高杉晋作と土佐浪士

(1)

 高杉晋作は扇面への揮毫を好んだようで、私が確認している現存例だけでも十点を数える(『高杉晋作史料・二』『久坂玄瑞史料』に写真版掲載)。うち四点は、ここ二十年ほどの間に市場に出て来たもので、このままでは流出すると思い、個人で入手しておいた。そのひとつに、次のような二篇の五絶を書いたものがある。

「蝉脱青雲志 占関赤水●(さんずいに尋)

 午涼客探句 夜月妾携琴

 若莫七賢徳 迺之六逸心

 不言塵世事 黙坐対蒼岑

 一張還一弛 已往事茫々

 感古志空企 思今心自傷

 肉姦似狼虎 外賊是豚羊

 烽火四隣起 亦当発我狂

  土州楠本君嘱録近製二首

      穴門無頼生東狂」

「蝉脱青雲志」に始まるひとつ目は、赤間関(下関・馬関)での生活を題材にしたもの。昼は客が来て句を探り、夜は琴を携えて妾が来る云々とある。後に晋作みずから編んだ詩歌集『捫蝨処草稿』では「井上世外に寄す」の題を付けているから、元は井上聞多(馨)に贈った詩のようだ。

「一張還一弛」に始まるふたつ目は国内外、敵だらけの中で古人を思って志を固め、戦争になったら狂を発するといった決意を示す。『捫蝨処草稿』では「某の韻に次す」の題が付く。いずれも慶応元年(一八六五)前半の作と考えられる。

 そして、晋作が右の二篇を揮毫して与えた「土州楠本」とは、土佐浪士「谷晋」の変名「楠本文吉安茂」のこと。文吉郎とする文献もある。

 武市半平太(瑞山)の呼びかけにより文久元年(一八六一)に結成された土佐勤王党の血盟書にも、楠本の名が見える(瑞山会編『維新土佐勤王史』大正元年)。同三年八月十八日の政変で京都を追われた三条実美ら七卿の護衛者となった楠本は、長州藩に身を寄せた。「禁門の変」のさいは、みずから志願して長州軍に加わり上京している。

(2)

 慶応元年(一八六五)になり、三条ら五卿(ひとりが脱走、ひとりが病死)は九州太宰府へと移ったが、楠本もこれに従った。同年六月ころ、楠本は三条から何らかの任務を与えられ、京都に滞在している。

 六月二十日、太宰府に帰るため京都を発つ楠本は、同郷の同志である坂本龍馬・中岡慎太郎から長州藩の桂小五郎あてのメッセージを託された。この後、下関に寄らなければ(おそらく二週間余り滞在)、楠本の名は幕末史上に記録されることは無かったかも知れない。

 当時、朝敵の烙印を押されていた長州藩は、開港場への出入りが出来なかった。そのため軍備強化を考えたにもかかわらず、外国から武器を購入することが出来ず困窮していた。そこで桂は仇敵視していた薩摩藩の名義を使わせて欲しいと、龍馬らに斡旋を依頼する。楠本は、その進捗状況を桂に知らせる役を担ったのではないか。

(3)

 下関を訪れた楠本から情報を得た桂は手ごたえを感じたのか、長州藩政府に稟議せず、独断で井上聞多と伊藤俊輔(博文)を武器購入のため、長崎へ派遣することにした。半年後の、いわゆる薩長同盟締結への助走となってゆく一連の動きだが、従来の史書ではこの間の晋作の言動を、ほとんど伝えていない。最も詳しい中原邦平『井上伯伝』(明治四十年)などにも、この部分で晋作の名は見当たらない。

 だが、晋作は四月から四国方面に亡命したものの、六月上旬には下関に戻っていたので、まったく関係無いとは考え難い。書かれている詩の作られた時期から見ても、先の詩書扇面は、下関滞在中の楠本に贈られたものだろう。この史料から、晋作は楠本にも会い、何らかの謀議に加わったと察せられる。

 井上・伊藤は楠本とともに慶応元年七月十六日朝、下関を発ち、翌十七日夕方、まずは太宰府に到着した。やはり土佐浪士で三条に仕えていた土方楠左衛門(久元)の日記『回天実記』十七日の条には、次のようにある。

「暮頃、谷晋(楠本)帰着、同人六月二十八日京師出足、浪華に於いて二日滞留、帰途長州に立ち寄り、昨朝馬関出足、今朝黒崎より帰り候由(中略)四つ時より大町松屋に行き、長藩伊藤俊助・井上聞多両人に面会、右両人は今日当地着にて種々談もこれ有り、九つ時頃帰着」

 十八日、井上・伊藤は太宰府詰めの薩摩藩士に会い、長州人では長崎までの道中、支障があるため、薩摩藩士の名義を使わせて欲しいと頼み、許されている。つづいて十九日、井上・伊藤は三条らに拝謁後、太宰府を発つ。三条は、長崎まで二人に楠本を同行させることにした。

 長崎到着は二十一日で、楠本は亀山社中の土佐浪士千屋虎之助らに井上・伊藤を引き合わせる。さらに話は、亀山社中から長崎出張中の薩摩藩重臣小松帯刀に通じてゆく。その結果、長州藩は薩摩藩名義で七千挺の小銃と蒸気船軍艦一隻を長崎のグラバー商会から購入することになり、軍備は一躍充実した。そして慶応二年一月の、薩長同盟締結となる。

 この間、晋作は裏方に徹していたようだ。慶応元年十二月、薩摩側との会談を渋る桂(木戸寛治)を、君命を引き出して上京させた。あるいは、土佐浪士の坂本龍馬に下関で会ったりした。そのさい、晋作は龍馬にピストルと「識者謀航海」に始まる五言絶句を揮毫した扇面を贈ったようである。この扇面は龍馬が下関での寓居としていた本陣伊藤家の末裔方(東京在住)に伝わっており、展覧会などで時々お見かけする。

 晋作は慶応三年四月十三日、下関で病没したが、その訃報を二十一日、太宰府の三条のもとに届けたのが、「谷晋」こと楠本であった。土方は同日の日記に「惜しむべし、惜しむべし」と書く。

 楠本がその後どのような人生を送ったのか、私には分からない。人名辞典などにも立項されていないようだし、土佐勤王党の生き残りで結成された瑞山会の名簿(『維新土佐勤王史』)にも、それらしい名は無い。ただ、本人が意識したか否かは分からないが、幕末史の大きなターニングポイントに立ち会っていた人物であることには違いない。晋作の詩書扇面が、それを裏付けている。

(「晋作ノート」43号・平成30年8月)

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