松陰作の銘文がある墓
『吉田松陰全集』編纂の中心メンバーだった広瀬豊は著書『吉田松陰の研究』(昭和十八年)で、史料収集にかんするさまざまなエピソードを披露しており興味深い。
そのひとつに昭和十四年(一九三九)二月、松本純郎という出征が迫った東京在住の教員(岡山出身、東大国史科卒)が、小石川白山の心光寺境内にあった石本亀齢の碑文が松陰作であるのを見つけ、これを写して贈ってくれたとある。
広瀬はその時まで、碑文については知らなかった模様で、「後同寺を訪うて見るに果して写本の通りである」と述べる。さらにこの碑文は、昭和十五年に出た『吉田松陰全集』十二巻の「補遺」に「石本亀齢君墓碑銘」の題を付け、読み下しで全文が収められた。
石本亀齢(勝左衛門為延)は姫路藩士、四百石取りの上士である。安政二年(一八五五)十月二日、江戸で大地震(マグニチュード6・9)が起こったさい、江戸城下辰ノ口、同藩上屋敷にあった亀齢は老母を救おうと火に飛び込み死んだ。五十歳だった。
それを知った松陰は、大変感動したらしい。安政三年三月、亀齢を称える漢文の碑文草稿を書き、亀齢の遺族に贈る。なお、アメリカ密航未遂の罪で野山獄に投ぜられた松陰は前年十二月、松本村の実家杉家に戻り、謹慎中だった。
浄土宗の心光寺は地下鉄都営三田線白山駅をA3出口から上がり、すぐのことろにある(文京区白山5-36-5)。寛永五年(一六二八)、神田に創建され、大火により白山の現在地に移った。
本堂に向かって右手奥、石本家墓地の一角には、亀齢の墓碑が現存する。正面に夫妻の法名と没年月日(妻は明治二十九年一月十一日没)を並べ、他の三面に松陰が贈った文をびっしりと刻む。
それは「古之孝子溺于水入于火水火之難不辞也(古の孝子は水に溺れ火に入り、水火の難も辞せぬなり)」に始まる。そして大地震のさい母が建物の中にいると知った亀齢が、「寧与独生不若無生遂趨大夫人之室相与殞(寧ろ独り生きんよりは、生くるなきに若ずと。遂に大夫人の室に趨き、相与に殞る)」という、母に殉じ凄まじい最期を遂げたと記す(ちなみに安政の大地震のさい、姫路藩では上屋敷で三十七名、蛎殻町の中屋敷で十九名、巣鴨の下屋敷で一名が犠牲になった)。
松陰は次の漢詩をもって、銘文をしめくくっている(『吉田松陰全集』十二)。
「聖人有曰 聖人いへるあり
殺身成仁 身を殺して仁を成すと
天地崩裂 天地崩れ裂く
豈顧其身 豈に其の身を顧りみんや
急往抱持 急ぎ往いて抱持し
殉于慈親 慈親に殉ず
勿謂澆季 澆季と謂ふことなかれ
世有若人 世かくのごとき人あり」
松陰と亀齢が、どのような関係にあったのかは分からない。おそらく、面識などはなかったと思われる。
広瀬豊は「当時萩に居た松陰は京都の友人からこれを聴き、且つ頼まれて文を撰んだものであろう」と好意的に推測しているが、果たしてどうだろう。当時の松陰の知名度や立場では、わざわざ姫路藩の上士の家が依頼したとは考え難い。
私は感激屋の松陰が書き、一方的に遺族に送りつけた可能性もあると見ている。だから、松陰の文が墓に刻まれるのは昭和四年十月、亀齢の七十五回忌まで待たねばならなかった。「当時故ありて之れを鐫(え)らず」と、のちに遺族が添えた文章にある。
遺族たちは、見知らぬ長州萩の若者から送られて来た文をありがたく読みながらも、さすがに墓にまでは刻まなかったのではないか。後年「吉田松陰」の名が上がることで初めて、墓に刻んだのであろう。「故ありて」とは、そういうことだと思う。いかにも松陰らしいおせっかい行為で、微笑ましくも思える。
なお、亀齢の息子(六男)新六は陸軍士官学校卒業後、フランスへ留学、陸軍中将となり、第二次西園寺公望内閣では薩長以外では初めての陸軍大臣となった。新六は安政元年一月二十日生まれで、やはり上屋敷で被災したが無事だった。
松陰の文を墓碑に刻んだのは、亀齢の孫の世代のようだ。そのひとりで新六の四男、石本巳四雄は東京大学の地震研究所長(二代目)を務め、昭和十五年二月四日、四十八歳で病死した。
巳四雄が晩年著した「安政二年十月二日、江戸地震石本家における災禍顛末」によると、祖父(亀齢)と曾祖母のほか、亀齢の娘二人も焼死したという。遺骸の顔は焼けただれ、残った衣類から判別したといった生々しい話を周囲から聞き、育ったらしい。その巳四雄が、地震研究の道を歩んだことも単なる偶然ではあるまい。かれが残した鯰絵などの地震にかんする史料は、現在東京大学付属図書館に所蔵されていると聞く。
(「晋作ノート」25号、平成24年6月)
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