之允書簡
長州再征軍を相手に小倉口で戦った晋作は、はじめ海軍総督、途中から馬関口海陸軍参謀となる。だが、病状が悪化し、慶応二年(一八六六)九月下旬より、指揮を前原彦太郎(一誠)に託して療養生活に入った。四通はその頃から同年末までの、来簡である。その内容は、次のようなものだ。
①②は晋作の代役となった前原彦太郎からの報告。②は十月十七日に呼野(現在の北九州市小倉南区)で行われた小倉藩との講和談判に、「原狷介」と変名して出席した前原が「何も出先に於いて、あらまし取り極め申し候。悪しからず思し召し遣わされ候よう願い奉り候」と、晋作の了承を得ずに決めたことを謝る。この日、長州軍は東は狸山、西は金辺峠の「要地」を小倉側から受け取ることが決まった。また、小倉側に駐屯する長州兵もなるべく減らし、「御国力の万一をも補い」たいので、山県狂介らが訪ねて行ったら「然るべく御一声希い上げ候」と言う。
③は奇兵隊軍監二人の連名だが、筆跡は山県狂介のもの。先述のように長州藩は小倉藩の幼君を人質として差し出すよう求めたため、講和談判は紛糾していた。窮した小倉藩は豊前国六郡をすべて明け渡すとして、十月下旬、藩士とその家族九千人は肥後へ向けて退却を始める。このままでは、長州藩が日本じゅうから非難されてしまう。山県らは再び戦争になると予測し、晋作に「渡海の覚悟」だと知らせて、「海軍えもまいり候よう御一言頼み上げ奉り候」と頼む。結局長州は十月二十七日の談判から、幼君人質の一条を外したため、「再戦」にはならなかった。
同志たちは晋作の病状を気遣うだけでなく、②③のように諸隊や海軍への口添えを頼んでいる。晋作の藩内、特に軍事部門における影響力の強さが窺える。読んでいると、百数十年前の晋作の日常が、突然眼前に現れた気がした。
(4)
④は三田尻に駐屯する御楯隊の軍監山田市之允(顕義)からの見舞状である。幕末の山田は尊攘、討幕運動に奔走し、維新後は西南戦争で活躍したて陸軍中将に進んだり、初代司法大臣などを務めたりした。晋作と山田間の往復文書は、これまで一通も見つかっていないから、まずはその点が新鮮だった。
山田は、晋作のことが日夜気になっているが、「今以て御見舞いつかまつり得ず、千万本懐に背き候」と謝る。その理由は他の幹部が山口に行き、隊を留守に出来ないからだという。それでも晋作の病状を気遣い、「何卒精々御気長御保養、邦家のため祈り奉り候」と結ぶ。宛名は「谷先生座下」とあり、五つ年長の晋作に対する篤い敬意が感じられる。
晋作と山田の階級は共に大組で、明倫館や松下村塾で学んだ。しかし年齢差もあったためか、その交流を示す史料は、あまり多くは無い。晋作が万延元年(一八六〇)閏四月、藩の軍艦丙辰丸に乗り込み、航海実習のため萩から江戸へ赴く際、見送る山田が作った「送高杉暢夫航海東行」と題した七絶が一番古いものだろうか。元治元年(一八六四)一月二十八日、富海から上方まで海路向かった晋作に、山田が同行している。慶応二年六月十二日、第二次長州征討の中、海軍総督の晋作が丙寅丸で大島沖の幕府軍艦を奇襲した際、山田も加わった。後年、山田は「君(晋作)艦首に立ち、眼を瞋り叱咤」(『東行遺稿』明治二十年)云々と回顧している。
晋作は下関の病床から慶応三年一月十七日、萩にいる父小忠太に発した手紙で、萩への帰省は難しいと知らせた。それでも「三田尻へなりとも罷り越し候はば、同志も多く風流の友も少なからず、旁一薬石かと相考え居り候」と言う。三田尻には御楯隊が駐屯しており、その中には山田もいた。会えば気晴らしになるという「同志」のひとりに、山田がいたのかも知れない。だが、それから三カ月後、晋作は他界した。山田は晋作墓前で「東行谷氏墓下作」と題す、次の七絶を作っている(『学祖山田顕義漢詩百選』平成五年)。
「曾游旧夢総悠悠 落葉残烟不耐秋 欲問将来多少策 墓門露冷百蟲愁(曾て游ぶ旧夢総て悠々。落葉残烟秋に耐えず。問はんと欲す、将来多少の策を。墓門露冷かに百虫愁う)」
まだまだ指導してもらいたかったが、墓の前で聞こえるのは虫の鳴く声だけだとの転結句に、特に実感がこもる。晋作を、軍人の先輩として敬っていたようだ。
晋作と山田に関する、有名な逸話がある。最晩年の晋作を見舞った諸隊幹部が、今後諸隊の統率者を誰にすればよいかと尋ねたところ、晋作は「大村益次郎」と答えた。その後任はと尋ねると、「山田市之允に頼め」と答えた。さらに次はと尋ねたら、「そんな先まで俺が知るもんか」と言ったという(日本大学編『山田顕義伝』昭和三十八年)。
真偽不明の逸話だが、気になって私の蔵書の範囲で探ってみた。すると、明治二十七年十月に博文館から出版された臥竜逸士纂評『機智胆略 明治軍人譚』に出て来るのが、一番古い。山田が没して二年後で、もっと溯れる可能性もある。山田の晋作宛て書簡、山田の晋作墓前での作と繋げると、この逸話もまんざら不自然な気がしなくなった。
それにしても、このような史料が没後百六十年近くを経て出現するのだから、他にも人知れず、来簡などが眠っている可能性は無きにしもあらずだ。例えば井上聞多(馨)との強い信頼関係を思うと、往復書簡の現存数の少なさなどは特に気になっている。
(「晋作ノート」64号、2025年5月)
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