長州奇兵隊は理想の近代的組織だったのか (「中央公論」平成22年10月号)

「奇兵隊内閣」への違和感

本年六月に発足した新内閣を、管直人首相は「奇兵隊内閣」と名付けた。奇兵隊とは、幕末の長州藩(現在の山口県)で高杉晋作により結成され、外国や幕府を相手に戦った軍隊だ。

就任会見で管首相は、「私も普通のサラリーマンの息子。普通の家庭に育った若者が志を持ち、努力すれば政治の社会でも活躍できることが民主主義のあり方だ」とし、みずからを「草の根から生まれた政治家だ」とアピールした。確かに奇兵隊には、庶民が動員されている。しかし正直なところ、山口県に住み、奇兵隊の足跡を追って来た私などは、なんとも言えぬ違和感を感じてしまう。

また、民主党の管首相の政敵とも言うべき、山口県選出の自民党国会議員が反発したのが面白い。安倍晋三元首相は、奇兵隊の名が使われたことに「不愉快」と、ムキになってコメント。林芳正参議院議員は「奇兵隊の目的は倒幕だった。政権交代後の管内閣がなすべきは、破壊でなくて創造」と、批判した(ただし、奇兵隊の目的を「倒幕」とするのは、ちょっと首を傾げたくなる)。

管首相の選挙区は東京一八区だが、実は山口県で生まれ育ち、高校生まで住んでいた。山口県は伊藤博文・山県有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・岸信介・佐藤栄作・安倍晋三と、八人の総理大臣を輩出しており、自民党王国、保守王国などと呼ばれている。

それだけに、管首相を九人目とは認めたがらない空気も濃厚だ。就任六日で管首相が早々に帰省しても、事情はどうあれ、県知事は出迎えにも、挨拶にも来なかった。それでも管首相は旧友や恩師と会い、ここが自分の故郷だとアピールする。保守も革新も、政治家にとり「長州」はブランドなのだ。

それが欲しいため、管首相は「奇兵隊」を使ったと私は感じた。選挙のたびに自称「平成の松陰」「平成の晋作」が出てくるお国柄だ。県外人の目には、なんとも大人げない、馬鹿馬鹿しい喧嘩に映るかしもれないが。

「身分平等の軍隊」は本当か

奇兵隊は外国排撃、「攘夷」の目的で結成された軍隊だ。そこでまず、結成に至るまでの経緯を見ておこう。

幕末の安政五年(一八五八)、幕府は欧米列強との間に自由貿易を骨子とした修好通称条約を結んだが、これに外国嫌いの孝明天皇が反対した。そのため朝廷・幕府間に亀裂が生じる。

江戸時代の天皇は、政治の蚊帳の外に置かれていた。ところが開国問題を機に、その発言力がなし崩し的に高まる。天皇は幕府に条約破棄、外国排撃を迫った。文久三年(一八六三)三月に上洛した将軍徳川家茂は追い詰められ、天皇の前で「五月十日」を攘夷実行の期限とすると誓う。

現在の山口県を領地とする長州藩(毛利家・三十六万九千石)は、天皇の側に立ち攘夷を唱える。そして五月十日が来るや、本州最西端の下関(馬関・赤間関)に築いた砲台から、関門海峡を通航する外国艦を次々と撃つ。ところが、アメリカやフランスの軍艦に反撃されるやたちまち敗れ、攻から守へと方針転換を余儀なくされる。山口で敗報に接した藩主毛利慶親(敬親)は高杉晋作を呼び、軍備立て直しにつき何か良策は無いかと問うた。

高杉家は八組(馬廻り)という家格。藩主側近を何人も輩出した名門だ。そこの嫡子である晋作は、吉田松陰の主宰する松下村塾や藩校明倫館、幕府昌平坂学問所で学んだ。数え年二十五。藩主世子(若殿)の側近を務め、前年には中国上海に渡航して見聞を広めた、藩が最も期待する若きエリートである。

晋作は「願わくば馬関のことは臣に任ぜよ。臣に一策あり。請う、有志の士を募り一隊を創立し、名付けて奇兵隊といわん」と、即答した(『奇兵隊日記』)。藩の正規軍を補佐する、ゲリラ軍を創るというのだ。藩主は喜び、晋作に下関防御を任せる。

