深作欣二10回忌記念 高杉晋作と深作欣二
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尊敬するクリエーターは映画監督の深作欣二で、最も好きな映画は深作監督の「仁義なき戦い」。これは中学以来、三十余年変わっていない。だからこそ、深作監督が高杉晋作を主人公にした映画を撮ろうとしたことがあった、という情報は大変気になるものだった。ご本人に会って確認したいと思っていたが、平成十五年一月十二日、七十二歳で亡くなってしまったので果たせなかった。その年に出た『映画監督深作欣二』は、深作自身が六十一本の自作について語った聞き書きの労作だが(聞き手は山根貞男)、その中に晋作にかんする話題は出ていない。
ところが先日、ひょんなことから松竹作品『幕末行進曲』という未映画化の脚本を手に入れた。脚本は芦澤俊郎・田中康義、監督は深作欣二、その他のスタッフやキャストはすべて空欄となっている。企画初期の段階で印刷し、関係者に配布したものらしい。これが、幻の晋作映画の脚本だった。
ストーリーは「この映画の歴史上の人物・事件が事実とは異なることをご理解ください」と注意があるとおり、かなり史実を無視している(それが悪いというわけではない)。
幕府の船に便乗して上海に渡るべく、長崎滞在中の晋作は、勝海舟・西郷隆盛・坂本龍馬に説得され長州に帰国。内戦を起こし、藩政府を打倒するものの、反対派から逃れて四国丸亀の博徒日柳燕石を頼る。その後、幕府軍を撃退するも、新時代を前に病没。明治になり、晋作と係わった女性三人が、晋作が果たせなかった上海旅行に出かけるところでエンドマークが出る。
晋作・長崎丸山の花魁篝大夫(香代)・被差別民の仙次の三人が主役で、桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔も登場。ドタバタ喜劇風で、往年の名作、川島雄三監督「幕末太陽伝」(昭和三十二年)を意識したと思われる。タイトルから見ても、松竹で公開された深作の「蒲田行進曲」(昭和五十七年)の次あたりの企画と推測する。ならば晋作は風間杜夫、篝は松坂慶子、仙次は平田満あたりのイメージか。長崎と下関のシーンに出てくる龍馬は、「蒲田行進曲」の劇中劇で龍馬を演じた原田大二郎だろうか。
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さて、入手した「幕末行進曲」の脚本、大いに期待して一読したが、お世辞にも面白い出来とは言えなかった。決定稿ではないだろうから確かなことは言えないが、企画が流れたのも分かる気がする。深作作品特有の毒気が薄く、登場人物の人間臭さも乏しくて平板というのが主な印象だろうか。
晋作は萩に妻子がいるにもかかわらず、長崎では世話になっている町人の娘お蘭を孕ませ、亡くなった先輩の夫人にも手をつける。さらには幕府役人に対する見栄から篝を身請けするが、旅費が足りなくなると、また売り飛ばす。無類の女好きの革命家として描かれるが、いまひとつ魅力が感じられない。
しかも脚本家は、古臭いイデオロギーまみれの歴史観に毒されているらしい。史実の晋作が絶対に言わないであろう、次のような演説をたびたびさせる。
「今やア、武士の時代は終わったのであってエ、これからはア、内にひめた力を革命的に爆発させる諸君の、国民全体の時代が来るのだア」
「人間に上下や貴賎はない。みんな平等の筈なんだ。公然とそれを言える時代が、近い中にきっと来る。来なきゃならんのだ…おい、やったぞツ」
「分からないやつだな。人間は元々平等なんだ、本来の姿へ戻るだけなんだ」
晋作を現代的な平等主義者に仕立てたいらしいが、その背景などは描かれていないから、こうした台詞が出てくるのが唐突に思えてならない。時代遅れの、三文芝居を見るような感じである。
晋作と「俗論派」刺客とのチャンバラも、勧善懲悪の域を出ない。正しいとか、悪いとかといった価値観で人間関係を描かなかった「仁義なき戦い」と比べるまでもなく、薄っぺら過ぎる。
画期的といえば、篝に激しく恋をし、やがて晋作にも惚れ込む仙次が、封建制度の中で最も虐げられた「山の者」として設定されていることだろうか。こんな台詞がある。
「俺はだまされないぞ。百姓や漁師や、俺達山の者までがみんな、侍と同じになるんだとオ?そんなうめえ話があってたまるか」
