映画「松下村塾」-松陰伝
映画産業が隆盛をきわめるのは、大都市に人口が集中した関東大震災後だと言われるが、その波は萩にも押し寄せたようだ。
大正終わりから戦前にかけ、萩には永楽座・巴城(はじょう)館・住吉座・黄金館といった映画館が存在した。特に永楽座は昭和九年(一九三四)四月二十六日、トーキー映写機を設置し、萩で初めての常設トーキー映画館となった(『萩市史年表』平成元年)。翌十年四月には「萩史蹟産業大博覧会」が開催されるなど、資料を見る限りではこのころの萩は活気に満ちている。維新から七十年以上が経過し、萩という町の個性が確立されて来たと見るべきだろうか。
そうした熱気の中、昭和十四年、萩にとっては初めての「ご当地映画」ともいうべき「松下村塾―吉田松陰伝―」が全国に先駆けて公開された。松陰没後八十年の記念作品である。翌十五年二月十八日には、松陰神社で改築起工式が挙行されているから、その事業を盛り上げる意味もあったのだろう。東京発声映画製作所の製作で、配給は東宝。監督は重宗和伸、原作脚色は伊藤松雄、主役松陰には高田稔が扮した。
私が兵庫県の骨董屋で入手した「松下村塾」のプレスシートには「偉大なる人間の悲劇を胸抉ぐる悲壮美まで高めた東京発声の巨篇完成」といった凄い宣伝コピー、さらに「…光輝ある生涯を烈々たる日本精神発揚の実践に捧げて迸る情熱、遂に慷慨悲憤の最後を遂げしめた一代の志士吉田松陰本来の姿茲処に正統伝記映画として具現さる!!」といった、大仰な宣伝文句が並ぶ。
あらすじによると、物語はアメリカ密航未遂事件から始まるようだ。つづく野山獄中では、病死する金子重之助(小川國松)との師弟愛が描かれ、それを見た司獄福川犀之助の娘あき(花井蘭子)が心打たれるといったフィクションも加味されている。さらに出獄して松下村塾を主宰、最後は幕府の行った開国に反対して処刑されてゆく。
この映画の、萩における公開のされ方がいささか四角張っていて面白い。「長州新聞」昭和十四年十月十日号には「『松下村塾』前人気沸騰」と題し、同月十一日から十四日まで毎日午前九時半・午後一時・同三時半・同七時の四回、住吉座で上映されるとの告知が出ている。それは「松陰神社改築奉賛会主催、萩市役所及び萩婦人会後援」で、九時半と一時の二回は「児童及生徒に観覧」させ、後の二回を一般公開するというのだ。
割り当ては十一日(水)が椿東小、萩中、十二日が椿西小、白水小、高商、十三日(金)が明倫小、越ケ浜小、萩高女、青年校女、十四日(土)が明倫小、木間小、附近学校、青年校となっている(校名は新聞記事のまま)。
また、別の日(十月三日)の同新聞によれば入場料は四十銭だが前売りがあり、これは三十銭、学生はなんと十銭だった。学割で四分の一になるというのも珍しいと思う。当時の萩は、「松下村塾」を娯楽映画とは考えず、青少年啓蒙活動として力を入れたようだ。
松陰の伝記書籍は『吉田松陰全集・別巻』(昭和四十九年)の関係文献一覧表によると、昭和十年代だけでも約百冊が出版されている。最初の松陰全集も昭和十一年に完成しており、緊迫する時局と重なり、松陰が最も注目された時代でもあった。ところが、幕末維新を題材とした作品を盛んに作っていた映画界は、松陰を題材に選ばなかった。管見の範囲ではこの「松下村塾」くらいである。おそらく、神格化されてゆく松陰の生涯を、娯楽作品として描くことには憚りがあったのだろう。人間臭い松陰の魅力が封印されてしまった一因は、こんなところにもあったのではないか。
萩で先行上映された「松下村塾」は、その後全国で公開されたようだ。昭和十四年十二月七日発行の東京・浅草花月劇場のプログラム(これは東京神保町の古書店で見つけた)には、「松下村塾」が紹介され、イケメン俳優扮する松陰の横顔写真が掲載されている。
(「はぎ時事」平成23年7月8日)
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