高杉晋作と南條範夫
(1)
多くの時代小説・歴史小説を遺した直木賞作家の南條範夫さんには昭和の終わりころ、一度だけお目にかかったことがある。場所は東京の某出版社主催のパーティーの席上で、世はバブル経済の絶頂期であった。そのころ僕は大学生で、雑誌編集を手伝ったり、雑文を書いたりしていたので、そんな場に足を踏み入れさせてもらったのだ。
痩せて、好々爺のような南條さんはソファーに腰掛け、銀座のホステスをはべらせて、数人の大御所たちと酒を酌み交わし、談笑中だった。にもかかわらず、おそるおそる近寄って行った僕を隣の席に招いてくれて、あれこれと話を聞かせてくれた。以前から僕は南條さんの十八番とされた「残酷モノ」の『戦国残酷物語』や『被虐の系譜』に魅了されていたのだが、『城下の少年』も面白かったですと言ったら、 「君は高杉晋作が好きなのか」
と、眼鏡の奥の目を細めながら、機嫌がよかった。
南條さんは明治四十一年(一九〇八)の東京生まれだが、戦前、山口高等学校で青春時代を過ごし、それから東京帝国大学法学部に進んだので、晋作には深い思い入れがあるらしい。そのことは、たとえば『高杉晋作 青春と旅』(昭和五十八年)というムック本に収められた、奈良本辰也さんとの対談などを読むと分かる。この対談で南條さんは、晋作との「出会い」を次のように語る。
「私が高杉晋作の名前を初めて知ったのは大正五年です。まだ小学生でした。そのころ、親父がとっていた唯一の雑誌に『日本及日本人』というのがあって、大正五年に高杉晋作の特集号を出した。今も大事にとっています。高杉晋作の奥さん、妹さん、早くに死んでしまった伜、お父さん、お母さんの写真が載っています。それを見て、高杉晋作という人は、どういう人なのかと親父に聞いた。そうしたら親父がこういう人だと話してくれた。で初めて覚えたんですよ。それ以来のオールドファンです。(笑い)」
南條少年の目に留まった雑誌とは政教社から出ていた『日本及日本人』六七七号で、晋作五十年祭記念の「高杉東行先生」特集である。当時は存命だった妻政子や、奇兵隊出身の三浦梧楼(五郎)の談話も掲載されていて生々しい(南條さんは大切にしていたこの雑誌を後年、東行記念館に寄贈された。僕はその復刻版の出版を企画担当することになるのだが、思えば奇縁である)。
また、南條さんは大正五年当時のこととして、次のようにも語っている。 「最初に親父が晋作のことを話してくれたとき、子供にもわかりやすいと思ったのでしょう。『彼は義経みたいな人だ』といったのを覚えています。ほんのちょっとしか生きていなかったし、歴史に登場した期間もほんのちょっとだつたけれど、偉い人なんだと教わったことを覚えています。晋作は天才ですね」
さらに、もし、晋作が明治以降も生きていたらとの問いに対しては、
「晋作は、あれだけの地位にいたので、無理やりに参議くらいにさせられたと思いますね。だけど、陰険な策略のできない人ですから、おそらくは三日ともたないで、辞表をたたきつけて萩に帰り、叛乱を起こしていたんじゃないかと。(笑い)八十歳の晋作なんて想像できないですから、やっぱりあの時(二十九歳)で死んでよかったのでしょうね、おそらく」
と答えている。いたずらに「夢」を追いかけないところが、「残酷」という厳しい視点から歴史や人間を眺め続けた南條さんらしいと思う。
(2)
南條さんは晋作を、同時代人またはそれに近い人と考えていたようだ。先の対談の中で、次のように語っている。
「今から五、六十年くらい前、私が山口にいたころ、松下村塾へ行ったことがあります。そのころはまだ、明治維新を体験した老人がたくさん生きていました。松下村塾の近所に住んでいる老人が話してくれたことなんですが、松陰が伊藤俊輔(博文)を叱っている現場を見たっていうんです。その叱り方が、まるで小僧扱いに『伊藤おめえは…』というような感じだったそうです」
南條さんは、維新の体験者に直接話を聞ける世代だった。つづいて、現代の若者たちと話したこととして、世代のギャップを次のようにも語る。
