河上弥市の里帰り

因縁めいた話はあまり好きではないが、念が籠もっていると感じる史料に出会うことがある。兵庫県朝来市の山口護国神社が所蔵する、虫食いだらけの古い高札を拝見した時も、そんな印象を持った。

高札には、次の歌が勢いよく書かれている。

「奉献

議論より

実を行へ

なまけ武士

国の大事を

余所(よそ)に見る馬鹿

皇国草莽臣 南八郎(花押)」

これを書いた南八郎とは、萩城下金谷出身の河上弥市の変名である。河上は八組士の家に生まれたエリートで、滝弥太郎とともに高杉晋作の後継者として奇兵隊総督になった。志士としてのキャリアよりも、家柄が重視されたのだろう。血の気が多かったようで、『奇兵隊日記』などの史料を見ても過激な言動が目立つ。しかし、クセ者揃いの軍隊の統率は、容易ではなかったようだ。ひと月後、同志とともに隊を脱し、文久三年(一八六三)十月、但馬生野で挙兵するも敗れて自決する。享年二十一。

死を前にして、思いどおりに時代が動かない焦燥感、尻込みする同志たちへの苛立ちを筆先に込め、書きなぐった絶筆である。強烈な歌は「国の大事を余所に見る馬鹿」が多い現代において、ますます光彩を放つ。

この高札は、いままで弥市の故郷萩で展示された形跡がない。奇兵隊結成百五十年の今年、私はぜひ弥市の魂の「里帰り」を実現させたいと思った。さいわい、山口護国神社の武田和郎宮司がご理解下さったので、このたび萩博物館での展示が実現した(高杉晋作資料室で平成二十五年六月三十日まで展示中。なお、河上肖像・河上歌書軸も同時に展示)。

百五十年前、絶望しながら異郷の地で死んでゆく弥市は、眼前の高札が萩の地に帰ると想像出来ただろうか。そう思うと、感無量だ。

弥市の旧宅は、いまも萩市金谷に残る。八組士、百石どりにしては意外なほど質素な平屋である。また、故郷の墓所は萩市北古萩長寿寺にあり、傍らに又従兄弟にあたる山田顕義の撰文を刻む石碑が建つ。

但馬の地が狙われたのは幕府天領が多く、軍事的にも無防備だったからという。自決した山口村(地名と山口県は関係ない)に建てられた墓は「南八郎さん」として信仰され、それはいまも続いている。明治になり司法大臣などをつとめた山田は明治二十五年(一八九二)十一月、但馬地方を訪れ、河上の墓に参るも、生野銀山を視察中に急逝した。だから播但線生野駅前には山田の終焉地であることを示す、巨大な記念碑も建っている。


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