晋作坊 (「晋作ノート」12号、平成19年8月)
晋作お坊ちゃんの肝っ玉
(1)
今夏、九州長崎の骨董屋にあった高杉晋作遺墨(詩書)を入手した。この遺墨の存在は数年前(あるいはそれ以前かも)に知ったが、その時は買えずじまいだった。それでも、何かの縁があったのだろう。交渉が成立し、わが家に届いた時は感激も一入だった。業者が言うには、明治三十一年に毛利家が手放した中のひとつ。それらが毛利家重臣の末裔に伝わったのだという。話の真偽は不明だが、晋作遺墨に限って言えば後述するように慶応元年(一八六五)閏五月から六月ころの筆跡と思われ、「これぞ真筆」である。
漢詩の内容は、次のとおりだ。
魚驚釣餌去 鳥見矢弓飛
反復人情事 我掌知此機
将浮游赤間関有此作
東洋一狂生東行
魚は釣餌に驚き去る
鳥は矢弓を見て飛ぶ
反復は人情の事
我が掌この機を知る
まさに赤間関に浮遊せんとし、この作あり
危機から逃れる魚や鳥を、強い者を見ると怯む人間にたとえる。反復(裏切り)は人の世の常であり、自分はそれを知ったのだという。事実、晋作は前年から苦難続きであった。
(2)
元治元年(一八六四)八月、晋作は四カ国連合艦隊との講和談判を進めたとして、反対派から命を狙われ、厚狭郡船木に潜伏したりした。さらに十一月、政権交代のすえ命を狙われ、九州に逃れた。
つづいて慶応元年(一八六五)前半、密かに下関開港を進めたら、またもや長府の反対派から追われ、四国に逃げた。この時は藩も手のひらを返したように晋作から外国応接掛の役職を奪い、トカゲの尻尾切りをやった。
晋作は萩の武家のひとり息子、「お坊ちゃん」である。二十三歳の文久元年(一八六一)三月に、若殿側近である世子小姓役として藩に出仕して以来、エリートコースを歩いて来た。文久三年(一八六三)十月に重役中の重役である奥番頭役に就いたのは、昨今の「サプライズ人事」以上だ。妬まれはしたようだが、地位や名誉に執着する必要もない身分なのだ。
だが、この一年足らずの間に晋作は人に裏切られ、世の汚い部分を随分と見た。四国から下関(赤間関)に帰り、その心境を託した詩ではないかと考えている。
晋作が「高杉晋作」たるゆえんは、ここからだ。病の床に潜り込んだり、不平を垂れて終わったりはしない。詩にもあるように「人間なんてそんなもんさ」とうそぶきながら、翌慶応二年、長州藩に攻め寄せた征長軍をさんざんに撃破し、結核のため二十九歳でこの世を去るのだ。晋作お坊ちゃん、お見事である。貫かねばならない信念が本物だったからこそ、ここまで強くなれたのだろう。
(3)
この晋作詩書は、管見ではこれまで自筆の無かった五言絶句で、その点が史料としてまず貴重だ。『東行遺稿』(明治二十年)には「偶成」の題で、結句が「分明知此機」になっている分が所収されている。同書の並べ方では「雲脚集」中に出ているように見えるが、高杉家蔵の自筆草稿「雲脚集」にこの詩はない。
詩書本紙は縦一七センチ、横三〇・五センチ。筆跡の全体的な雰囲気は、『高杉晋作史料』二巻(揮毫)所収「37 詩書(福岡藩士月形洗蔵に与えたもので月形家に現存する)」や「38 詩書(通化寺蔵)、訪游撃軍諸君即吟」などに通じるものがある。款記「東洋一狂生東行」も、その他の文字も同時期の晋作筆跡の特徴が良く出ている。
なおこの詩書は、松菊(木戸孝允)詩書扇面と並べて額装されていたが、表面の焼けが甚だしかった。旧蔵者が永年、掛け続けたようだ。特に松菊扇面は本紙に塗られいる本銀部分が酸化し、黒ずんでいる。
早速修復、改装を馴染みの表具店にお願いをし、晋作の方は掛け軸、木戸の方は額として甦った。夏の終わり、我が書斎の床の間を飾った後、現在は萩博物館で開催中の展覧会「長州男児の肝っ玉」で展示中である。
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