高杉晋作と五代友厚

一、「横」の繋がり

「幕末の志士」と呼ばれる人々は江戸や京都に集まり、藩や身分階級を超越して「横議」「横行」「横結」といった結び付きを強め、それが「維新」へと発展したとされる。いつの時代も、「お山の大将」「井の中の蛙」から歴史を動かすエネルギーなど、生まれて来るはずがない。長州萩に生まれ育った高杉晋作もまた、「外の世界」を見ることで大きく飛躍した若者であった。

江戸で世子小姓役を務めていた晋作に、情勢視察の目的で清朝中国の上海に渡航せよとの沙汰が出たのは文久二年(一八六二)一月のことだ。幕府が出貿易視察のために上海に送り込む一団に、幕臣犬塚某の従者という身分で従うのである。身分を変えるのは一大名の家臣では、海外渡航の資格が無かったからだ。

晋作はひとまず、長崎へと向かった。

幕府が上海行きのためイギリス商人から購入した千歳丸は、三本マストの木造帆船。これに日本側からは水夫も含めて五十一人が乗り込んだ。他に操船のため、イギリス人十三人と貿易仕法の指導者としてオランダ人一人が同行する。晋作のような、幕臣の従者となって参加した諸藩士などは十二人を数えた。

その年四月二十九日、千歳丸で長崎を発った一行は約二カ月の上海滞在を終え、七月十四日、長崎に帰着している。

この時から二十年前、「アヘン戦争」でイギリスに敗れた清朝中国は、「南京条約」を締結させられた。それによって上海など五港が開かれ、開港場にはイギリスの領事館が設けられる。中国の貿易の主導権は、イギリスに奪われ、なかば植民地のような状況になってゆく。さらにアメリカやフランスも中国と通商条約を締結して、上海などに進出して来た。

旅行中、晋作は幕府役人に対し不満を抱いていた。かれらはホテルの部屋が狭いと文句を言ったり、出張手当がいくら貰えるかなどと語り合っていたらしい。晋作は西洋列強の実力を目の当たりにし、危機感を高めていたから、そんな低俗な役人たちに腹を立てていたのだ。

一行の中で晋作が人物として認め、特に親しく交わったのが、佐賀藩士の中牟田倉之助と薩摩藩士の五代才助(友厚)である。

中牟田は晋作と同じく幕臣の従者という立場だったから、上陸して同じホテルに泊まり、共に上海市街を歩きまわることが出来た。英語が堪能な中牟田は英字新聞を訳し、漢文が得意な晋作は中国人との筆談に実力を発揮するなど、お互いを補い合って情報を収集している。

一方、五代は港に碇泊中の千歳丸から、原則として離れられない。薩摩藩から上海渡航の許しを得た時、すでに幕臣の従者という枠が埋まっていたため、「水夫」として参加したからだ。だから晋作は五代を千歳丸に訪ね、いろいろと話し合った。いささか不便な「横議」「横行」「横結」であったが、それは晋作の人生にとり、大きな意味を持つ時間となったようだ。

二、五代との出会い

五代才助は天保六年(一八三五)生まれだから、同十年生まれの晋作よりは四ツ年長だ(文久二年当時で五代は二十八、晋作は二十四)。十三歳の時、世界地図を模写して藩主島津斉彬に献じたとか、直径六〇センチの地球儀を自作したといったエピソードがある。安政四年(一八五七)に選ばれて長崎の幕府海軍伝習所へ遊学し、オランダ士官から指導を受けた。また、文久二年(一八六二)一月、英国商人グラバーと共にひそかに上海に渡り、蒸気船一隻を購入し、翌月には薩摩に回着している。

このように、すでに上海渡航の経験もある五代は、当時としてはずば抜けた国際感覚の持ち主だったことは想像に難くない。

晋作と五代が初めて話したのは、文久二年五月三日のこと。場所は長崎から上海に向かう、千歳丸の中だ。その日の晋作の「航海日録」(『遊清五録』所収)には、次のような記述がある(以下、原則として現代訳。拙著『高杉晋作の「革命日記」』〈平成二十二年〉など参照)。

