吉田稔麿と岡山藩 (萩博ブログを改稿)

兵庫から出奔した長州の吉田栄太郎(稔麿)は山陰、安芸、下関、上関を経て、備前岡山に赴いた。岡山藩池田家は外様で三十一五千万石。栄太郎は文久元年(一八六一)二月ころまで、ひと月かふた月くらいは岡山で生活したと考えられる。岡田后太郎のもとにいたというが、この人物が何者なのかは分からない。

それから栄太郎は近畿地方を経て、江戸に向かった。江戸到着は三月十九日で、岩間水之丞と変名して岡山藩邸(備前屋敷)に潜伏する。同行者は岡元太郎の父だ。この岡という人物の経歴が、なかなか興味深い。

岡は岡山藩士といっても、藩主池田家に直接仕えていない。藩の重役土肥典膳の家来、つまり陪臣である。同志と共に文久三年二月には京都で足利三将軍木像の首を抜いて晒し、元治元年七月には岡山に入った新選組の密偵を暗殺したりした。こうして幕府から追われる身となった岡は、長州藩士渡辺玄包の京都宅に匿われたりする。しかし慶応元年(一八六五)二月、土佐浪士三名と遊説中に農民とトラブルになり、美作土居で自刃。三十歳。

長州の栄太郎と積極的にかかわったのは、岡山藩の勤王派だ。かれらは、長州藩過激派と気脈を通じていたふしがある。その中心人物のひとりが、岡が仕えた番頭の土肥典膳だった。のち、文久二年、藩主池田慶政は天皇から上洛を命ぜられても、病気を口実に動かなかった。すると土肥らのグループは、藩主の意を無視して上洛し、国事周旋方として活動する。

さらに土肥らは、慶政の態度が優柔不断と非難し、藩の将来のため隠居させよと訴えた。そのさい土肥は土倉淡路(家老)・日置猪右衛門(家老)と共に、次の藩主は長州藩毛利家から迎えるべきと主張する。他に薩摩藩島津家・土佐藩山内家からとする派もあり、激しく対立した。その結果、文久三年二月に慶政が隠居させられ、水戸藩より九郎麿が迎えられて、第九代の藩主池田茂政となった(荒木祐臣『備前藩幕末維新史談』昭和五十三年)。

天皇の意向に従わぬというのが、家臣が殿様をクビにする大義名分になるのだ。以前なら考えられぬことである。かれらを強気にさせ、無茶を可能にした一因が、同じく「勤王」を掲げる他藩との連携であった。

その後、岡山藩邸を出た栄太郎は四月十四日(十五日とも)から、大塚にあった幕臣柴田東五郎の屋敷に移る。さらに八月からは幕府旗本妻木田宮に仕えた。その背景には、中央政局へ進出しようとする長州藩の企みがある。

ただし長州藩の中で栄太郎の位置は、十三組中間の伜だ。十一月一日、母にあてた長文の手紙には妻木家内で厚遇されている、紋着きを新調した、立身するつもりだ、旗本になれるかも知れないと嬉しそうに述べる。さらに、岡山藩からぜひにと仕官の話が舞い込んだとも知らせる。

「この間備前よりも使い参り、備前へ参りくれ候えば一生不じゆう(自由)致させ申すまじく、左様候えば先生も安心致し、大いに仕合せと申す事にてござ候ゆえ、一応断り候得共またまた左様申す事にて御国へ参りたき節は、備前より親類をつけてやる、これを縁にいたし以後親類同様につきあいたいと申す事ゆえ、私も世話に相成り候に付、以来は親類とおもい申し候と返答仕つり、備前へ参る事は国元并びに友達とも相談の上参り申すべくとて帰り申し候」

手紙の内容が事実であるなら、気分が悪いわけがない。「備前へ参るくらいならば、江戸に居り申し候」と両者を天秤にかけるが、岡山藩にも義理があるから年末まで返答を延ばし、成り行きに任せるなどと言う。さらに、徳川幕府の権威の象徴である江戸城に出入りする自分を、次のように誇らしげに知らせる。

「私は天下様の御城(江戸城)にも毎々参り申し候。まことに大きな、きれいな物にござ候。いずれ帰国候うえ、御はなし申し上げ候」

自分を正当に評価してくれる者たちを前に、栄太郎の気持ちは揺れている。こうした点において、栄太郎の思考は高杉晋作や久坂玄瑞といった忠臣蔵的武士よりも合理的、近代的だったと言えよう。

十一月二十五日、久坂あての手紙で栄太郎は金銭で幕臣の株を買いたいとの希望を述べた後、「わけのぼる麓の道の多けれど 同じ高根の月をこそ見れ」と詠じる。はたして栄太郎の見た「高根の月」は、同志たちの「月」と同じだったのだろうか。

※今秋、春風文庫から『吉田栄太郎の幕末』(仮題)を限定出版予定です。詳しくはまたお知らせします。

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