晋作と聞多の漢詩
(1)
地域に根差し、地べたを這いずりまわるような努力のすえに生み出された「郷土史家」の業績には、その生きざまも含めて時に刮目させられるものがある。半面、顕彰やお国自慢の意味を履き違えた「郷土史家」の仕事に、マイナスの意味で驚かされることも少なくない。たとえば藤田伝三郎の伝記から贋札事件が、久原房之助の伝記から政民連携や大陸進出といった、いわゆる「不都合」な事跡がすっぽり抜け落ちていたとしたら、どうだろうか。しかも割愛した理由が、自分と地元が同じだからという態度が見え見えならば、これはもう嘲笑されても仕方あるまい。藤田はただの鉱山主で、久原は車屋の社長さんでしかないのだ。こうした「郷土史家」に限って自己顕示欲が強く、自分は学者だ、研究者だと自称し、敵を見つけてはあれは唯の物書きだなどと陰口を触れてまわる。「偉人」にはまるで弱いが、近くの他人に対する名誉棄損は平気らしい。
その点、九州という地は古くから反骨精神、在野精神旺盛なすぐれた「郷土史家」の産地であり、私などはある種憧憬の念を抱くこともある。原田大六や松本清張も「郷土史家」ではないにせよ、そうした土壌が生んだ「大家」であろう。
中でも大正三年から昭和二十年までに全部で九十冊発行された『筑紫史談』などは当時の福岡の郷土史家たちが切磋琢磨し、高い水準の成果を生んでいった過程が刻印されており、感動的だ。私は二十数年前、大学生のころ何度か福岡市某所を訪ね、夢中になって同誌を読んで必要記事をコピーした。それは二冊のスクラップブックになって、いまもわが家の書庫にある。
(2)
そのひとつ、大正五年発行の第十号に掲載された中島利一郎「高杉、西郷は会見せずといふ説の補遺」という小論文には、「高杉晋作ファン」がびっくりするような痛快な逸話がいくつか記されていて面白い(拙著『高杉晋作漢詩改作の謎』平成七年)。
それはまず、高杉晋作の漢詩の大半が、維新後『東行遺稿』編纂のさい杉孫七郎(長州出身)によって「改竄」されたという、「その間の事情に通じた長州の某史家より聴取した」暴露話だ。
つぎは、闇討ちに遭い負傷した井上聞多(馨)を、元治元年(一八六四)十月二十五日、晋作が見舞い、漢詩を交換したという有名な逸話にかんするもの。この時の詩は中原邦平という、山口県出身の御用郷土史家が著した『井上伯伝』(明治四十年)によって広まった。少し長くなるが、中島論文より該当部分を引用する。
「歴史事実が、或時代に於て、造意を加へられ、別種の伝を作ることある例の一として、前回引用した高杉と井上聞多即ち後の井上馨侯との唱和の詩について、其後聞き得た事実を記述して置かう。高杉の井上に贈った詩は、原作が存してゐたけれど、井上の次韻の方は散佚してしまひ、井上侯自身記憶してない。けれど中原邦平翁が侯の陞爵以前、即ち『井上伯伝』を編纂する際、どうしても次韻の作の必要があって、侯は仕方なしに、其代作を中原翁に命じたのであった。かくして実際の唱和より二、三十年を隔てて、侯の次韻の詩が新しい形を以って作られ、それが麗々しく『井上伯伝』に収録されたのである」
私はこの記述を見つけた時、筆者中島の皮肉っぽいタッチもさることながら、井上や中原のふてぶてしさに思わず笑ってしまった。ちなみに、中原が代作したという詩は次のようなものだ。
「身は数創を被(こおむ)れども志は未だ灰(おとろえ)ず
何時厥起(いずれけっき)して氛埃(ふんあい)を払はん
喜ぶべし君が雄略に方寸存するを
病苦を忘れ来り且杯侑(すすむ)」
これに晋作の詩が続くのだが、ここでは割愛させてもらう。
(3)
萩出身の作家横山健堂などはこの事情を知らなかったのか、著書『高杉晋作』(大正五年)の中で晋作・聞多の詩唱和を紹介して「此の二人、勇気淋漓として雄略を語り合った有様が思ひやられる」との感想を述べる。詩を交換したのは史実のようだから、それはいい。ところが井上の詩につき、
「特に此の際、瀕死病中、其の肺肝より出でたことを疑はぬ」
などと手放しで絶賛しているのを読むと、複雑な思いがする。先の事情を知った上で、目をつむり、こんな評価を与えたとすれば、横山の人間性を疑わざるをえない。こうした悪弊は現代の「郷土史家」にも連綿と受け継がれているようで、ぞっとさせられる。
作家の司馬遼太郎もこの井上の詩に引っ掛かったひとりで、『世に棲む日日』三巻(昭和四十六年)の中で「井上聞多は後年、明治政府でさまざまの風評があったとはいえ、かれの青春の昂揚はこの一詩につくされているといっていいであろう」などと評している。お気の毒様としか言いようがない。
つづいて中島は、この暴露話の出所を皮肉たっぷりに次のように明かす。わずかな記述ではあるが、これを読むと中島が、顕彰、お国自慢の意味を履き違えたような郷土史の在り方に、強い反発を抱いていたことがうかがえる。
「而して侯(井上)自身人の需めに応じて之れを揮毫されたこともあった位である。以上は中原翁が親しく余に話されたのであるから間違ひのあろう筈はない」
実は井上が揮毫したこの詩の書掛軸を、山口市の実業家大隅健一さんが持っておられた。骨董屋から求められたという。大隅さんはこの詩を刻んだ石碑を、山口市の井上旧宅跡(現在の井上公園)に建てようと考えていたらしいが、私の示した『筑紫史談』などの資料を見て計画を素直に撤回された。大隅さんが「郷土史家」と言えるかどうかは別としても、親分肌でなかなか楽しい人だった。数年前に亡くなられたように記憶する。
(『晋作ノート』29号・平成25年9月を改稿)
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