「この日、はじめて同船の才助という水夫と話す。才助は実は薩摩藩の五代才助である。姿を変えて水夫となり、この船に潜り込んだという。先日、才助が長崎の宿に僕を訪ねて来てくれた時、病のため話せなかった。一見して旧知の友のように、肝胆を吐露して大いに志を語り合い、得るものがあった」

もう、のっけから手放しの絶賛である。実は晋作も数年前の安政六年(一八五九)八月二十三日、盟友の久坂玄瑞にあてた手紙の中で「大軍艦に乗り込み、五大洲を互易するより外なし」とし、「軍艦の乗り方、天文地理の術」を学びたいと述べていたほどだから、五代の話に共感したのも頷ける。つづいて同日の晋作日記には五代が、

「私はさきに主君に従い、大坂に行った。大坂のあたりでは、浪人狂士が何やら騒動を起こそうとしている」

と、不安をかき立てることを言ったとある。これは薩摩藩国父の島津久光が一千の兵を率いて上洛するさい、攘夷激派が挙兵討幕を企んだことを指す。実は久坂玄瑞など松下村塾グループも、この計画に参加していた。四月二十三日、伏見でいわゆる「寺田屋騒動」が勃発し、薩摩藩士有馬新七ら犠牲者を出して挙兵計画は頓挫するのだが、その知らせはまだ、上海に向かう晋作や五代のもとには届いていない。

三、上海での交遊

上海到着から十日あまり経った晋作の日記「上海淹留日録」(『遊清五録』所収)の文久二年(一八六二)五月十六日の条には「この日、僕は外出して千歳丸に行き、五代才助と話をして帰館する」、翌十七日の条には「中牟田・五代と川蒸気に行き、諸器械を見る。船はイギリス人の所有」などとあり、時々は行動を共にしていたことが分かる。同月二十三日の条には、

「五代とともにイギリス人ミユルヘットを訪ねる。ミユルヘットは耶蘇教の宣教師だ。耶蘇教を上海の人々に布教してまわっている」

などとある。晋作はキリスト教に対して強い不信感を抱いており、ミユルヘット(ウィリアム・ミュアヘッド)のことも信用していない様子だ。この日会ったミユルヘットは、『大英国志』の著者であった。同書は日本にも輸入され、長州藩の「温知社」からも上梓されており、晋作も読んでいた。そのことに、晋作が気づいていた様子はない。

六月七日には衝撃的な知らせが届く。

「千歳丸に五代を訪ねる。五代が言った。

『日本からの手紙が届いた。それによると、京摂の間で少し変事があったという。長州藩もまこれに関わっているらしい』

僕はこれを聞いて少し驚いた。五代は、

『事は決し、すでに鎮まったようである。あなたは心配しなくてもいい』

とも言ってくれた。それでも僕の魂は飛び、心は走る。しばらく慨然としていた」

これが先述の「寺田屋騒動」のニュースだったことは、ほぼ間違いない。衝撃を受けた晋作はオランダ商館に赴き、ピストルと地図を購入した。

以後、『遊清五録』に収められた日記の断片のようなものによると、六月十八日の条に「朝、五代来談」と見える。あるいは上海を離れる直前の七月二日の条には「朝、五代と上陸(すでに晋作もホテルを引き払い、千歳丸に乗り込んでいるのだ)。字林洋行及び施医院堂書を求む」とある(『高杉晋作史料・二』平成十四年)。

三、世界へ飛躍すること

帰国直後、晋作が長州藩へ提出するレポートの下書きとして作成したと思われる「内情探索録」(『遊清五録』所収)の中で、「薩摩より五代才介(助)と申す人千歳丸水夫となり、上海へ罷り越せしなり。五代は薩の蒸気船の副将くらいの処を勤める者の由にて、だんだん君命を受け、当地罷り越せし様子なり」と紹介している。  つづいて晋作は、五代から有益な情報を得たとして、次のように述べる。

