晋作と唐津人 (「春風雑録」二号、平成十八年十月)

(1)

高杉晋作は万延元年(一八六〇)八月二十八日、江戸から北関東、信濃、北陸方面へ遊歴の旅に出る。

これを、晋作は「試撃行」と名付けた。

『試撃行日譜』によれば初日、江戸桜田の上屋敷を発った晋作は、見送りの者たちと浅草で別宴を張った。そして小塚原で吉田松陰の墓に参った後、千住で見送りの者たちと別れる。千住からは常州道に入り、その日は新宿(にいじゅく)宿に泊まった。

日譜によると、見送りの者は「唐津藩大野又七郎、同藩(長州藩)桂小五郎・久坂玄瑞・楢崎弥八郎・南亀五郎・三浦音祐」で、「皆予、平生の真の知己なり」という。

この中で唯一の他藩人である大野又七郎は、安政五年(一八五八)十一月から六年十月にかけて、晋作が江戸昌平坂学問所に在籍して以来の学友だ。昌平坂学問所は幕府が旗本子弟のために設けた最高学府だが、幕末になると諸国の優秀な人材の入学も許していた。

高杉家史料中の『東行自筆遺稿』は、昌平坂学問所時代の詩文草稿を製本したものである。晋作はこれを学友に回覧して批評を受けたが、大野は「宗」(諱は興宗)の署名で「不用之作」「前半有法後半疏漏」など、忌憚ない意見を書き込んでいる。

なお、「宗」が大野であると後年になり特定したのは、同じ時期、昌平坂学問所に在籍していた薩摩藩出身の歴史学者重野安つぐである。重野は「宗 唐津 大野右仲(又七郎) 今警部長カ 生」と注記している(『高杉晋作史料』二巻)。

他に晋作が文久元年(一八六一)、江戸で藩主世子の小姓役として勤務したさいの『初番手行日誌』にも、「唐津藩大野又七郎居所」云々とある。あるいは文久三年に晋作が作ったと思われる他藩士交友録『観光録』にも「唐津、大野又七郎」の名が見える。

大野は天保九年(一八三八)十二月八日生まれというから、晋作より一歳年長だ。

(2)

大野の仕えた唐津藩小笠原家(六万石)は譜代で、現在の佐賀県唐津市を本拠とする。世子の小笠原長行が幕政に参加して、若年寄、老中などの要職を歴任した。

さらに長行は、慶応元年(一八六五)には長州藩処分の全権を委任されるも、広島における長州藩との交渉は決裂。翌二年、第二次幕長戦争(四境戦争)が勃発して、長行は小倉に集結した九州方面の征長軍軍司令官となり、指揮を執る。

一方、この方面の長州軍の指揮を執ったのは晋作だ。晋作は長行に次のような漢詩を送り、挑発している。

聞く、小笠原台州小倉に到る、

遥かに小詩を賦し、これを寄せる

相対して屹然たること已に一年

両軍未だ烽煙の起こるを見ず

言を寄す上国の名閣老

早く合に玉を抛ち鉄鞭を提ぐべし

そして晋作は、奇兵隊や報国隊など約一千の軍勢を指揮し、奇襲戦法によって征長軍を追い詰めてゆく。征長軍に加わった唐津藩兵の中に大野がいたか否かは、いまのところ私には分からない。

将軍家茂が大坂城で没したと知るや、長行は長崎に逃れ、小倉城は落ちて戦いは長州軍の勝利で幕を閉じる。しかし晋作は結核のため、翌三年四月、不帰の人となった。

戊辰戦争で唐津藩は、新政府軍に加わった。朝廷に軍艦用燃料の石炭五百万斤を献納するなど、ひたすら忠誠を誓って生き残ろうとする。

ところが、長行と一部の藩士は旧幕軍に身を投じ、蝦夷箱館に走って五稜郭に立て籠もってしまう。

その中に、大野がいた。

明治元年(一八六八)四月二十九日、大野は会津七日町の清水屋に新選組の土方歳三を訪れ、共鳴する。のち仙台で同志二十三人と新選組に加わり頭取、箱館渡航後は陸軍奉行添役となった。二股口で奮戦し、土方最後の出陣にも随行するが敗走、降伏して謹慎の身となる。

