幻の石碑
菅原道真(八四五~九〇三)を祭神とする東京都江東区の亀戸天満宮(亀戸天神・東宰府天満宮)は寛文三年(一六六三)、大鳥居信祐が大宰府より勧請し創建された。梅の名所として錦絵にも描かれ、江戸っ子の信仰を集めたようだ。かつてもいまも、境内には大小さまざまな石碑が建てられているが、大震災や空襲によって失われたものも少なくないと聞く。土中に埋もれていたのを、戦後掘り出して再建したものもあるようだ。
行方不明になっている石碑のひとつに、「勤王烈士頌功碑」がある。上州出身の民間人・萩原正太郎の主唱により有志の寄付を集め、明治三十九年(一九〇六)ころ建立された。趣意書によれば仙台石製の高さ一丈五尺、幅六尺五寸、厚さ一尺で、「勤王烈士」の題額は有栖川宮威仁親王、撰文は依田百川、書丹は山本政之となっている。拓本が残っているから、ともかく完成はしたのだろう。民間における明治維新顕彰の例としても、興味深い。
建碑費用を集めるため、萩原は石碑に名を刻んだ明和年間(一七六四~七一)から明治までの約九百人にのぼる「勤王烈士」の伝記を集めた『勤王烈士伝』を編纂し、明治三十九年四月に出版した。発行所は「勤王烈士頌功建碑事務所 頌功社」。B5判、一千頁もある大冊で、私が知る限りでも大正元年(一九一二)十月に「五版」が出ているから、それなりに売れたのであろう。古い本ながら、いまも古書店でたまに見かける。
同書の巻頭で、萩原は建碑に寄せる思いを次のように述べる。
「大義を唱へ、王事に勤労するもの無慮数千人。而して維新以来今に至りて豊碑の其功を勒するもの果して幾人かある。僅かに祭祀を絶たざるものありと雖ども、是れ唯一郷戚族の間に於てするに過ぎず。痛歎の至に堪へずと謂ふべし」
萩原は多くの「勤王烈士」のことが忘れられていると、嘆いていたようだ。当時の日本は日露戦争に勝ち、ナショナリズム高揚の祝賀ムードの中にあった。国が維新史料編纂会を設置するのは明治四十四年五月のことだから、萩原などは歯痒い思いを募らせていたのかも知れない。
『勤王烈士伝』は各地域ごとに分けて人物を紹介しているが、山口県関係を見ると周防国の部として吉川経幹はじめ十四名、長門国の部として毛利敬親はじめ九十六名の伝記が収められている。
伝記の内容はさほど珍しいものではないが、遺族名と住所が掲載されているのは貴重だ。たとえば、毛利敬親と元徳は東京市芝区「公爵毛利元昭」、木戸孝允は東京市赤坂区「侯爵木戸孝正」、吉田松陰は東京府豊多摩郡「従七位吉田庫三」、久坂義助(玄瑞)は東京市赤坂区「久坂秀次郎」、高杉晋作は(住所未記入)「高杉東一」などとある。寺島忠三郎が東京市小石川区「男爵 実兄 寺島秋介」、入江九一が東京市麻布区「子爵 実弟 野村靖」となっているのは、なまなましい。
長門国の部に掲載されている遺族の大半は東京に居を構えており、山口県に住んでいたのはわずか十二名だ。うち、次の九名が現在の萩市在住となっている。楢崎弥八郎は萩町大字平安古「男(息子)楢崎清武」、渡辺内蔵太は萩町旧城内「渡辺鴻七」、吉田稔麿は椿郷東分村「吉田義久」、藤村太郎と英次郎は萩町大字土原村「藤村正彦」、玉木彦介は椿郷東分村「玉木文之進」、石川厚狭介は萩町大字川島村「石川タケ」、山田虎之助は椿郷西分町「山田キワ」、大見又次郎は萩町大字土原村「大見登」。また、若くして亡くなった者の家は絶えたのか、遺族の部分が空欄になっているものも珍しくない。
『勤王烈士伝』によれば賛購者ならびに遺族を招待し、建碑式と忠魂祭を行いたいとあるが、果たして実現したのだろうか。現在の亀戸天神社には、この石碑にかんする資料が残っていないそうだ。あるいは敗戦直後、進駐軍に対する配慮から、土中に埋めてしまったのかも知れないとも思う。事実、他ではそのようにされた忠魂碑などを、私は知っている。
(「はぎ時事」平成24年3月16日)
0コメント