随想吉田稔麿(2題) (萩博ブログを改稿)

随想 吉田稔麿

幻の『攘夷始末記』

吉田栄太郎(稔麿)は相当な書き魔で、筆も立った。私が知る限りでも八十通ほどの手紙が現存している。たとえば江戸に行ったさい、萩の松陰に頻繁に手紙を出したようだが、安政四年(一八五七)十一月二十五日に書いたかと思えば、翌二十六日にもまた書く。しかもどちらの手紙も、細々としたことをびっしりと書いている。これは「書く」という作業が好きでなければ出来ることではない。文学青年だったのだろう。

まとまった著作も残している。現存する『東風不競密話』と題された一冊は、大作である。旗本妻木田宮(向休)に仕えたところから書き起こし、文久三年(一八六三)八月十八日の政変以降、幕長間融和に妻木と共に奔走したこと、自分たちが行って来た攘夷の正当性などを述べている。登場人物の人物評などもあり、ちょっとしたノンフィクション文学だ。「志士文学」として、もっと評価されてもいいのではないかとも思う。自筆原本が現存している点も貴重だ(毛利博物館蔵)。

栄太郎にはもう一冊、言わば幻の著作がある。『攘夷始末記』という。松下村塾以来の同志である馬島甫仙が「吉田無逸所著攘夷始末記を読む」「攘夷始末記の後に題す」と題した漢詩二篇を残しているので、その存在だけは分かる(福本義亮『吉田松陰の殉国教育』)。しかもこの漢詩の添え書きによれば、落合済(明倫館で学び、明治になり内閣書記官元老院議官補)が栄太郎没後、『攘夷始末記』を速やかに上梓(出版)するのが同志の責務だと語っていたという。栄太郎の代表作と見ていいだろう。ただし、出版された形跡は無い。

ぜひ読みたいものだが、『攘夷始末記』が自筆、他筆にかかわらず残っているという話を聞かない。私は『東風不競密話』の別称ではないかとも思ったが、どうも違うらしい。京都大学附属図書館蔵『吉田稔麻呂伝』に『東風不競密話』とは別に、「癸亥(文久三年)の役攘夷始末記を著はし京師の同盟に贈る」とあるのを見つけた。

栄太郎は松下村塾で、世界地誌である箕作省吾著『坤輿図識』を熱心に読んだ。そしてアメリカの独立戦争を、自分たちの攘夷戦争と重ねて考えていた。その彼が著した『攘夷始末記』は攘夷の正当性を訴え、外国艦砲撃の実況などをリアルに伝える名著だったかも知れない。京都の同志に送ったというのだが、あまりの面白さに評判となり、回し読みされたあげく、行方不明になってしまったのだろうか。出版が実現しなかった理由も、あるいは早い時期に原本が失われたからかも知れない。

どこかで『攘夷始末記』が、人知れず眠っている可能性は無きにしも非ずだ。借りたまま忘れて、返さなかった者がいたのかも知れない。

「せっかく書いた自信作やのに。あいつがさっさと返さんから、出版の機会が失われたっちゃ」

と、あの世で文学青年の栄太郎がぼやいたかは知らない。

出奔の理由

吉田栄太郎(稔麿)の生涯のうち最大の謎と言えるのが、万延元年(一八六〇)十月、兵庫警備の陣中から突然出奔(脱藩、欠落)したことだろう。それから栄太郎は山陰、安芸、下関、上関あるいは岡山などを経て江戸に赴き、旗本妻木田宮に仕えたりした。確たる証拠は残っていないが、長州藩が黙認していたことは容易に察しがつく。密命を与えられ、諜報活動を行ったようだ。それを裏付けるかのように二年後の文久二年(一八六二)七月、京都で世子毛利定広に謝罪して、簡単に帰藩が許されている。

もし、無断でこんな勝手な事をしたら無事では済むまい。栄太郎の師吉田松陰が、かつて脱藩して東北地方に赴いたさいは士籍を奪われ、浪人にさせられた。それと比べると栄太郎の罪は更に重いはずだが、一年後には士雇に列せられるという栄達まで遂げている。

そのあたりの、何か靄(もや)に包まれたような史実を探ってみたいと思うのだが、これは流石に難しい。栄太郎という人物を歴史の中に位置付け、評価する最大のポイントはここにあると考えている。

さて、兵庫から姿を消すさい、孝行息子の栄太郎はどのように両親に説明したのだろうか。実は直接、手紙は出していない。信頼していた母方の叔父里村文左衛門(文衛)に十月二日付の手紙で知らせたのみである。

この手紙の内容が、ちょっと面白い。

出奔前のある夜、栄太郎は酷い嘔吐下痢に苦しまされた。そのさい栄太郎は日頃から崇拝していた八幡宮に懸命に祈ったところ、不思議にも翌朝には全快。栄太郎はもし治ったら、全国百社の八幡宮に参りますと誓った。神との約束を果たすため、栄太郎は旅に出るのだという。「社数多に付、彼是二年かかり申すべく、その上当節は関東辺りへは卒爾に参り難く勢いござ候」と知らせる。

さらに「私ケ様相成り候上は、さぞさぞ父母当惑とひそかに掛念つかまつり候」と両親を気遣い、叔父さんから「御智略を以てしかるべく御弁説」して欲しいと頼むのだ。本当の理由は言えなかったのだろう。この後、栄太郎の出奔は萩で評判となり、父の清内も迷惑したらしい。

それにしても、出奔の理由が全国八幡宮参りだと、周囲の者は本気で信じたのだろうか。だとすれば、随分純朴な人たちである。

「さすがは栄太郎、若いのに信心深い感心なやつっちゃ」

と言ったかは知らない。

なお、栄太郎が神社仏閣を好んだのは事実のようで、元治元年(一八六四)三月二十一日、両親あての手紙には「この間より、石山寺開帳につき参り滞留」とある。近江石山寺の本尊如意輪観音菩薩半跏像は、三十三年に一度拝めるだけの秘仏だ。わざわざ拝観に行ったというのは、栄太郎の何か別の一面を見たような気がする。

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