松方弘樹と映画と萩

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 俳優の松方弘樹さんには、ずっと以前から会いたかった。萩市の見島にマグロ釣りに来るとの噂は耳にしていたものの、機会はなかなか訪れなかった。

 それが実現したのは、平成二十七年三月二十八日のこと。場所は萩市ではなく、愛知県名古屋市だ。テレビ愛知の討論番組「激論コロシアム」の坂本龍馬の回に出演することになり、企画書を見たら共演者の中に「松方弘樹」の名があり驚いた。そこで松方さんに収録前に時間をとっていただき、話が出来ぬものかとスタッフにお願いをした。

 なぜ、かくまでして松方さんに会いたかったのかといえば、僕が中学生以来、人生の「バイブル」としている深作欣二(故人)・中島貞夫監督の東映映画に、松方さんが多数出演しているからである。松方さんが一貫して演じたのは、強い力にも屈しない男。その教えは、僕の中で血となり肉となっている。特に深作監督については、前々から一冊書きたいと思っているから(なかなか実現しないが)、とにかく話を聞きたかった。

 すると、松方さんはこころよく会ってくれた。テレビ愛知の一室、テーブルの向こう数十センチを隔て、当年七十二の「松方弘樹」が座っている。僕は緊張ぎみに自己紹介したあと、まずは深作監督「仁義なき戦い」のお話から聞くことにした。戦後の広島やくざ抗争を描く「仁義なき戦い」五部作(昭和四十八~四十九年)中、松方さんは一・四・五作に役名を変え、出演している。しかも、それぞれに強烈な印象を残す。

「あれは一作目の坂井の哲っちゃんの役以外は、大した役じゃないのよ。四作目も五作目も台本読んだら、出番も少ないし。だから、いろいろと自分なりに工夫をしたんだ」

 特に五作目の時は下の瞼に朱を入れるという独特のメークで、「市岡輝吉」という凶暴なやくざを演じたのだという。その結果、大した役じゃなかったはずが、物凄いインパクトを観客に与えることに。僕も初めて観た時、その不気味な演技がしばらく頭から離れなかった。朱の話は有名だが、本人の口から直接聞けるとは感激だ。

 では、それは誰の案なのか。松方さんは、自分のアイディアだと強調された。

「作さん(深作監督)は、何でも聞いてくれたね。『こんなのどうですか』と言うと、すぐ『面白い!やってみよう』となる」

 松方さんにとり、思い出深い深作作品は「柳生一族の陰謀」(昭和五十三年)のようだ。この映画で松方さんは、徳川家光役を演じている。有能だが両親から疎まれ、周囲からも理解されない家光を、柳生但馬守(萬屋錦之介)や十兵衛(千葉真一)が数々の陰謀を巡らせ、三代将軍の座に据える物語。家光の役作りを、松方さんは工夫したという。

「作さんに、家光を吃音にしようと提案したの。そしたら、よし!やろうって即なった。顔の半分に大きなアザをつくりましょうと提案したら、それもすんなり通った」

 かくして、アクの強い毒々しい家光像が出来上がる。深作欣二は、とにかく俳優の出すアイディアをよく聞いてくれる監督だったと、松方さんは繰り返す。また、「柳生一族の陰謀」は徹底したリアリズムを追う深作と、歌舞伎の伝統を残そうとする錦之介が、現場で対立を繰り返したことでも知られる。

「ラストシーンで、錦兄イが『夢じゃ!夢じゃ!夢でござ~る』と大見得切って、ワンカットで芝居をした。ところが、作さんが納得しない。後日撮り直すというので、俺も見に行ったんだ。すると錦兄イは『夢じゃ…夢じゃ…夢でござる…』と、わざとボソボソとやる気なさそうに台詞をしゃべる。何度やっても同じ。とうとう作さんも諦めちゃった」

 数々の名作が、そのような自由な空気の中から生まれたことは感慨深い。松方さんの物まねしながらの話しぶりに、引き込まれてしまった。

(2)

