龍馬八策

龍馬の「八策」の「前文」に関する一考察

(『萩博物館調査研究報告・8』平成25年3月)

遺墨複製の巻子

幕末から明治にかけて活躍した「志士」「元勲」などが、いかにして大衆人気を得、歴史上の「英雄」として語り継がれるようになったかは、私の関心事のひとつである。これまでも調べたことを『幕末時代劇、「主役」たちの真実』(平成二十二年)や「幕末維新遺墨帳覚書き」(『萩博物館調査研究報告・6』平成二十三年)などで、おりに触れ書いて来た。

そうした人気を知る手掛かりになるのが、明治半ばころから戦前にかけて製作された「志士」「元勲」の遺墨複製である。広く販売するため作られたものや、何かの記念品として少部数作られたものなど、その種類はさまざまだ。すでに原本が失われているため、複製とはいえ原本に準じる価値を持つものも多い。

以上のような興味から、二十三人の遺墨複製二十五点を貼り交ぜた巻子を個人的に手に入れた。奥付など無く、誰が何の目的で作ったのかは分からないが、明治なかばから終わりころのものと推測しておく。採り上げられた人物は次のとおり。

頼山陽・蒲生君平・林子平・高山彦九郎・岩倉具視・藤田東湖・近衛忠熙・西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通・大山綱良(2点)・坂本龍馬・中岡慎太郎(2点)・池上四郎・門田尭佐・伊藤博文・黒田清隆・山県有朋・松方正義・井上馨・岩崎弥太郎・大石内蔵介・長谷川正潔

ちょっと個性的なラインナップと言えよう。多分すべて原寸大、墨のかすれ具合まで再現する高い技術の印刷で、本物と見まちがう程の見事な出来だ。用紙の色もそれぞれ異なり、実に凝った作りになっている。

その一部は、土佐藩(海援隊)出身の政治家石田英吉(明治三十四年、六十三歳で没)のもとに残っていた文書に取材したことは明らかだ。大山綱良(1点)・坂本龍馬・中岡慎太郎(2点)・木戸孝允・長谷川正潔の遺墨複製は、国会図書館憲政資料室蔵の石田英吉関係文書中「亡友帖」と題された巻子で、原本を確認することが出来る。ただし、龍馬の遺墨複製が原本の現状とは異なっているので、本稿ではこの点に注目してみたい。

「新政府綱領八策」の「前文」

龍馬のそれは、いわゆる「新政府綱領八策」(以下「八策」と略す)である。慶応三年(一八六七)十月十五日の大政奉還勅許後、どのような政権を作るかを龍馬が八カ条に分け、次のように提案したものだ。

第一義

天下有名ノ人材を招致シ、顧

問ニ供フ

第二義

有材ノ諸侯ヲ撰用シ

朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名

無実ノ官ヲ除ク

第三義

外国ノ交際ヲ議定ス

第四義

律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ

大典ヲ定ム。律令既ニ定レバ

諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下

ヲ率ユ

第五義

上下議政所

第六義

海陸軍局

第七義

親兵

第八義

皇国今日ノ金銀物価ヲ

外国ト平均ス

右預メ二、三ノ明眼士ト議定

シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々

○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ

朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ

公布云々。強抗非礼公議ニ

違フ者ハ断然征討ス。権

門貴族モ貸借スルコトナシ

慶応丁卯十一月 坂本直柔

他に同内容のものが下関市立長府博物館に一通現存するので、龍馬は何通か書き同志に回覧したとされている。近年では龍馬人気も手伝い、近代日本の青写真として高く評価される史料だが、実は二通とも書かれた状況や伝来は、ほとんど分かっていない。

国会図書館のは石田英吉という龍馬の身近にいた者の旧蔵品だが、それ以前の経歴は不明である。長府博物館の方は京都の古聖堂、下関の商家永積家を経、昭和十四年三月、同館の前身長門尊攘堂の所蔵になったことが分かる程度だ(拙著『「竜馬がゆく」読本』平成九年)。

日本史籍協会編『坂本龍馬関係文書・一』(大正十五年)では「八策」を紹介して「男爵岩崎小弥太氏蔵」と注記し、『坂本龍馬関係文書・二』(同)所収の坂崎柴瀾「坂本龍馬海援隊始末」では「八策」は「真蹟谷子爵家蔵」としているが、いずれも写真が掲載されていないので、どの「八策」なのか判断しかねる。岩崎も谷(干城)も土佐出身で、龍馬とも無縁ではない。

さて、「八策」複製の前には現存する原本には無い次のような一文(以後「前文」と呼ぶ)が付く。筆跡検証はここでは省くが、他の龍馬筆跡との共通点がいくつもあり、本人のものと見て差し支えあるまい。

昨日日御会盟の時、

今日認候て薩へ送り

候書キ付ハ定て御出来と

相成可申、又御かまい

これなくバ乍恐拝見ハ

できますまいか奉頼候。

今日石清参り、共に是

より先キ々々の事を論

じ手順を書キ認候間、写

御目にかけ度奉頼候。

廿三日 謹言

「前文」は署名も宛名も欠くが、「先キ々々の事を論じ手順を書キ認」めた「写」の「添状」であることは確かだ。そして巻子に貼られた順序や内容から見て「先キ々々の事を論じ手順を書キ認」めた「写」とは、「八策」のことではないかと思う。