晋作は下関に走り、六月六日深夜、商人白石正一郎の屋敷に入った。晋作は白石に協力を求め、翌日から奇兵隊が結成されてゆく。初代総督は晋作である。晋作は奇兵隊をどのような軍隊にしようと考えていたのか。それは同月七日、藩政府に晋作が提出した五カ条から成る稟議書に記されている。

これによると、奇兵隊は「有志の者」の集まりだと言う。「藩士・陪臣・軽卒」という武士階級の中では身分を問わず、「堅固の隊」にしたいと述べる。晋作は同月八日、藩重臣前田孫右衛門にあてた手紙に「有志者は軽卒以下に多くござ候」とも述べており、既存の軍事力に限界を感じていたことがうかがえる。

さらに、奇兵隊は武士以外の庶民の入隊も認める。白石正一郎が弟の廉作と共に、会計方として加わったのが最初のようだ。それから続々と集まって来て、武士が五割、農民が四割、その他一割という混成部隊に成長する。ただし武士といっても八割以上は足軽や中間、陪臣といった下級武士であり、農民の七割は平百姓だった。

しかしだからと言って、晋作に近代的な平等意識があったのかと言うと、それは違う。「奇兵隊に入れば武士になれる」との噂は流れたが、じっさいは農民が入隊しても、原則として身分は変わらない。同じ隊士でも、髪形から服装まで細かく差別があった。

たとえば、「袖印」という名札は藩士が白絹地、足軽以下は晒布と、材質にまで細かく取り決められていた。さらに苗字帯刀が許されている者以外は、袖印に名のみ書くよう指示が出ている。しかしこれなどは守られず、庶民も勝手に苗字を書いていた。

晋作ら武士側からすれば、全人口の一割にも満たない武士だけで戦っては、外敵に勝てない。残りの九割も動員して軍事力として利用しようというのが、本音だろう。社会秩序を保つための身分制度に、晋作は特に疑問を抱いていない。

晋作が生まれる八年前、長州藩で十数万人の農民が「天保の大一揆」を起こし、為政者はその鎮撫に苦労させられている。さらに長州藩領は三方が海に囲まれていた。このため、外敵に対する危機感が庶民の間にも芽生えている。かつて、藩に向けられた庶民のエネルギーを政策に巻き込み、外敵に向けて使おうというのだ。

以後、雨後の竹の子のように「奇兵隊的」な軍隊が藩内各地で誕生する。遊撃軍・御楯隊・八幡隊など、その数は幕末の数年間だけでのべ四百を数えるという(『山口県史』)。それらを総称して諸隊と呼ぶ。

藩存亡の危機に立って

孝明天皇は長州藩の暴走を危惧する。それを知った薩摩藩や会津藩は、朝廷の関係者と通じて、政変を起こした。文久三年八月十八日のことである。

一夜にして朝廷における勢力を失った長州藩は、晋作の奇兵隊総督を免じ、下関から引き揚げさせ、山口で政治に専念させた。十月一日には重役の奥番頭に就き、新知百六十石を給せられる。

政変後、長州藩内は武力を背景に復権を遂げようとする「進発論」に傾いてゆく。ついには元治元年(一八六四)七月十九日、京都で「禁門の変」とか「蛤御門の変」と呼ばれる戦いを起こし、敗れる。晋作は進発を中止させるため奔走したが失敗し、失脚した。

つづいて、イギリス・アメリカ・フランス・オランダからなる四カ国連合艦隊十七隻が下関に襲来する。前年五月以来、関門海峡を封鎖され、貿易の不利益を被った列強が、武力行使に踏み切ったのだ。戦いは八月五日から七日にかけて行われた。奇兵隊は下関の前田・壇ノ浦砲台を死守して戦ったが、長州藩はまたもや敗北を喫する。これにより長州藩は外国艦の海峡通航を認め、攘夷活動にピリオドを打つ。

さらに長州藩は、存亡の危機に立たされる。「禁門の変」で御所に攻め寄せた長州藩に、孝明天皇が激怒したのだ。天皇は幕府に「長州征伐」を命じ、さらに長州藩に「朝敵」の烙印を押し、藩主父子の官位を剥奪した。「勤王」「尊王」を唱えたすえの「朝敵」だから、これ以上の残酷な皮肉はない。

余談だが、「長州征伐」は学校の歴史教育でも、幕府対長州藩の戦いとして教えられる。しかし命令を発したのは孝明天皇だから、天皇対毛利の戦いとするべきだ。

京都で敗れ、下関で敗れた長州藩に、もう余力はない。長州藩は勅命を奉じた征伐軍に対し、恭順謝罪する。藩主父子は謹慎し、京都進発の責を負った三人の家老は切腹。それらが認められ、不戦解兵が進む。

