幕末長州の風林火山 (「晋作ノート」十一号、平成十九年五月)
幕末長州の風林火山
今年、平成十九年NHK大河ドラマの原作は、昭和三十年(一九五〇)に初版が出た井上靖『風林火山』だ。
戦国時代、甲斐を拠点に勢力を拡大する若き武将武田晴信(信玄)に軍師として仕えた、山本勘助が主人公である。謀殺した敵の娘でありながら、晴信の側室となる由布姫の複雑な思いなどが絡み、重厚な人間ドラマが展開される名作だ。
実はこの「風林火山」の登場人物たちは、幕末長州の歴史に意外な所でつながっている。
一、武田信玄と同族の晋作
高杉晋作は武田信玄の遠い親戚にあたる。高杉家紋は丸に四つ割菱だ。割菱は武田菱とも呼ばれ、武田の「田」の字の文様化だ。高杉家のルーツは武田氏で、割菱紋はその名残である。
武田氏は、清和源氏の流れをくむ。源義家の弟新羅三郎義光が甲斐源氏の祖で、その直系が信玄だ。承久三年(一二二一)の承久の変で功績のあった武田信光が安芸国の守護を命ぜられ、のち一族の中から安芸に移り住む者が出た。これが安芸武田氏だ。
戦国時代、安芸の武田元繁は尼子に属し、大内方の元就と戦って敗れる。元繁の子は元就に仕え、在所の地名にちなみ「高杉」を名乗った。これが初代の高杉小四郎春時である。小四郎を元繁の子とするには疑問視するむきもあるが、いずれにせよ何らかの縁続きだった可能性は否定出来ない。
晋作は小四郎から数えて、十一代目の子孫となる。信玄軍記『甲陽軍鑑』は江戸時代武士たちの愛読書だった。川中島の信玄・謙信一騎打ちは、数多くの錦絵や絵馬等の題材になっている。それらを見聞する時、晋作はみずからの体内に流れる同じ血を意識し、誇りに思ったであろう。
あるいは慶応二年(一八六六)、晋作が指揮する長州軍と干戈を交える小倉藩小笠原家の先祖は深志を称し、戦国時代は信濃の豪族だった。だが、信玄に追われ、のち徳川家康に従う。
そうなると幕末の「小倉戦争」は、三百年の時空を越えた武田対小笠原のの延長戦とも思えて来る。晋作は意識していたであろうか。
二、勘助の弟子が吉田松陰
兵学者の山鹿家は平戸藩松浦家に招かれ、家老格の地位を与えられていた。晋作の師となる吉田松陰は二十一歳の時、平戸に赴き、山鹿素行の末裔山鹿万介に入門する。
そのさい、嘉永三年(一八五〇)九月二十二日付で、松陰が万介に提出した「山鹿流兵学入門起請文」がある。学んだ秘密を、他にもらさぬと誓った血判付きの書面だ。その第一条には、「山本勘介流兵学並びに城築縄張一切御相伝の趣、他見他言仕る間敷く候事」(『松陰全集』普及版十一)とある。
松陰が学んだ山鹿流は元来、山本勘助の兵法と伝えられ、かつては「山本勘助流」と呼ばれた。その後、甲州流・小幡流と呼ばれ、山鹿素行を経て「山鹿流」となる。松陰が「山本勘介(助)流」と呼ぶのは、そのためだ。つまり松陰は、勘助門下ということになる。
ちなみにこの松陰起請文の実物は、現在山鹿家史料を納めた平戸で見ることが出来る。平成十七年、萩博物館が「吉田松陰とスチーブンソン」展を開催したさい、借りて来て展示した。
三、毛利家に仕えた勘助子孫
山本勘助は『甲陽軍鑑』の作者が創作した、架空の人物とみなされた時期がある。が、昭和四十四年に発見された信玄書状中に、使者として「山本菅助」の名があり、実在は確認された。
にもかかわらず勘助の実像については、まだまだ謎が多い。その子孫を名乗る家が、毛利家に仕えている。
長州藩(萩藩)内の諸家に伝わる古文書を集めた『萩藩閥閲録』の「遺漏」に、三隅下村(現在の長門市)の百姓山本源兵衛が享和元年(一八〇一)六月、藩に提出した「山本家言伝之覚」が収められている。
それによると、山本家は「元甲州武田の臣山本勘介之後胤と云う、已後郷士となり、代隔元就公御代御当家へ附属し、安芸より御供して御側近く召し出され、御家来となり」とある。
毛利家はその後、関ヶ原合戦に敗れ、安芸広島を追われ、長州萩に封じ込められた。山本家も主家に従ったが、初代藩主秀就の代に、くじ引きにより庶民に格下げが決まってしまう。こうして、山本家は「前大津久原村大庄屋」を任ぜられた
かつては「山本勘助伝来の守刀」も所持していたが、洪水のため流出したという。勘助の紋は「丸の内に山の字」と伝わるともいう。
なお幕末の当主は山本惣右衛門長男の七右衛門で、天保九年(一八三八)十一月二十一日に生まれ、明治三十七年(一九〇四)十二月二十日、六十七歳で三隅において病没している(『防長維新関係者要覧』)。
四、奇兵隊士山本勘助
文久三年(一八六三)六月、高杉晋作は君命により下関で奇兵隊を結成。『奇兵隊日記』によると、創立当初のメンバーに「山本勘助(介)」がいた。萩の人で、角石陣屋に詰めたり、下関や北九州の探索に赴いたり、招魂場開墾の作事掛や輜重掛を務めたりと、隊内で重きをなしたことがうかがえる。
ところが『日記』では元治元年(一八六四)八月ころから、足跡が途絶える。慶応元年(一八六五)二月の『奇兵隊人数附』にも、その名は見えない。後年編まれた『長藩奇兵隊名鑑』にも名は無い。戦死者にも、除隊者にも名が無いから、あるいは途中で改名して在籍したのかも知れない。
この人物が、信玄の軍師と関係があるのか否かは、現在のところ私には分からない。単なる同姓同名かも知れないが、捨てるには惜しい情報なので、書き留めておく。
五、毛利から武田の家臣へ
信玄の二十四将の中に、山県三郎兵衛(昌景)がいる。歴戦の勇士だが、信玄に殉じるかのごとく、天正三年(一五七五)、長篠合戦で討ち死にした。黒澤明監督の映画「影武者」で信玄に遠慮なく意見を吐く、大滝秀治扮する老将をご記憶の方もいるだろう。
山県は武田の世臣ではないという説がある。安芸出身で、毛利の家臣山県重房の弟だというのだ。継母との不仲が原因で、叔父(母の弟)の飯富兵部を頼り甲斐に行き、武田に仕えたという(岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』)。
なお山県の兄の系統はそのまま毛利に仕え、長州・萩藩士となる。同家に伝わったという山県あて信玄書状二通(一通は「此御書不審」の添え書きあり)が、『萩藩閥閲録・遺漏』に収められている。
ただし管見の範囲では、甲州武田側の史料に、山県三郎兵衛がもと毛利の家臣だったといった記述は無い。あるいは、単なる伝承かも知れない。その可能性が高い気もする。
しかしたとえ伝承でも、それが生まれた背景は興味深い。江戸時代、長州武士の間で、信玄の物語が憧憬の念を持ち語られていた証しにはなろう。
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