「おいおい心易くなり、その論を聞くに、帰国の上は蒸気船の修復と申し立て、上海辺りに交易に来る心得なり。上海渡海の事開くれば(上海との航海ルートが開けたら)、欧羅斯(ヨーロッパ)・英吉利(イギリス)・悪米利(アメリカ)へも渡海相成るよう開くならんと云う」

薩摩藩はなんと、上海ルートを踏み台として、世界中を相手に交易を計画しているという。そうして経済力をつけて、外圧をのぞくのだ。それには、蒸気船が必要なのだと、晋作は続ける。

「蒸気船買い入れの節の咄を聞くに、余程有益に相成る様子なり。蒸気船買い入れの直段十二万三千ドル、日本金に直し七万両」

薩摩藩から五代に、上海での蒸気船購入の内命が出ていたらしい。ただし、具体的な点については諸説あり、よく分かっていない。宮本又次『五代友厚伝』(昭和五十六年)には「五代は結局汽船を買い入れなかったとも考えられる」とある。

ともかく蒸気船により、どれ程世界が広がるかを、晋作は五代から教えられた。そのころの長州藩は、木造帆船を二隻所有していたに過ぎない。蒸気船購入の計画は持ち上がってはいたものの、江戸や京都での政治活動に大金を費やしたため、頓挫せざるをえなかったのだ。これでは本末転倒である。

そこで晋作は長崎に帰着するなり、オランダが売りに出していた蒸気船を長州藩が購入するという契約を、「独断」で結んでしまう。五代の話が、晋作を突き動かした結果であることは言うまでもない。

『遊清五録』中には「蒸気船、和蘭国へ注文つかまつり候一条」という、晋作の報告書草稿が収められている。それによると中国が「衰徴」した原因は、「外夷を海外に防ぐの道を知ら」なかったからだとする。「断然太平の心を改め、軍艦・大砲制造し、敵を敵地に防ぐの対策無きゆえ」だった。しかも「我が日本にもすでに覆轍を踏むの兆し」があるのだという。この草稿は「速やかに蒸気船の如き」の部分で、なぜか突然終わってしまうのだが、晋作の攘夷に対する考え方がうかがえ興味深い。

だが、藩政府内では晋作の独断専行を非難する声が高まってしまう。とても購入出来る気配は無く、そのうちオランダも手を引いたので、破談になった。

間もなく京都に上った晋作は八月二十六日、桂小五郎(木戸孝允)に、今後の決意を示す手紙を書いたが、その中に「実は蒸気船壱艘和蘭国へ独断にて注文つかまつり候。右ゆえ只様上京延引に相成り、恐れ入り候」と述べている(この手紙は、萩博物館特別展「高杉晋作の恋文」で展示予定)。

四、その後のふたり

上海から帰国後、晋作と五代は会う機会があったのだろうか。

晋作は翌年の文久三年(一八六三)六月に君命により下関で奇兵隊を結成したり、慶応元年(一八六五)には藩内戦のすえ、長州の藩論を武備恭順で統一したりと、大奮闘。一方の五代は慶応元年に薩摩藩の秘密留学生を引率して渡欧し、イギリス・ベルリン・オランダ・フランスなどを巡り、翌二年二月九日に薩摩の山川港に帰っている。

この間、長州藩と薩摩藩は文久三年(一八六三)八月十八日の政変以来、対立を深めていた。元治元年(一八六四)七月の「禁門の変」で敗れた長州藩には「朝敵」の烙印が捺され、薩摩藩は第一次長州征討に参加した。しかし幕府独裁に批判的な薩摩藩は裏で長州藩との提携を進め、慶応二年一月、いわゆる「薩長同盟」が締結される。

五代の帰国は、ちょうどそんな時だ。御納戸奉行格で勝手方御用人席外国掛となった五代は慶応二年四月から十月まで長崎で勤務し、フランスやイギリス相手の交渉を担当している。一方、晋作は三月二十一日夜半、下関から海路長崎に到着し、薩摩藩邸に潜伏した。薩摩藩主父子と英国公使パークスが鹿児島で会談すると知らされたので、長州藩も参加しようと考えたのだ。もっとも晋作は鹿児島には赴かず、イギリス商人グラバーから独断で購入した蒸気船オテント号(丙寅丸)に乗り、四月二十九日夜には下関へ帰って来た。二度目の長州征討の戦端が開かれそうだったからである。