失脚した晋作は九州に逃れたが、十一月下旬、下関に戻って来る。そして奇兵隊など諸隊に、藩政府打倒の決起を促す。当時、諸隊は藩から解散命令を出されていた。だが、内戦を避けようとする奇兵隊総督の赤祢武人らは、晋作の呼びかけに応じない。苛立つ晋作は諸隊幹部を前にして、「君らは赤祢武人に欺瞞せられたる者か。そもそも武人とは大島郡の一土民ではないか」と怒鳴りつける(天野御民の回顧録)。赤祢は島医者の伜であった。

それでも晋作は十二月十五日、下関新地の藩会所を襲撃、決起する。従ったのは遊撃軍と力士隊の八十名ほどだった。それから晋作は決死隊を率い、三田尻(現在の防府市)の海軍局を襲い、軍艦を奪う。驚いた藩政府は、鎮圧のための軍勢を差し向ける。

そのころ、晋作は友人大庭伝七にあてた手紙で、自分が死んだ場合の墓碑銘を指定した。肩書として「故奇兵隊開闢総督」と「毛利家恩古(顧)臣」を刻んで欲しいという。封建秩序の破壊者になりかねない奇兵隊の創設者であることと、古い体制の中にいることの両方を誇りとしているのだ。この矛盾がいかにも晋作らしい。

傍観を決め込んでいた奇兵隊はじめ諸隊が、晋作らの決起に呼応したのは、三週間も後のことだ。慶応元年(一八六五)一月七日、諸隊は絵堂(現在の美祢市)に駐屯する藩政府軍を襲撃したのである。赤祢は調停に失敗して隊を離れ、奇兵隊の実権は軍監の山県狂介(有朋)が握っていた。晋作は山県に、「わしとおまへは焼山かづら、うらは切れても根はきれぬ」との俗謡を贈っている。

諸隊は藩政府軍を各地で打ち破ってゆく。そして山口に退却した後、勝ちに乗じて萩城下へと進軍した。そのさい、奇兵隊などが宿舎としたのが、藩主菩提寺の東光寺だ。そんな権威の象徴に、下級武士や庶民の兵士が上がり込む。また軍艦を萩沖に進め、空砲を放つ。こうして旧政権が復権せぬよう、威圧するのだ。

毛利家恩顧としての苦悩

激しい内戦のすえ、藩政府軍は敗れた。萩城下では中立派が結成され、政権交代を進めてゆく。

慶応元年二月二十二日から三日間、祭事が行われ、藩主父子は先祖の霊に対してみずからの「不明不徳」を謝した。こうして長州藩は「待敵」という、武備恭順の姿勢で一本化されてゆく。朝廷・幕府に対し、長州藩の「正義」を訴え、聞き入れられなければ、一戦も辞さぬ覚悟である。

晋作にすれば、願っていた時代がやって来たわけだが、その胸中は晴れなかった。内戦後、奇兵隊など諸隊が、なし崩し的に新政権に対し、政治的発言力を強めたからである。

すでに戦いの最中から、その兆しがあった。諸隊の作戦会議で、晋作は一気に萩方面に攻め込もうと主張。すると山県が、山間部の山口に一旦退却して形勢を見守ろうと反対したのだ。結局、太田市之進・福田良介ら他の幹部が山県に同調したため、一月二十一日、諸隊は山口へと転陣した。すでに晋作の「鶴の一声」で、物事が決まる時代ではなくなっていた。

晋作ら武士にすれば、諸隊を政権奪取の軍事力として利用したものの、下級武士や庶民を政治に参加させるつもりはない。諸隊側も、当初はそんな思惑はなかっただろう。ところが新政権がスタートするや、今度は諸隊が独自の意志を持ち始めたのだ。

これは、封建秩序の崩壊を意味する。藩士は当然、看過できない。最も苦悩したのは「奇兵隊開闢総督」でありながら、「毛利家恩顧の臣」でもある晋作だ。晋作は封建制度が崩れかけると、その立て直しに懸命になる。

諸隊との間に溝を深めた晋作が期待したのは、干城隊だった。干城隊は八組士や遠近附士という、れっきとした藩士百七十六名により結成され、慶応元年三月十五日、藩から公認された。その性格から「世禄隊」と呼ばれた。

