明治維新と菅原文太さん
(1)
よく、「いつから歴史が好きだったのですか」と尋ねられる。僕の場合は小学生のころ、学校図書室で読んだ子供向けの日本史本とNHK大河ドラマが原点だ。同世代の友は、似たような経験の持ち主が多い。
大河ドラマは「元禄太平記」「風と雲と虹と」、そして小学五年生の時に観た「花神」で、「吉田松陰」や「高杉晋作」に出会った。中村雅俊さん演じる晋作は若々しいエネルギーが溢れ、魅力的だった。ずっと後年、テレビの仕事で雅俊さんとご一緒した時、晋作を演じたさいの逸話をお聞きすることが出来、「花神」の台本にサインをもらって感慨深かった。ディレクターが、「雅俊さんはあの後も『自分の演じた仕事で、将来を決めた人がいたんだ』と言ってましたよ」などと知らせてくれた。それから「黄金の日々」「草燃える」が続くが、いまひとつ印象が薄い。
そして、中学二年生の時に観た、明治維新を題材にした「獅子の時代」に打ちのめされた。主人公は菅原文太さん演じる会津藩士の平沼銑次、脚本家山田太一さんが創作した人物である。銑次は日陰に追いやられながらも、明治日本を懸命に生き抜く反骨漢だ。樺戸集治監の囚人労働など、従来の大河ドラマが避けて来たような題材をどんどん前面に押し出す。そして秩父事件で敗れた銑次が、死んだのか、生きのびたのか、分からないラストになっている。明治維新とは何だったのか、近代化という大義名分は正しかったのかと、鋭く問いかけるような画期的な作品。テレビドラマがいまよりも、ずっと真面目だった気がする。
それまで英雄偉人のドラマしか知らなかった僕は、なるほど、歴史というのは、こうした無名の人々の思いによって、少しずつ動いたり、動かなかったりするものなのかと、なんとなく分かった気がした。こうした視点は、いまも持ち続けているつもりだが、それは「獅子の時代」の影響だ。「獅子の時代」は全五十一話を通しで、五回は観ている。後にも先にも、こんなに何回も観たテレビドラマは無い。
「獅子の時代」の衝撃が強すぎたのか、次の年の「おんな太閤記」が馬鹿馬鹿しく思えて、二カ月ほどで観るのを止めてしまった。それ以来、大河ドラマはほとんど観ていない。たまに勧められたりして、観ようと努力するが、まったく面白くない。時代考証云々が理由ではない。ドラマとして面白ければ、それで良いと思っているが、とにかく面白くない。四十五分もテレビの前に座っているのが、苦痛でしかないのだ。まして一年間観続けるなど、拷問である。
(2)
さて、「獅子の時代」と同じころ、僕は「仁義なき戦い」という東映映画に出会う。昭和四十八年から四十九年にかけて深作欣二監督が撮った、戦後の広島やくざの抗争事件をモデルに描いた作品だ。全五部作、八時間以上の一挙上映を神戸東映で観た中学生の僕は、またもや打ちのめされてしまった。
それまでは、人間社会の美しさを謳歌するような映画ばかり観て来たのだが、「仁義なき戦い」では、これでもかと言うほど人間の浅はかさ、ずるさ、滑稽さが繰り返し描かれる。本来ならば暗いタッチの映画になってもおかしくないのだが、そこは深作監督の手腕で、結局は人間のおかしげな魅力を描いており、時に笑ってしまう。「仁義なき戦い」で僕は、汚い「大人の社会」を知った気になった(だが実際社会に出ると、描かれた広島やくざの抗争よりも、もっと汚いことだらけで、びっくりしてしまったが)。この作品などは、百回以上は観ている。そして「仁義なき戦い」も、文太さんが主演だった。
考えてみれば僕の精神は、文太さんの肉体を通じて演じられたものから成っている部分が大のようで、一度お会いしてお礼を述べたいと思っていた。
(3)
今年九月五日、福岡市で開催される「がん制圧全国大会」で文太さんが講演されると知り、なんだか虫が知らせたので出かけた。
