吉田栄太郎の幼児性 (萩博ブログを改稿)

吉田栄太郎(稔麿)の魅力のひとつは、手紙の面白さだと思うが、私がもっとも気に入っているのが文久2年(1862)3月15日付、母イクあてだ。江戸へ出て、旗本妻木田宮に仕えた栄太郎は、そのころ常陸鹿島郡の妻木家領地に、主人の名代(代理)として赴いた。そのレポートが、これまでも何回か紹介しているが実に面白い。

「此の間田舎へ参り候ては、御名代ゆえ御代官も庄屋も村役人も私の心持ち通りにはたらき」云々というやつだ。領主の代理だから、役人や領民たちが栄太郎にぺこぺこする。それを「誠に面白き事にて実に涙のこぼれ候様にうれしく」「武士の本意にござ候」などと、得意げに母に知らせている。

この他にも栄太郎の母あての手紙には、

「妻木の殿さんに可愛がられとるよ」「旗本になれるかもしれん」「江戸城にも出入りできるんじゃ」「岡山藩からも仕官の声がかかったんじゃ」

等々と、これでもかと言うほど、自慢話が散りばめられている。

ちいさな男の子が、はじめて何かが出来るようになった時、真っ先に母親に見せようとする。そして、褒めてもらおうとする。

栄太郎の母あての手紙を読んでいると、この男は20歳を過ぎても、そうした幼児性を強く持っていたことが分かる。筆跡も子供のようで、お世辞にも達筆、美筆ではない。それは私自身の記憶と重なり、面はゆいような、微笑ましいような不思議な気分にさせられる。なんかふに~っとした感じの(抽象的表現で申し訳無いが)一面があった男ではなかったか。

それを受けとった母が、大切に保存したからこそ、栄太郎の手紙は今日まで伝わっているのだ。

「稔丸は私にやさしくしてくれました。母様が下駄の緒をしっかり立てて下さったから、大変歩き好く、少しも疲れざったと、三田尻から手紙を遣りました」(林茂香『幼時の見聞』)

24歳の一人息子を失い、なお20年余りも萩の地で生きねばならなかった母の言葉が心に沁みる。

●お知らせ

吉田栄太郎の評伝『吉田栄太郎の幕末』(一坂太郎著)を10月、春風文庫から出版予定です。予価2500円、380部限定予定。詳細が決まりましたら、本ホームページでお知らせします。

春風文庫

~ 一坂太郎のホームページへようこそ。~

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