 僕はコレクションの中から、松方さんが出演した深作監督映画の台本を二冊持参し、サインをくださいとお願いした。一冊目は「県警対組織暴力」(昭和五十年)。松方さんは開口一番、「これはホン(台本)が面白かった!」。笠原和夫の完成度の高すぎる台本にほれ込み、出演したとのこと。

 二冊目の「北陸代理戦争」(昭和五十二年)を出すと、ちょっと顔が曇ったように見えた。松方さんが演じた役のモデルになった暴力団組長が映画公開直後、殺されたという曰くつきの作品だ。事件が起こった喫茶店の名を、松方さんはぽつりと口にした。やはり、強烈な記憶になっているらしい。

「他にも中島貞雄監督の『広島脱獄殺人囚』『暴動島根刑務所』『大阪電撃作戦』『沖縄やくざ戦争』など大好きで、何度観たかわからないくらい。へこんだ時、松方さんが演じた不屈の闘志の男を見ると、勇気づけられましたよ。僕の世代が、こうした作品を場末の映画館で観た最後の世代でしょうね。いまのシネコンなら、タイトルだけで上映出来そうにないですが」

 僕は松方さんに、三十年分以上の感謝の思いを伝えたかった。松方さんはニヤニヤしながら「三本立てだろ、三本立てだろ」なんて言って聞いてくれた。他にも菅原文太・梅宮辰夫さんとの交流など色々うかがったが、紙数の都合があるから、これ以上は書かない。

 萩市と松方さんの話に、移ろう。松方さんが日本海に浮かぶ見島に、たびたびマグロ釣りに来ていること、そして三〇〇キロ級の大物を釣り上げていることは、テレビで何回も紹介されている。定宿の旅館もあるようだ。そんな縁があり、平成二十五年に「萩ふるさと大使」に就任された。僕がおちゃらけて「ありがとうございます」と言うと、「野村市長は強引だからね」と、ケラケラと楽しそうに笑っていた。市長から直接頼まれ、断れなかったらしい。同世代だから、共鳴するものがあるのかも知れない。ともかく、すごく良い人だ。

 それにつき、思い出したことがある。僕が「萩博物館特別学芸員」に就任した、十二年前のこと。以前からお世話になっている女優の根岸季衣さんから、手紙をいただいたことがある。その中に、「この前松方さんとドラマで夫婦役で共演したのですが、松方さんが見島から帰ったばかりで、萩の話で盛り上がりました」という意味の一節があったのだ。ふるさと大使に就任するずっと以前から、松方さんは行く先々で萩のことを、話題にしていたのである。

 残念ながら僕はマグロ釣りのことは、よく分からない。だから日露戦争時、日本海海戦で見島にロシア兵が漂着した話をすると、松方さんはご存じだった。海岸に建つ、ロシア兵の石碑を見に行ったこともあるという。ただ、何年か前から海流が変わってマグロが釣れなくなり、最近見島はご無沙汰らしい。

 一時間近くお話しをしていたら、そろそろ時間が迫っていると、テレビ局のスタッフが知らせに来た。僕が「また、お話をうかがいに行ってよろしいですか」と尋ねると、松方さんは、あの渋い声で「いつでもおいで」と言ってくれた。それから番組の収録があり、僕は松方さんの隣の席で、いろいろと「坂本龍馬」について話して、最後はテレビ局の玄関で握手をしてお別れをした。

 半世紀にわたり、映画の世界にどっぷりと浸って来た松方さんから放たれる「昭和のスター」らしいオーラは、圧巻だ。興味深い話は、無尽蔵のようにも思えた。また、お目にかかり、ひとつでも多くの話を記録し、「歴史」に刻みたいと思った。

 ところが今年二月、松方さんが脳腫瘍で倒れたとのニュースが報じられた。あとから聞けば、萩市ゆかりの映画への出演も内定していたらしい。ありきたりな言い方しか出来ないが、一日も早い回復を祈ってやまない。

  (「はぎ時事新聞」平成28年7月8日・22日)

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