龍馬の知恵 (「産経新聞・九州山口」22年9月16日)

慶応3年(1867)10月15日、大政奉還が勅許されたが、ただちに明治新政府が誕生したわけではない。朝廷の命で大名たちが招集され、会議を開き新国家の形が決まるはずだった。それまでは内政・外政とも、将軍徳川慶喜が担当するのである。時代は公議政体へと動き始めた。

そこで坂本龍馬は、理想とする新政権の姿を八条に分けて記し、回覧させた。いわゆる「新政府綱領八策」だ。人材を登用し、外国と交際し、法律を定め、二院制議会をもち、海陸軍・親兵を設置し、為替レートを導入する。それは、近代国家の青写真だった。

龍馬は大名による最初の議会に、この八策を提案しようとする。では、新政権運営のトップは誰か。不思議なことに龍馬は「○○○」と伏せ字にする。3文字だから「慶喜公」とか推察されるが、私は3文字にそれほど意味があったとは思わない。

八策こそが重要で、それを実行に移してくれるトップなら、龍馬は誰でも良かったのではないか。具体名を入れると、八策がどんなに素晴らしくても、敵対勢力は反対するだろう。現代なら「自民党」と入れたら、「民主党」は是が非でも反対に回るようなものだ。逆もまたしかり。伏せ字は、政治家龍馬の最大の知恵だと私は見る。この知恵こそが、政治家が龍馬に最も見習うべき点だ。いまの政治家は、まず自分の名前をそこに入れて醜い争いを繰り広げている。

ただ、龍馬の願った最初の議会は開かれなかった。慶喜が新政権のトップに座る可能性が高まったため、武力討幕派は12月9日、「王政復古」の大号令で約束を反故にし、強引に慶喜を引きずり下ろし、新政権をスタートさせたからだ。慶喜側の怒りは翌年1月、戊辰戦争で火を噴くこととなる。しかし龍馬は11月15日、京都で暗殺されて、この世にはなかった。

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