ふつう「八策」を誰かに送るにしても、突然「第一義」から始まる文書のみを送ったりはしない。この文書が何なのかを説明した「添状」があったはずだ。しかし「添状」がどこかの段階で失われ、「八策」だけが伝わったと考えられる。あるいは石田英吉が「亡友帖」を作るさい、「添状」が自分宛ではないため割愛したのかも知れない。

複製のサイズは「前文」が縦二〇・三、横二七・三センチ、「新政府綱領八策」が縦二〇・三、横五七・三センチ。おそらく表装のさい「前文」の方が縦横ともに小さかっので、見栄えを良くするため、天地に余白を加えて縦のサイズを合わせたようである。

「前文」から分かること

そこで「前文」を「八策」の「添状」と仮定し読むと、次のようなことが新たに浮かび上がって来る。

「前文」の日付は「廿三日」だが、これにより「八策」が書かれたのは慶応三年十月二十三日、場所は京都ということになる。

「八策」は大名が京都に集まり、新政権の方針を定める会議「諸侯会盟」の席で検討してもらうために書かれたことは、「八策」の末尾の文からも分かる。新政権のトップを○○○としたのは、いらぬ摩擦を避ける配慮であろう。

最後に「慶応三丁卯十一月」とあるが、これは「八策」が書かれた月というより、そのころ諸侯会盟が開かれると龍馬が予測していたということではないか。日付が空欄なのも、そのためだろう。署名の「直柔」は龍馬の諱である。

共に「先きざきの事を論じ」たという「石清(石川清之助)」は、土佐の陸援隊長中岡慎太郎のことだ。龍馬も慎太郎も土佐を脱藩して、薩摩・長州藩の庇護を受けた。だが、時代に乗り遅れまいとする土佐藩は慶応三年になると少し態度をあらため、ふたりに接近する。そして脱藩の罪を赦し、龍馬を海援隊長、慎太郎を陸援隊長にして、遊軍的立場で活動させた。ただし、龍馬が大政奉還建白運動に関わったのに対し、慎太郎は薩摩藩などと気脈を通じて武力討幕路線を進む。

しかし大政奉還後の慎太郎の思考が、いまひとつはっきりしない。あくまで武力討幕を行うため、薩摩藩などの諸侯会盟潰しの陰謀に加わったのか。それとも実現した以上、土佐藩が進める公議政体の実現に協力的になっていたのか。平尾道雄『中岡慎太郎・新訂陸援隊始末記』(昭和四十一年)などを見ても、このあたりが空白になっていてよく分からない(だから十一月十五日に起こる龍馬・慎太郎暗殺事件は、ふたりが意見を対立させたあげくの相打ちだったとの珍妙な推理も飛び出す)。

ところが「前文」からは、十月二十三日の時点で慎太郎は、龍馬とともに「八策」のような政権樹立を考えていた可能性がうかがえる。そして新政権誕生の「手順」を述べた「八策」は、その範囲は分からないが、やはり「写」され、回覧された様子である。ただ、私がいささか疑問に感じるのは、当時の龍馬や周囲の者の書簡などに、「八策」に触れたものが、この「前文」以外に見当たらないことだ。あるいは、ごくごく限られた身内のみに示したのかも知れない。

また、同年六月に龍馬が示したと伝えられる、いわゆる「船中八策」は、この「八策」の原点のごとく言われる。だが「船中八策」なる史料は古い講談小説に登場するものの、原本が確認出来ず、周囲の史料などにも見当たらないなどの点などから、私は疑問視している(拙著『これだけは知っておきたい幕末・維新』平成二十四年)。そこで「前文」を読むと、以前に土台になる文があったというより、初めて書いた文という印象を受ける。

龍馬は翌二十四日より土佐藩老侯山内容堂の手紙を携えて越前福井に赴き、松平春嶽に上洛を促した。さらに同藩の三岡八郎と新政権の財政につき話し合う。従来「八策」執筆時期は「十一月上旬龍馬が越前福井に三岡八郎(由利公正)を訪問帰京の直後と考えられる」(宮地佐一郎『龍馬の手紙』平成十五年)とされて来た。だが「八策」が二十三日に書かれたとすれば、当然三岡との話し合いは反映されていないことになる。

問題は「前文」前半で、薩摩藩に送る書類が出来ていたら見せて欲しいと述べているが、これが何だったのか、いまのところ私にはよく分からない。宛先は龍馬と親しい土佐藩重役と推察出来るが、土佐藩から薩摩藩に何か申し入れることでもあったのだろうか。

ちなみにこのころ、薩摩討幕派の首脳西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀は京都にはいない。かれらは諸侯会盟の結果、徳川慶喜を中心とする公議政体が誕生するのを阻止すべく、奔走中だった。

龍馬と慎太郎は十一月十五日夜、京都の近江屋で刺客に襲われる。龍馬はほぼ即死、中岡も二日後に絶命した。

そして十二月九日、龍馬が期待した諸侯会盟は開かれぬまま、薩長の武力を背景として、天皇の名のもとに王政復古の大号令が発せられ、慶喜を除く新政権が誕生する。しかも新政権は、慶喜に辞官納地を迫った。慶喜側の怒りは、翌年の戊辰戦争に発展することになる。

「八策」の大筋は新政権によって実現されてゆく。とはいえ、諸侯会盟を待っていた龍馬が、こうした陰謀まみれの暴力的な政権交代を望んだかは疑問である。

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