つまり慶応二年四月、長崎の薩摩藩邸で晋作と五代は再会したはずだ。晋作の遺品中に、この時貰ったと思われる五代の名刺大の写真があり、裏に「薩藩五代才助、余かつてこれと支那上海に遊ぶ」と記されている。

また、ふたりの親密さは晋作が下関に帰ったひと月後の五月二十六日、五代が長崎から晋作にあてた手紙からも、うかがうことが出来る(『高杉晋作史料・一』)。五代は手紙の冒頭で「両度の御芳翰相達し(二回にわたるあなたのお手紙が届き)、披見つかまつり候ところ」云々と述べているから、両者の間でしばしば文通があったようだ。しかし管見の範囲では、この一通しか確認出来ない。

内容はまず、薩摩藩からの「御返翰」が長崎に届いたので、下関に行く者に託すから受け取って欲しいとある。おそらく晋作が持参した、長州藩主父子から薩摩藩主父子あての親書の返信であろう。つづいて長州藩が薩摩藩名義で購入した蒸気船「桜島丸」の引き渡しのこと、小銃のこと、イギリス領事がまだ長崎に到着しないこと(パークスの長崎到着は同月二十五日)、水師提督(キング中将)とは会っていることなどが述べられている。

追伸には「度々結構なる御反物拝領いたし、誠にもって恐縮つかまつり候」との謝辞があり、晋作が反物を贈ったことが分かる。五代は「御互いに国家危急」を救うための交わりなのだから、「斯かる御謝礼等」は「心外の至り」としながらも、「麁器(粗末な器)」をお返しするから、受け取って欲しいと言う。

さらに追伸で五代は、広島で行われている幕府詰問使と長州藩使節の談判が「日々切迫の御模様」だとし、長崎にいるグラバーやラウダも気にかけているから、情報を知らせて欲しいと頼む。この、広島での交渉は五月二十九日、幕府側が長州藩の歎願書を返還したため決裂。六月七日から、いわゆる「四境戦争(第二次長州征討)」が始まり、大島口・芸州口・石州口・小倉口の各所で激しい戦闘か繰り広げられる。

晋作は小倉口の海陸軍参謀として奇兵隊などを指揮し、攻め寄せた征長軍を撃退した。休戦協約が結ばれたのは、九月に入ってからである。それから幕府権威は紆余曲折しながら失墜してゆくのだが、小倉口の戦いの最中から晋作は結核が悪化し、床に臥すようになった。

五代は慶応二年十月、下関に来て長州側の木戸準一郎(孝允)らと会談するなど、商社設立のために奔走している。そのさい晋作を見舞ったようで、同月十七日、薩摩藩重臣の桂久武にあてた手紙(『高杉晋作史料・三』)の中では、次のように知らせている。

「高杉も此の内より病気にて至極難症に相見え、同人相欠け候はば、馬関(下関)にも外に人物今これ無く」

晋作がいなくなれば、もう、下関に「人物」は無くなると慨嘆する程、五代は晋作を高く評価していたのだ。そして晋作は下関新地の林家離れにおいて慶応三年四月十三日、二十九歳の生涯を閉じる。年譜によるとその月、五代は、それまでの功が認められて、兄から分家することが認められ、坂元家の娘トヨと結婚していた。そんな中、晋作の死をどのような気持ちで聞いたかは分からない。

のち、五代は維新で衰退した大阪を、近代商業都市として蘇らせるため、大阪株式取引所や大阪商法会議所を創立するなど、大いに活躍した。かつて晋作を奮起させた、経済によって国力をつけ、外圧をのぞくという方針は生涯ブレなかったのだ。明治十八年(一八八五)九月二十五日、五十一歳で病没している。

(「晋作ノート」36号・平成28年3月)

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