伊藤博文と防府天満宮

『藤侯実歴』が出版されたのは明治三十二年(一八九九)十二月のことだ。「伊藤博文侯直話」と副題され、当時存命中の伊藤から直接聞いた回顧談を、出版元である博文館の社長大橋又太郎がまとめている。

伊藤は天保十二年(一八四一)、周防国熊毛郡束荷村(現在の光市)の農家に生まれた。少年のころ、家庭の事情から萩に引っ越したのは周知のとおりだが、その途中の一時期、防府で生活していたことは、あまり知られていないように思う。『藤侯実歴』には九歳の時のこととして、次のようにある。

「侯の親戚で周防の宮市、俗に防府と言ふ処に有名な天神がある。其処に真言の僧になって居た人がある。その防府は菅公が筑紫に流される時、暫らく足を留められた所で、名高い天神であるが、その真言の寺は大専坊と言った。その寺の和尚に預けられて、侯は其処で暫らく書物を教へられて、それから萩に行かれた」

これによると、伊藤少年は防府天満宮の社坊(神社の中にある寺)のひとつ大専坊の住職だった親戚を頼り、学んだようだ。この話は、信憑性が高いと私は思う。その理由として、本書が伊藤存命中に出版されたこと、聞き手が伊藤と公私ともに親しい大橋だったことなどが挙げられる。

大専坊は戦国の昔、大内攻めのさい、毛利元就の参謀本部になったとの歴史も持つ。明治維新における神仏分離政策により、寺院としての機能は失われたが、伊藤が過ごした当時の建物は天満宮参道脇に現存する。

明治三十二年五月から六月にかけ、西日本に遊説に出掛けた伊藤は北九州、長府を経て防府に立ち寄った。大専坊で学んでから、およそ半世紀後のことだ。すでに伊藤は三度も内閣総理大臣を経験し、あるいは「大日本帝国憲法」を作るなど、明治日本のリーダーとして、不動の地位を築いていた。

同年五月三十一日の「防長新聞」は、前日の防府における伊藤の言動を報じている。それによると市街各戸が国旗を掲げ歓迎の意を表す中、午前九時、伊藤は三田尻停車場(現在の山陽本線防府駅)前の旅館松崎館を発ち、演説会場である宝成庵に到着した。代議士大岡育造による談話の後、伊藤が登壇するや拍手喝采が起こった。伊藤は一千七、八百人の聴衆を前に「幼少の時より郷国を出でたることより説き起して、維新前後の状況及び最後に諸外国の現況を述べ、国家の発達を計ることに就ては山口に於て詳述すべし」とし、十一時四十分に演説を終える。

それから伊藤は数百メートル東の防府天満宮を訪れ、境内の春風楼で催された歓迎会に出席。午後一時に防府を発ち、山口に向かった(ちなみに山口の次は萩で演説している)。この時、伊藤が数十人の出席者とともに春風楼前で撮影した写真が、いまも防府天満宮に伝わる。前列中央に立つ伊藤の隣には、旧主筋にあたる公爵毛利元昭の姿も見える。伊藤にすれば少年のころの思い出が脳裏を横切ったりして、感慨深かったのではないだろうか。

なお、伊藤が演説したという宝成庵だが、いま、この名前の寺院は防府にはない。明治四十三年に山口県に届け出、成海寺(曹洞宗)と改めているのだ。現存する巨大な本堂は、伊藤の演説が行われる半年前の明治三十一年十一月十五日に竣工された。建築費用は五万円といい、官有林の松が用いられるなどの便宜がはかられたという。日清と日露戦争の間であり、山陽道を往来する軍隊の宿舎に使う目的もあったようだ。堂内には寺号に由来する伊藤の書額「滴水成海」(てきすいじょうかい。したたる水が海を成すとの意)や、伊藤の肖像写真も掲げられ、貴重な歴史をいまに伝える。

かつての日本では「末は博士か、大臣か」と言われたように、若者たちは伊藤のような政治家を目指して勉学に励んだ。まさに故郷に錦を飾った伊藤が、さまざまな思いを胸に歩いたであろう成海寺(宝成庵)から防府天満宮までの旧山陽道を、私はひそかに「伊藤ロード」と名付けている。

(「はぎ時事」平成24年9月14日)


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