文太さんの講演の演題は「がんと仲良く」。「今年八十一になりました」に始まり、七年前に膀胱癌が見つかったさいの話をされた。築地がんセンターの「偉い先生」に診せたところ、切るしかないと言われたが、それが嫌だった文太さんは知人を介して、十人の医者の意見を聞いたそうだ。ところが「偉い先生」が怖いようで、九人までが同じ意見しか言わない。たった一人、東大の中川先生が切らずに治せると言ったので、訪ねて行ったところ、直ちに筑波大の付属病院に入院させられ、結局切らずに治したという話である。
また十代のころ、教師から「お前の成績では仙台一高は絶対無理」と言われたので、ならばと反骨精神が頭を擡げて受験し、さいわい試験が〇×だったので合格したなどの思い出話も面白かった。
築地がんセンターのお偉いさん方を前に、木訥とした口調で遠慮なく話す文太さんの頭には白髪が目立ち、頑固な翁のようではあったが、まさに「獅子の時代」の銑次そのものだった。講演につづく、例の中川先生との対談では「癌は移らないのかな」「でも風邪は移るよね」「デング熱はどうかな」と、とぼけた発言をして中川先生を困らせ、会場を沸かせた。ともかく僕は、はじめて生で見る「菅原文太」に興奮していた。
(4)
講演を聴きに行く前夜、宿泊した福岡の東映ホテルの一室で、僕は文太さんにファンレターを書いた。芸能人にファンレターを書くなど、四十八年生きて来て初めてのことだ。「獅子の時代」「仁義なき戦い」に、どれ程強い影響を受けたか、三十数年間、これらの作品のどこかのシーンを思い出さない日は無い、また、原発反対、戦争反対を訴えて戦う文太さんに銑次が重なり、ファンを続けて来たことを誇らしく思うなどと素直な気持ちを便箋に綴った。そして、文太さんは明治維新に強い関心を持っていると聞いていたので、僕の著書を二冊同封し、講演会場の受付に預けて帰った。
文太さんから、返事はなかった。別に期待していたわけではないから、それはよい。もし、僕の手紙と著作を、ちらりとでも見てくれたかも知れないと思うだけで、嬉しいのだ。ところが十二月一日、文太さんの訃報に接した。その日も、僕は福岡の東映ホテルに泊まっていた。十一月二十八日に亡くなられ、身内だけの葬儀が前日、福岡の太宰府天満宮で行われたとのことだった(宮城県出身だったが、太宰府天満宮に生前お墓を買われていたことは知っていた)。つい二カ月余り前、講演を終え、元気そうに満面の笑みを浮かべ、両手でガッツポーズを決めた文太さんの姿が目に浮かび、言葉を失った。泣けた。
冥福など祈りたくない。銑次のように、文太さんが戦わねばならないのは、これからなのだ。「獅子の時代」最終回の、ラストシーンに被るナレーションが思い出される。
「翌年、日本は日清戦争に突入。更に日露戦争への道を歩いて行く。そのような歳月の中で、幾度か銑次の姿を見たという人があった。
それは、たとえば足尾銅山鉱毒事件の弾圧のさ中で、たとえば幌内炭鉱の暴動のさ中で、激しく抵抗する銑次を見た、という人がいた。そして、噂の銑次はいつも戦い、あらがう銑次であった」
僕はこのショックから、当分立ち直れそうにない。今回はそんな心境だから、僕が明治維新に深入りした理由の一端を書かせてもらった。
ちなみに長州がらみで言えば、かつて文太さんは「新選組」(昭和四十八年)というドラマで、桂小五郎を演じている(再放送で観た)。また、井上馨をモデルにした人物を演じた「鹿鳴館」という映画もあった。三島由紀夫原作、市川崑監督、昭和六十一年の作品で、大学生のころ、東京の映画館で観た。頬がブルドックのようにたるみ、ふてぶてしい形相の文太さんは、僕のイメージする井上馨そのままで、驚いた。銑次とは正反対の、力づくで権力も女も奪い、「大礼服」の虚構で塗り固めたような男だ。
そう言えば、井上の前名は「聞多(ぶんた)」で、文太さんの一人息子の名は「加織(かおる)」(故人)なのは、妙な因縁だと思う。「鹿鳴館」は権利の問題から現在に至るまでテレビ放映も無く、ソフト化もされていない。もう一度観てみたい作品である。
(「晋作ノート」33号。平成26年12月)
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