晋作と鶴田陶司 (「晋作ノート 15」平成二十一年五月)
最近市場に出た高杉晋作詩書を、個人で購入した。
その本紙は縦一二五センチ、横二七センチと、晋作遺墨にしては大きい。わたしのこれまでの経験からすると、こうしたサイズの晋作遺墨は、めったに市場には出て来ない。筆跡も同時期のものと考えられる萩市松陰神社蔵の詩書(『高杉晋作史料』二巻、揮毫23)などに通じる点があり、なかなかいい。以前は軸装されていたようだが、額装に変わっている。このため掛けっぱなしにされたのか、表面の焼けが気になる。いずれ、改装しなければならないと思う。
「志士憂世涙 臨別更潜々
元期斃而巳 埋骨定河山
馬関客次送、鶴田陶司君 高杉東行」
とある。この詩は、『高杉晋作史料』などには収められていないが、ストレートな、分かりやすい詩だと思う。
馬関(下関)において、晋作からこの詩書を与えられた鶴田陶司とは、久留米藩の人物である。
文久三年(一八六三)五月の終わり、久留米藩で政争に敗れて投獄中の真木和泉ら攘夷派十六名(二十八名説あり)を、長州藩が勅書を得て救ったことがある。長州藩は久留米藩の要請により、真木らを引き取った。
鶴田陶司孝良は、そのうちの一人である。
久留米藩医鶴田道全の次男で、真木和泉に師事して尊攘運動に身を投じた。文久二年二月十八日に脱藩して大坂に至り、挙兵計画に参加するが、四月の寺田屋事変で頓挫。捕らえられ、大坂の藩邸で七十日閉居に処されたのち、久留米の自宅に送り返されて幽閉された。文久三年二月に赦され、親兵として上京を命じられたが、藩論一変し、四月には再び幽囚されたころを、長州藩に助けられたのである(筑後史談会『西海忠士小伝』昭和十三年)。
鶴田は六月三日、真木菊四郎(和泉の息子)らと長州藩の使節国司信濃に従って久留米を発ち(宇高浩『真木和泉守』昭和九年)、ひとまず長州馬関に向かう。前月十日より長州藩は、関門海峡で攘夷を断行していた。
そこで鶴田は晋作に会い、この詩書を与えられたのだろう。晋作も六月六日、君命を受けて馬関に来て、奇兵隊を結成したばかりだった。ちなみに鶴田は、天保十一年(一八四〇)生まれだから、晋作より一ツ年少の二十四歳である。
長州藩は、久留米藩から預かった鶴田たちを親兵として朝廷に差し出す。そのため禁裏守衛の任を受けた鶴田は、馬関から京都に向かう。
鶴田の師である真木は、長州藩に大和行幸を進言した。孝明天皇を大和の春日社や神武天皇陵に参拝させ、攘夷親征の軍議を開くという計画だ。
京都入りした鶴田は同志と共に、大和行幸の先鋒として、攘夷派公卿の中山忠光を首領に据え、大和五條で天誅組を挙兵する。ところが八月十八日、御所内で政変が起こり、長州藩をはじめとする攘夷派は失脚し、大和行幸も事実上中止となった。
このため孤立した天誅組は、幕府方の追討軍を相手に吉野山中で苦戦を続け、鷲家口で壊滅する。鶴田は捕らえられ、元治元年(一八六四)二月十六日(七月二十八日とも)、京都六角牢で斬られた。二十五歳。辞世は、「戦ひの花を散らして今よりはよみ路の月を見るべかりけり」である。
まさか鶴田は、天誅組の陣中や京都の獄中にまで、晋作詩書を持参したとは思えない。おそらくは京都で誰かに預けたか、進呈したと思われる。だからこそ、いまに残っているのだろう。土佐脱藩で維新の元勲となった田中光顕の所持していた晋作詩書には、次のような逸話がある。
幕末、田中は長州で晋作に詩書を貰った。それは、晋作が読書中だった王陽明著作に出ていた詩の写しである。当時、すでに晋作の書というのは、同志たちの間で価値が高かったらしい。慶応三年(一八六七)十月ころと見られる田中の父あて書簡にも、「長防にて先生(晋作)の書一字一行といへども大切につかまつり候くらいの事にござ候」(熊沢一衛『青山余影』大正十三年)とある。
田中は明治元年(一八六八)一月、挙兵のため京都から高野山に赴くが、そのさい晋作から貰った詩書を、「岩倉家の家臣のもと」に預けた。維新後、田中はその返却を求めたが、どさくさに紛れて紛失したと言われてしまう。しかしずっとのち、岩倉家からそれが見つかって返してもらったのだと、田中自身が『維新風雲回顧録』(昭和三年)の中で述べている。ちなみにこの晋作詩書は、田中から皇室に献上されて御物となり、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する。
鶴田に与えられた晋作詩書にも、何らからのドラマがあったに違いないと、実物を眼前にしてあれこれと考えている。
ただ、いずれにせよ詩の内容そのままに、晋作も、鶴田も二十代の若さで生命を散らせ、新しい時代をその目で見ることは無かったことだけは確かだ。
0コメント