晋作は同じ八組士で、干城隊結成に尽力する佐世八十郎(前原一誠)に手紙を書く。晋作は「国内規律」も一応立て直ったし、諸隊中の「土民は農に帰り、商夫は商を専っぱら」にすべきと言う。もう、民衆的要素を排除したいのだ。さらに、増長を遂げてしまった奇兵隊を結成した時の思いを、次のように苦々しく述べる。

「弟(晋作)も八組の士。もとより八組士の強き事を欲し候えば、やむをえず奇兵隊など思い立ち候事にござ候」

晋作にとり、奇兵隊は「やむをえ」ない緊急時の産物だったのだ。これは藩士としての本音で、釈明だろう。

さらに晋作は「干城隊振興にあいなり候は、大幸の至りに候」とし、すべての諸隊の頂点に干城隊を置くと述べる。たとえば、藩政府からの命令も干城隊総督が受けて来て、他の諸隊代表を集めて伝えるのだという。干城隊の命令が無ければ、諸隊が動けないシステムを築こうというのだ。

また晋作は、山口に集結し、藩政府を威圧する強大な軍事力となっている諸隊を、藩内各地に分散させよと述べる。再び攻め寄せて来るかも知れぬ征伐軍に備える目的もあり、奇兵隊は吉田(現在の下関市)、御楯隊は三田尻、遊撃軍は高森(現在の岩国市)などへ散って行った。これで長州藩領は要塞と化す。

それはそれで良かったのだが、晋作が願った封建秩序の立て直しは、うまくゆかなかったようだ。藩内各地に転陣した諸隊などは「御親兵」と称し、藩主のいる山口に、なかば強引に分隊を送りつけて来る。藩政府に圧力をかけ、監視する目的があったことは、想像に難くない。

晋作は干城隊の幹部にもならず、藩政府の椅子も求めなかった。そして、

「人は艱難を共にすべきも、安楽は共にすべからず」

ともらし、イギリスに行くと言い出す。敗北である。これに反対する井上聞多は「諸隊の兵、大いに驕り、統御すこぶる困難の事情ある」と、晋作に泣きつき、止めようとした(『井上伯伝』)。井上も八組の武士として、晋作同様の悩みを抱いていたのだ。

高杉晋作の病死

結局、晋作のイギリス行は中止となる。奇兵隊など諸隊は増長を続けたが、藩政府は力づくでねじ伏せられない。下級武士や庶民の力を借りねば、外敵を防げないと分かっているからだ。

再び息を吹き返した長州藩を潰そうとした幕府は、「第二次長州征伐」を始めようとする。慶応元年閏五月、将軍徳川家茂は大坂城に入り、孝明天皇に勅許を求めた。九月、天皇はこれを許可する。

一方、長州藩は幕府独裁に批判的な薩摩藩と水面下で接近し、イギリスから七千三百挺の小銃と蒸気船軍艦一隻を購入するなど、軍備を整えてゆく。

こうした中、郷土防衛のため、庶民の青年が自主的に銃を持って立ち上がったというのが、奇兵隊のイメージだ。ところが現実は、「有志」だけでは足らず、強引な人集めも行われた。

たとえば伊佐徳定村(現在の美祢市)では、十代から五十代の対象者二十七名に、藩政府から入隊勧誘の声がかかった。すると、公務があるとか、本人が他所へ出ているとか、生活が苦しいとかの理由で辞退する者が相次ぐ。誰も兵士になりたくないのだ。

結局、この村からは七名が奇兵隊に入隊するのだが、そのうちの一人、古川順蔵は庄屋の次男だった。古川家の記録には「二男順蔵は、入隊の命によって奇兵隊に入隊し」とある(『ふるさとの歴史・美祢』)。あくまで「命によって」入隊するのだ。

奇兵隊士は、庄屋の息子が多い。それは庄屋が知識階級で、危機意識が高かったからとの、もっともらしい解釈がある。しかし、藩から村に割り当てられた兵役の責を果たすため、代表者の庄屋が自分の子を差し出したという一面もあったのではないか。

慶応二年六月、征伐軍が再び長州藩に攻め寄せた。長州藩は官民一丸となって、これを撃退する。七月には将軍家茂が病没。すると幕府は勅を得て、九月になり、長州藩との間に休戦協約を締結した。休戦といえば幕府にとっては聞こえがいいが、じっさいは長州藩の圧勝だった。

