栄太郎と利介 (萩博ブログを改稿)
萩の松本村に住む吉田栄太郎(稔麿)が9歳の嘉永2年(1849)3月、近所に引っ越して来た一家がある。利助とその両親だ。利助は栄太郎と同い年だった。のち初代総理大臣となった「従一位大勲位公爵伊藤博文」である。
利助は萩の生まれではない。瀬戸内に近い熊毛郡束荷(つかり)村に住む、林と称する農家の生まれだ。父十蔵は故郷の村でも金銭トラブルを何度か起こした。そのため村に居られなくなり、いろいろあって萩の下級武士伊藤直右衛門に仕えていたのだ(のち一家揃って伊藤家の後継者となる)。
同年齢の二人は、すぐに一緒に遊ぶようになった。
利助は別に病弱ではなかったが、顔が青白かった。だから他の子供たちから「利助の瓢箪、青瓢箪、お酒を飲んで赤うなれ」とからかわれていた(『伊藤博文伝』)。利助は自分よりも腕力が強い、栄太郎に押さえつけられることがあった。青瓢箪とはいえ利助も負けん気が強いから、またやって来る。そしてまた負けて帰って行った。しかし利助が笛を吹いて歩けば、栄太郎は後ろから調子をとってついて行ったという(『松陰先生と吉田稔麿』)。栄太郎は読み終わった書籍を、利助に与えるなど親切だったらしい(『藤公美談』)。あるいは利助の最初の妻(入江九一の妹)を世話したのは、栄太郎の母イクだった。利助はすぐにこの妻を離縁したので、イクは彼女が自殺するのではないかと心配しながら入江に連れて帰ったという話が残る。
その後も二人の交遊は史料で確認出来るが、文久3年(1863)5月、利助こと「伊藤俊輔」が井上聞多らとイギリス密航留学するのを、栄太郎は知らされていたのだろうか。密航留学は高杉晋作や久坂玄瑞は知っていた。栄太郎は松下村塾で『坤輿図識』を読むなど、世界情勢に関心を抱いていた。熱烈な攘夷論者ではあるが、感情的な攘夷論者ではない。それだけに興味ある問題だ。
「そういやあ、最近俊輔を見かけんのう。行方不明?どこ行っちょるんじゃ」と、栄太郎が首を傾げていたかは知らない。一方俊輔が「あいつは攘夷、攘夷っちゅうてうるさいけのう、エゲレス密航はちょっと黙っちょこう。まぁ栄太もこん前、わしに内緒で出奔しよったけえのう、お互いさまじゃ」と思っていたかも知らない。
元治元年(1864)6月5日、24歳の栄太郎は京都で死んだ。24歳の伊藤が帰国したのはその月下旬である。伊藤が竹馬の友の死をどこで聞き、何を思ったかはこれも史料が残されていない。しかし、それから四十五年長く生きた伊藤は政治家として日本を独立した近代国家へと見事に脱皮させた。地下の栄太郎も「利助、ようやった」とうなずいていたに違いない。
子供のころ、利助は栄太郎の家に遊びに来ては、庭にある大きな松の樹に登っていたと伝えられる。ゆえにこの松は後年、「大臣松」と呼ばれた。大臣松は栄太郎旧宅とともに昭和50年代半ばまで残っていたが、いまは切り倒されて跡形も無い。写真で見ると立派な枝振りの松だ。
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