晋作の書と印
(1)
先日、関西のある古美術商主催のオークションに、高杉晋作の偏額書が出品された。未見の史料だが、田能村竹田(ちくでん)風の筆跡もいいし、なによりも3カ所に捺された印がいい。これはぜひとも欲しいと思い個人で入札したら、幸い落札することが出来た。いま、私の書斎に掛かっている。
本紙サイズは縦一五×横四九センチと、額書にしては大きい方ではない。手紙用の巻紙を使ったのだろう。横書きで「鶴語寒」、年記は「丙寅復月」で、款記は「東行生」とある。
丙寅は慶応2年(1866)、復月は旧暦11月だから、亡くなる半年ほど前、下関桜山の小屋で療養生活を送っていたころの揮毫だ。自分用だったのか、誰かに書き与えたのかは不明だが、このころ病床で晋作は揮毫を楽しんでいた。
「鶴語寒」の深い意味はまだ調査中だが、現在で言えば十二月か一月なので、そのニュアンスはなんとなく理解できる。晋作にとり、寒さが身に染みる冬だったようだ。同じころ(十一月二十四日)、晋作が萩にいる父にあてた手紙には、
「寒中に差し向かい候義に付、今年だけは掩留保養つかまつり、来春早々帰省の覚悟にござ候」 と、下関で寒い冬を越したら、故郷に帰りたいとの希望を述べる。ただしこれは翌三年四月に没したから、実現しなかった。
やはり別の手紙で晋作は、病床で竹の画ばかり描いていると、父に知らせている。雅号も、生命力溢れる竹を意味する「些々(ささ)」とした。鶴もまた、一千年生きるとされた長寿の象徴だ。竹や鶴にあやかろうとする晋作は、まだまだ生きたかったのだろう。
(2)
私がこの書を気に入った理由の一は、先にも述べたとおり、捺されている印がいいからである。 右肩の関防に①「成師古人」、左裾に②「東」、③「行」の印が捺されている。いずれも晋作が使ったもので、②③の印鑑はひとつの印材の表裏に彫られたものが高杉家史料に伝わる。
①は印鑑現物の行方は分からないが、『高杉晋作史料』二巻(平成14年)の揮毫11・14・21・50・69に捺されている。いずれも出処の確かな書だ。「成師」は中国春秋時代、晋統一を夢見るも挫折した桓叔の諱だ。
特に、揮毫69には①のほかに②③も捺されており、今回私が入手した書と同じ印の組み合わせである。ちなみに69とは、晋作が没した下関新地の林家旧蔵で、「緑●(竹かんむりに均)堂」「丁卯(慶応3年)二月 些々生」と書いた偏額書だ。
(3)
晋作の印は『高杉晋作史料』2巻に、原寸大で21点を収めた。これが全てだと思う。うち、13点の印鑑実物が晋作遺品として高杉家に伝わるが、使用例を見出せないものもあり、なお一考の余地がある。
中でも面白いのは「長府乃木」と刻まれた直径2センチの円印だ。揮毫21(高杉家旧蔵)に捺されているという、使用例もある。
「長府乃木」とはあの、明治の陸軍大将・乃木希典の家だろうが、なぜこのような印が晋作の手元にあったのかは謎である。もっとも印のデザインが気に入れば、内容は気にせず使う文人墨客がいるというから、晋作もその類いなのかも知れない。
晋作は長府藩士乃木十郎とも、その子希典とも多少の交流があったようだ(拙著『高杉晋作探究』)。何かのおり、かれらが持っていた「長府乃木」の印が気に入り、譲ってもらった可能性が考えられる。それを自分の書に捺すというのは、なにか晋作の大らかな一面を見るようだ。
以前から言っているが、市場に出まわっている「晋作の書」というのは9割以上、一見して偽筆と分かるものだ。近年まで晋作の真筆や印が、出版物などであまり公表されなかったため、偽筆を作るさいの「お手本」が乏しかったのだろう。
それだけに、偽筆の印も好き勝手に作っているものが多い。たとえば「高杉晋作」「高杉東行」と大変分かりやすい印もあれば、髑髏に「東行」の文字を配した下品、悪趣味な印もある。講談師たちが創作した、「高杉晋作」のイメージから派生したものだろう。
(「晋作ノート」22号・平成23年7月)
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