「俺達はな、いつだって、蹴っとばされて、ぶっ叩かれて、踏んづけられて来たんだぜ。小便までぶっかけられたことがあるんだ」
そこからはい上がろうとする仙次と、身分解放を説く武士の晋作。しかし、当然ながら両者の意見はどこかで食い違い、ぶつかるはずだ。議論を戦わせたり、火花を散らさせたりして掘り下げなければ、せっかくのテーマは深化しない。それが無いのが、「幕末行進曲」の一番つまらない点だろう。
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深作監督は生涯六十一本の映画を作った。戦後にこだわった作品が多いが、幕末史を題材としたことは一度も無かった。しかし、幕末史に興味が無かったかと言えば、そうではない。
深作が昭和五年に生まれたのは茨城県東茨城郡緑岡村、現在の水戸市である。「維新の震源地」のひとつである水戸は多数の「志士」を輩出した地で、時代を考えても、深作少年が忠君愛国の濃厚な空気の中で育ったことは容易に察せられる。それだけに、十五歳の昭和二十年八月十五日、終戦を境に世の価値観が一変した時の衝撃は大変なものだったようだ。しかも、戦後の発展から自身が取り残されてゆくという焦燥感も強かった。そうした思いが、深作作品の原点になり、どうしようもない、過激なバイオレンスの「理由」になってゆく。それだけに近代国家の出発点である幕末は、本来なら避けて通れないテーマであったはずだ。
昭和四十六年、朝日放送二十周年記念番組として、大仏次郎の『天皇の世紀』がテレビドラマ化された。全十三話から成り、毎回脚本家や監督が変わり、ペリー来航から天狗党挙兵までを描く。
いま、私の手もとにある当時の企画書を見ると、「監督(予定)」として山本薩夫・今井正・吉村公三郎・三隅研次・篠田正浩などと共に「深作欣二」の名が見えるが、なぜか深作だけ実現していない。
後年、深作初の時代劇「柳生一族の陰謀」(昭和五十三年)が大ヒット。そのころ深作は、「寺田屋騒動」の映画化を考えたと、自ら語り残している(『映画監督深作欣二』)。これは、時代劇の巨匠伊藤大輔が山本有三の戯曲『同志の人々』を映画脚本に直したもので、かつて東映で映画化が企画されたりしたが、結局は流れていた。
「僕は前に伊藤さんに監督協会でお会いしたときに、こっちは弱輩(若輩)監督だったんだけど、まあ名前はご存じだったようで、伊藤さんが書かれたシナリオのことでお願いしたことがあるんです。『寺田屋事変』というシナリオで、これがじつに面白い」「薩摩勤王派のなかの派閥抗争ですから『仁義なき戦い』のあとなら、時代劇はこの手もあるかなと思ったんだけど、ちょっと暗すぎる映画だなあと」
しかし、伊藤から「私もまだ引退したわけではなく、これは非常に愛着もあって機会がありしだい自分で撮るつもりでいる作品ですので、せっかくのお申し出ですがお断わりします」との返事があり、実現しなかったのだという。ちなみに、伊藤の「寺田屋騒動」は『シナリオ』昭和二十九年四月号と『伊藤大輔シナリオ集』第三巻(昭和六十年)に収録のものとの二バージョンあり、いまだ映画になっていない。
他に深作は、同郷人でもある天狗党首領武田耕雲斎(水戸藩士)を主人公にした映画を撮りたいと願っていたとも聞く。ただし、深作のことだから、昨今流行の行政関係から税金をがっぽり使わせて撮る、お国自慢的な、政治絡みの「ご当地映画」ではないだろう(最近の幕末時代劇はこの類いが本当に多く、とても正視出来ない代物ばかり)。
「本当は、日本の民衆がもっとアブナくなってくれると、世の中がすごくよくなると思いますが(笑)。たとえばTV。『水戸黄門』『遠山の金さん』を見て喜んでいる時代劇支持者は、本当に善良な体制の支持者ばっかり。自民党が永く続くはずだよ(笑)。そういうことで日本の復興、経済成長がスムーズに行われたんだと言われると、それは結構だね、と奥歯にものがはさまったような言い方しかないね」(映像塾プロジェクト編『深作欣二ラスト・メッセージ』平成十七年)
と公言して憚らない、深作監督の幕末時代劇を観てみたかった。きっと、危ない民衆による奇兵隊や天狗党のドタバタで、大いに楽しませてくれたばずだ。それが、絶対に叶わない夢になってしまったことを、心の底から残念に思う。
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