しかし、驚くべきことに、二度の「長州征伐」を経てもなお、「朝敵」の汚名は消えなかった。それほど、孝明天皇の長州藩に対する怒りは大きかった。三度目の「長州征伐」が計画されているとの噂も立つ。

ところが十二月二十五日になり、三十六歳の孝明天皇が突如崩御する。毒殺の噂もささやかれたが、真偽はともかく、政治的発言力が大きな存在だけに、その死は政治的大事件となる。

晋作は「第二次長州征伐」の最中から吐血し、下関で床に臥していた。不治の病とされた結核だった。慶応三年四月になると、晋作の意識は薄れる。

「船はいずれへ着き候か。百姓の蜂起気にかかり、山口へただ今より出浮候」

とのうわ言をもらしたという(『楫取家文書』)。「百姓の蜂起」というのが、庶民を変革の渦に巻き込みながら、そのエネルギーの勃興に戸惑い続けた晋作の苦しい胸中をしのばせる。その月十三日、晋作は他界した。享年二十九。

長州の復権と奇兵隊の末路

それから時代は急速に動き、十月に大政奉還、十二月に王政復古。十六歳の新しい天皇(明治天皇)のもとで、なし崩し的に長州藩は復権を果たし、薩摩藩と共に新政権の一翼を担う。一方、旧将軍徳川慶喜は新政権から排除され、「朝敵」となった。一夜にして、官賊が逆転したのだ。

明治元年(一八六八)一月、京都郊外の鳥羽・伏見で戊辰戦争が勃発する。以後、一年半にわたり戦火は関東から東北、蝦夷(北海道)まで拡がってゆく。この戦いで旧幕勢力は根絶し、新政権の基盤が盤石となった。

戊辰戦争で奇兵隊はじめ長州の諸隊は、最前線に立ち戦った。そして勝利の栄光を胸に、続々と凱旋して来る。その数は五千を越えたという。兵士たちには、新時代を築いたのは自分たちとの自負が当然あったはずだ。

ところがである。戦争が終わったため、諸隊は藩にとって不要の軍事力と化してゆく。そこで藩は明治二年十一月、二千人ほどを常備軍として残し、残りは解散させると発表する。

しかし論功行賞も不十分だった。常備軍への選抜も武士が優遇されるなど、身分による不公平があったという。新時代が訪れるや、藩は容赦なく民衆的要素の排除に乗り出したのだ。晋作が残した矛盾が、ここに来て再燃した。

憤慨した奇兵隊の兵士らは、反乱を起こす。いわゆる「脱隊騒動」である。脱隊兵一千八百のうち一千三百は、農民・商人だったという。兵士たちの脳裏には、慶応のころ、武力を背景に藩論を動かした記憶が甦ったのかも知れない。

だが、用済みとなった兵士たちに、藩は容赦しなかった。兵士たちに「賊」の烙印を押し、徹底的に武力で鎮圧してゆく。そして明治三年から四年にかけ、投降したり、捕らえられた反乱首謀者たちは厳罰に処された。刑死者だけでも百名を越えるという大惨劇だ。

刑場に引きずり出されたある兵士は、納得がゆかなかったのだろう。大声で叫び、暴れまわったという。役人たちは鉄棒で打ちのめし、ぐったりとなった兵士の首を斬った。そして首級は、晒された。このようにして奇兵隊の血みどろの歴史に、幕が下ろされてゆく(拙著『長州奇兵隊』)。

十年ほど前、私は山口県から依頼され、県外向け広報紙に晋作と奇兵隊について、一文を書いたことがある。そのさい「脱隊騒動」に触れたところ、掲載誌ではその部分がカットされてしまった。明治維新は、おびただしい犠牲の歴史という一面も確かにあるのだが、行政のこうした姿勢は残念だ。

最近、近所の中学校で二年生を相手に歴史の講話をしたさい、最後にほんの少し「脱隊騒動」に触れた。後日、寄せられた子供たちの感想の大半は、「脱隊騒動」に衝撃を受けたというものだった。奇兵隊の歴史は、栄光の美談としてのみ教えられているのだ。

晋作が四民平等を唱え、「人民軍」の奇兵隊を組織したといった、政治的イデオロギーに彩られた、噴飯ものの評価を信じている者がいまだにいて呆れる。管首相もそんな郷土学習で育ったのではないかと、ふと思った。

春風文庫

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