忘れられた男 (『晋作ノート』十号、平成十九年二月)
忘れられた男
永年史料を収集していると、不思議な縁に驚かされる事がある。まったく別々の経緯から手に入った二点が、思わぬ関連性を持っていたりするのだ。今回はそんな一例を、紹介したい。
一、山縣狂介の手紙
十年ほど前「長州志士尺牘巻」と箱書きのある、巻物を購入した。木戸孝允を筆頭に、広沢真臣や前原一誠・中村九郎・久坂玄瑞など、幕末維新期に活躍した長州藩関係者九人の遺墨十点が貼り交ぜられている
その中に、戊辰戦争最中の山縣狂介(有朋)書簡が入っていた。明治元年(慶応四年、一八六八)六月十二日、奇兵隊幹部の湯浅祥之助にあてたもので、すでに『公爵山縣有朋伝』上巻(昭和八年)一〇五六頁以下に全文が活字で紹介されている。
『山縣伝』によれば、同年六月十一日、長州藩の藤村禄平という男が、奥羽鎮撫副総督沢為量と参謀大山格之助・桂太郎の手紙を携え、秋田から潜行して越後出雲崎の山縣を訪ねて来た。
藤村は能代の巨商清水九郎兵衛の努力により、船頭に変装して竜王丸(讃岐三本松の船頭伝吉所有の汽船)という船に乗り、奥羽を脱出。ようやく越後に到着したのだという。
藤村は山縣に、奥羽地方における味方の苦境を訴える。
会津藩を救おうとする奥羽列藩同盟が締結されたため、現地に在った新政府軍は危機に陥っていた。そこで副総督の沢らは、盛岡・箱館を経て京都に帰るとの名目で九死に一を得、仙台を脱出。新政府軍に味方する秋田藩に逃げ込む。そして随行する薩摩・長州の兵と共に、秋田藩が領する能代港に駐屯したのだ。
ところがすでに、弾薬や軍資金が底をつきかけていた。そんなおり山縣ら味方の軍勢が、越後に進入したと聞く。そこで藤村を使者とし、援助を乞うたのだった。
二、山縣のとった行動
事情を理解した山縣は急使を柏崎に走らせ、湯浅祥一郎に軍資金の調達を命じた(私が入手したのは、この時の手紙の現物である)。
手紙では時候の挨拶に続き、前日藤村がやって来た旨が次のように述べられている。
「昨日急に出雲崎罷り越し候。折柄、奥羽藤村禄平猟子に変じ、沢殿よりの御書簡等持参、奥羽之形勢逐一承り候処、実に以て必死の場合に立ち至り候よし、当地より揚陸、直ぐさま江戸表え罷り越し申し候」
そうして山縣は、とりあえず軍資金の中から二千金を送って欲しいと、湯浅に依頼する。また「久保田(秋田藩)は漸く勤王論に化し候よし、其の他は総じて賊に組みし申し候」と、苦しい状況であるとも知らせている。
結局、山縣の臨機応変の対応により、軍資金一千五百両と弾薬一万五千発が能代の桂太郎のもとに届けられた。
これを機に、奥羽の新政府軍は盛り返してゆく。「桂は深く公(山縣)の努力に感謝した」と、『山縣伝』はしめくくる。
ちなみに湯浅は官吏となるも、明治五年に起こった山城屋和助事件に連座して失脚。明治二十八年八月十八日没した。文官として戊辰戦争に従軍した湯浅は、公私にわたる文書を持ち帰ったようで、その一部と思われる史料が、現在でも市場に出ることがある。
三、藤村禄平の錦絵
山縣の手紙によれば、使者藤村は出雲崎を発ち、ただちに江戸へと向かった。さらに京都まで赴き、奥羽の情勢を報告するのだという。
京都まで行ったか否か、私には分からぬが、東京まではたどり着いたらしい。その功績により藤村は恩賞を受け、「英雄」になっているのだ。
それを裏付ける史料も後日、私は入手することになる。明治元年当時に出た「藤村禄平」の錦絵だ。
『当世武勇伝』と銘打たれた「官軍」の勇姿を描いた錦絵が、「川伝」なる版元から、管見の範囲では四十余点が出ている。現代で言えばタレントのプロマイドだろう。あるいは庶民にとっては、週刊誌的な情報源だったのかも知れない。
藤村のはその中の一枚だ。作者の花陽楼国員は、大阪で活躍した一珠斎国員(生没年不詳)と同一人物とされる。錦絵の中の藤村はシャツを着、派手な脚半を履き、刀を構える。和洋折衷、時代の過渡期を感じさせるスタイルだ。周囲には狼が二頭おり、藤村の旅が危険なものだったことを想像させる。
さらに錦絵には、次のような解説がある(文中「第四」とは慶応元年閏五月に編成された中間から成る隊で、桂太郎が率い奥羽方面に出征した)。
「長州毛利家の第四の隊中にて羽州庄内領にて比類なき働きをなし手疵を蒙り御総督より使者の役を命ぜられ賊中を切抜難行苦行をして東京へ着せし事、全く神国の応護故之此手柄にて御褒美を給りしは末世の鑑と申すべし」
錦絵まで出た藤村であるが、その後の足跡を私は知らない。一世紀以上を経た今日、その名は『近世防長人名辞典』『防長維新関係者要覧』などに出ていないため、知る術がないのだ。戦死者名簿にも名前は無いから、戦後の人生は存在したと思われる。おそらくは、市井に埋没したのだろう。
いつの時代でも戦争は、藤村のような一夜漬けの「英雄」を無責任に量産する。一瞬の栄光をバネに立身出世する者もいれば、勘違いのすえ身を持ち崩する者もいるだろう。山縣書簡と藤村の錦絵を、機会があれば並べて展示してみたいと考えている。
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