吉田松陰自筆の書簡を初公開
吉田松陰自筆の書簡を初公開
―松陰と弥二郎、書に漂う師弟愛の物語
(1)
今から百数十年前の幕末、日本は西洋列強の外圧という大きな問題に直面していた。これを「独立」の危機と見た吉田松陰(寅次郎)は、敵情視察のつもりで伊豆下田からアメリカ密航を企てるも失敗し、故郷である長州藩の萩(現在の山口県萩市)に送り返された。その後、松陰は幕府が行った「安政の大獄」に連座して処刑されたが、高杉晋作や伊藤博文ら門下生は、師の「志」を継ぎ、明治維新という大きな変革を成し遂げる。
密航に失敗した松陰が、萩で松下村塾を主宰した期間は、わずか二年あまり。塾舎は陋屋(狭小)で、門下生の大半は近隣に住む武士の子弟だった。だが、その中から日本を動かす多くの志士や政治家・軍人を輩出した。教育とは、時間や施設だけではない。そして、「人材」は探し回るものではなく、師が自らの背中を見せ、感化して育てるもの―こうした事実を、この「師弟」は教えてくれる。
では、松陰は門下生に何を伝え、どのような指導を行ったのか。幸い、三十歳という短い生涯にもかかわらず、松陰は六百数十通におよぶ書簡をはじめ、日記や論策、随想、詩歌にいたるまで多数の著作を残している。
松陰は「自分が死んだら遺骸は捨ててもらっても構わないが、志を託した著作だけは残して欲しい」との旨を遺言していた。だから遺族や門下生は、必死になってそれらを保存したのだ。
こうして昭和のはじめ(一九三四~三六)、に『吉田松陰全集』全十冊がまとめられ、出版された。後に全十二冊の普及版が編まれたり、復刻版が作られたりして、現在まで読み継がれている。だが、『全集』から漏れている遺文もあり、それがたまに見つかる。実は私も、京都の古書肆から入手した『全集』未収、安政五年(一八五八)五月一日、品川弥二郎宛て松陰書簡を所蔵している。流出の経緯は未詳だが、まさに松陰の筆跡だ。
軸装はされていたが、入手時の保存状態はかなり悪かった。紙は日に焼けて茶色く変色し、文字は判読出来るものの、所々虫食いもあったため、表具師に改装を依頼した。薬品で「焼け」を除き、紙を白くする方法もあったが、それでは紙を傷める恐れがある。そこで表装のみを新たにすることが、最善の保存方法と判断した。
今回、その書簡の内容を、初めて公開させてもらう機会を得た。埋もれていた松陰の「声」の一つを、こうして伝えることが出来、非常にうれしく思っている。
(2)
この書簡の魅力は、松陰の門下生に対する人間臭い、愛情に満ちた言葉が並ぶ点であろう。また、後述するように、情勢が一気に緊迫する直前のもので、ドラマチックでもある。まずは、全文と現代訳を次に掲げる。
(原文)
先日はちと風邪之由、其後如何哉
至極あんし候。拙者も于今全快不
致鬱々打過申候。一日見され千秋
のことし。故に態と岸田之遣し
書物入用ならは申越されよ。粟幾へ
事つけ可申候。今日より飛脚出達
之由にて拙者書状は仕出申候。栄太之
書状来るも来さるなるへし。残念々々。
併好便を期すべし。余は不備々々。
随分病気は用心に不可如候。
朔日□ 松陰生
弥次郎殿
(現代訳)
先日はちょと、風邪だったそうですね。その後いかがですか。とても心配しています。私もいまだ全快せず、すぐれぬ気分のまま過ごしています。一日会わなければ、千日会っていないような気がします。そこで、岸田が持って来てくれた書籍が必要なら、言って来なさい。粟幾(人名?)にことづけます。今日、飛脚が出発するらしいので、私は書状を出します。栄太の書状が来るはずでしたが、来ません。とても残念です。共によい便りを待ちましょう。あとは不備々々。