「このごろ、若い人と話していると、伊藤博文とか井上馨とか、そういう連中は皆、テレビの『新撰組』で知っているんですね。(笑い)だから皆丁髷をつけて、しょっちゅう斬りあっていたと思っている。ところが、われわれが子供のころは、井上馨・山県有朋・西園寺公望、皆生きていた。大隈重信なんか、私の中学時代の人です。渋沢栄一は大学時代に大学新聞の取材で会いに行ったことがある。板垣退助だって生きていました。相撲を見にきていた。だから、彼等は私から見れば年はずいぶん違うけれど同時代人なんです。今の中・高校生が岸信介とか田中角栄を見るのと同じ程度の同時代人なんです。だから、若い人たちは伊藤を丁髷の志士だと思っているし、私は同時代人だと思っているので、話がおのずとかみ合わなくなるわけです」
残念ながら、このような維新にかんする聞き書きが、山口県にはほとんど残っていない。あまりにも歴史が身近すぎて、軽視されたのかもしれない。
(3)
さて、僕が南條さん本人を前に書名を出した『城下の少年』だが、昭和五十年(一九七五)に中央公論社から単行本が出ている。
藩校明倫館に通う思春期の晋作が、美少年の久坂秀三郎(玄瑞)に恋愛のようなモヤモヤとした感情を抱くのだが、遊郭に行って童貞を捨てると、なんだかすっきりしてしまうという三カ月間の物語。晋作が九州遊歴から帰って来た久坂と再会し、「おれも、明日から、吉田先生の処に行くつもりだ」などと話すところで終わるというのも、ユニークだ。
「あとがき」によると、昭和三十八年、「小説中央公論」にとびとびに連載して『鷹と氷壁』の題でまとめたものを、全面的に改稿したのが『城下の少年』らしい。さらにもう一度改稿して、平成四年に『少年行』の題で講談社から単行本が出た。『少年行』の「あとがき」では、
「私はかなり多くの小説を書いたが、すべて書き放しのままであり、大幅に改めたのは本書だけである。と云うことは多分、私が、この書に、多少の愛着をもっているからであろう」
などと述べられている。こうして見ると、僕が『城下の少年』の話題を出した時、南條さんが嬉しそうな顔をされたのも、偶然ではなかったのかも知れない。こんにち、僕はこの物語は江戸遊学中、不安になった晋作が萩の久坂玄瑞に対し、
「心中には僕はとても及ばぬ、これ頼るべき人と思い、兄弟の盟をも致したきと、しょせん思い居り候えども、これ迄遂に口外つかまつらず居り候」
といった思いを吐露した、ラブレターのような手紙(安政六年〈一八五九〉四月一日付)を書いていることにヒントを得たのではないかと考えてたりもしている。
この夜、南條さんと何を話したのか、三十年近くも前のことで、よく思い出せないのが残念なのだが、ともかく、なんだか悪い気がしたので、サインでも頂いてさっさと退散しようとした。すると南條さんは、
「そんなものは後から送ってあげるよ」
と言われ、もうしばらく隣で飲ませてくれた。
こうした酒席での約束は一般的に、なかなか実現されない場合が多いのだが、南條さんは数日後、ちゃんと宛て名入りのサインが入った著作『天翔ける若鷲』(昭和五十三年)の単行本を郵送してくれたので感激した。こちらは成人後の晋作の活躍を描いた、『城下の少年』の続編のような歴史小説だ。のち、昭和六十三年に『高杉晋作』と改題されて、PHP文庫にもなった。いまもその時のサイン本は、封筒と一緒に大切に保存している。
あとから思うと、南條さんは中央大学・立正大学・国学院大学で教えた経済学者でもあったから、もともと学生と話したりするのが好きだったのかも知れない。もう一度お会いしたいと思っていたが、その機会は訪れず、平成十六年十月三十日、九十五歳で亡くなられた。晩年まで執筆活動に精力的に取り組まれていたのは、驚異である。
南條さんの人柄を評すに、「親分肌」という言葉が正しいか否かは分からないが、ともかく懐の大きそうな方だったという印象を、僕はいまも持っている。わずかな時間だが、お話し出来たことは、誇りに思える。いまは学界も文壇も、「親分肌」なんて人たちをほとんど見かけなくなった。器の小さい「親分」気取りが多すぎるから、餌を恵んでもらえない「子分」たちの気持ちは、荒む一方だ。せめて自分は付いて来る世代に対し、南條さんのようにありたいと願うばかりである。
(「晋作ノート」35号、平成27年12月)
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