維新後は豊岡県権参事、千葉県准判任用御用掛、長野・秋田・青森等の県警部長、東松浦郡長などを務めたというから、恵まれた生涯を送ったようだ。明治四十四年六月十一日、東京芝の田町で七十四歳の生涯を閉じた(新人物往来社『新選組のすべて』)。墓は東京都台東区谷中の天王寺墓地に現存する。

晋作が「真の知己」とした男が数年後、新選組頭取の肩書を得るところに、幕末という時代の残酷で複雑な一面を感じずにはいられない。それぞれが高い志を持ち、信じる道を突き進んだ結果であろう。

確かに存在した二人の交友だが、佐幕を「悪」、討幕を「正義」と単純に色分けする維新史の中では、忘れ去られたのも当然と言える。

(「晋作ノート」八号、平成十八年八月)

(3)

唐津と聞けば、「奥村五百子」の名を思い出す。城下高徳寺(東本願寺派)の娘で、日清・日露戦争では戦地に赴き、朝鮮の独立運動に関わり、愛国婦人会を創立した「女傑」だ。明治四十年(一九〇七)二月七日、京都で没した。唐津城の公園には、現在も五百子の銅像が立つ。

二十歳の元治元年(一八六四)一月、勤王家だった父了寛の意を受けた五百子は長州藩に向けて旅立つ。

昭和九年(一九三四)に愛国婦人会から初版が出た小野賢一郎『奥村五百子』という講談調の伝記がある。戦前は版を重ね、広く、熱心に読まれたようで、私の蔵書は「昭和十一年二月廿五日十三版発行」と奥付にある。

これによれば、長州藩家老宍戸家の夫人が五百子の叔母にあたるという。また、八月五日には下関で高杉晋作と出会い、意気投合したともいう。その対面の場の一部を、次に引用する。

「高杉さん。」

「わたしは高杉晋作、あなたは誰だ。」

「唐津の奥村了寛の娘五百です。あなたと父とは千里相離れて、心魂相通ずる仲と聞いて来ました」

「その奥村の娘が、何で戦争の中へやって来た」

「父の、あなたへの手紙を持参しました」

「―すること為すこと失敗だらけ、京都を追はれ、紅毛人に耻かしめられる。幕府は長州征伐とぬかして、防長の天地は無惨!同志は空しく斃れるばかりぢゃ。…この敗残のわしを、あんたは耻かしめに来たのか。」

「泣きに来たのです、高杉さん。あなたと一緒に、泣きたくて来たのです。」 「なに?泣きに来た?」

「えゝ、泣きに!」

「はツはツは…な、な、なきに来た、ば、ば、馬鹿なツ。」

高杉は泣き笑ひに感激を現したのでした。五百子の手をとって、「ば、ば、馬鹿なッ。」と言ひつゝ、堅く握りました。

熱血児高杉春風と、奥村五百子の初対面は、かくも劇的に終始しました。

この日、四カ国連合艦隊の下関砲撃が開始されたが、晋作はまだ下関にはいない。だから、こうした場面は史実としてはありえないだろう。

たとえ別の場所、別の日であったとしても、管見の史料中に「奥村了寛」「奥村五百子」と晋作を結び付けるものは見当たらない。「心魂相通ずる仲」とは到底思えないのだ。

いつの時代も、あらゆる形で「晋作」は祭り上げられ、無責任に利用される。

たとえば戦時中、晋作は軍国主義の先覚者だった。昭和七年(一九三二)生まれの曾孫勝氏は、終戦時、「これでわが先祖も歴史から消えるな」と思ったそうである。

地下の晋作も、さぞ迷惑な思いをしていることだろう。

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