くれぐれも病気には、用心しなさいよ。
品川弥二郎は長州藩下級武士(十三組中間)の子として天保十四年(一八四三)、萩城下松本村に生まれた。近所の松下村塾には安政四年九月頃、十五歳で入ったことが史料から確認できる。松陰は弥二郎をそばに置いて墨をすらせたり、手紙の代筆をさせたりした。その学力よりも、人柄や素直な性格を愛し、「弥二の才得易すからず」と評している。
『松陰全集』書簡編には、十一通の弥二郎宛て松陰書簡を収められている。一番古いのは、安政五年四月十二日のものだ。父が昇格した祝いのため、数日塾を休んだ弥二郎に対し、「足下急々塾に来たれ、安坐を為すことなかれ」と催促し、課題まで出している。
それから約半月後に書き送ったのが、本状だ。弥二郎も松陰も、風邪で苦しんでいる。前便とは趣が変わり、とにかく弥二郎に会いたい、学問の力になってやりたいとの思いがストレートに伝わって来る。「一日見ざれば、千秋のごとし」など、まるで恋文のようである。他の弥二郎宛て書簡は、比較的厳しい言葉が並ぶのだが、これはひたすら優しい。
松陰は長州藩が江戸へ飛脚を出すので、その便に自分の書状も託すと言う。書簡に出てくる「栄太」とは前年九月に江戸へ行き、松陰に時勢に関する情報を送り続けていた吉田栄太郎(稔麿)のこと。この時は知らせが無かったようで、残念がっている。
(3)
この年二月、幕府は自由貿易を骨子とした日米修好通商条約の調印に、孝明天皇の許可を求めた。ところが西洋列強に侵略の意図ありと見る天皇は、なかなか許可を与えない。その成り行きを、松陰も門下生も固唾を呑み見守っていた。
すると四月二十三日、大老に就任した井伊直弼は、六月十九日、勅許を得ないまま条約に調印してしまった。天皇は激怒し、朝廷・幕府間に大きな溝が生じ、これが幕末政争の原因となる。
勅許無しの調印を知った松陰は、激化した。七月十三日、藩に呈した意見書で「墨夷(アメリカ)の謀は神州の患たるとは必せり」とし、「征夷(将軍)は天下の賊なり」と断じた。そして、今自分たちが将軍を討たなければ、後世の者から批判されると訴えた。
一方、弥二郎は家族の反対で、松陰との距離を置く。すると九月二十七日、松陰は遅疑逡巡する弥二郎に一書を寄せ、「三日を過ぎて来らずんば、弥二は吾が友にあらず」とまで言う。それほど期待していたのだ。それでも躊躇する弥二郎に松陰は「十七、八の死が惜しければ、三十の死も惜しし。八、九十になりてもこれで足りたと云ふことなし」と、迫る。人の一生は長さではない。何を成すかなのだと、説くのだ。
ここに至り、弥二郎は奮起した。松陰は「(弥二郎が)道に入らんとするを喜ぶなり」と歓喜する。だが、安政六年五月、「安政の大獄」に連座した松陰は江戸へ送られ、十月二十七日、伝馬町獄で処刑された。
以後、弥二郎は尊攘、討幕運動に奔走。明治になると新政府に出仕してドイツ駐在公使や内務大臣など要職を歴任する。そして弥二郎は京都の別邸内に「尊攘堂」を設け、松陰ら師友の遺墨を集めた(現在は京都大学附属図書館蔵)。あるいは数々の松陰の言葉を「松陰先生之遺訓」とし、多数揮毫して広めたりもしている。まさに松陰思想の伝道師である。「一日見ざれば、千秋のごとし」の一言は、弥二郎の脳裏から終生離れなかったのではないか。
弥二郎は明治三十三年(一九〇〇)二月二十六日、五十八歳で没した。その事績は必ずしも評価出来るものばかりではないが、愚直なまでに松陰の遺志を継ぎ、日本の独立、近代化を進めようとした思いは理解できよう。
(『第三文明』2024年11月号)
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