高杉晋作とその一族(6) (「東行庵だより」平成14年夏号)
1・武藤家と高杉家
長州藩士高杉小忠太には長男晋作の他に3人の娘がいた。上からタケ(武)・ハエ(栄)・ミツ(光)である。タケは同藩士武藤正明(留槌・又輔)へ嫁ぐが、この縁組を説明するには、少しばかり時間を逆上らねばならない。
武藤家は家禄280石、大組(八組・馬廻り)に属す。家伝では藤原秀郷の五男千常に始まるとされているが、江戸後期の当主武藤又左(右)衛門正順は跡継に恵まれなかった。
そこで高杉又兵衛の次男が養子として迎えられ、「武藤助四郎」を名乗る。ところが、高杉家の跡継ぎだった長男が若くして亡くなってしまう。武藤助四郎は再び実家に戻り、高杉を継ぐことになった(高杉氏略系)。この助四郎こそが高杉小忠太なのだ。
このため武藤家ではまたも養子が必要となった。そこで嘉永3年5月1日、長州藩士小沢一学の次男正明を養子として迎える。
さらに、この正明に嫁いでくるのが、小忠太の長女タケなのだ。かねてからの親密な関係から、再び武藤・高杉両家の縁組となったのだろう。
タケの容貌に関し、ご子孫方には次のような逸話が残されている。
婚礼の夜、2人だけになり、タケが綿帽子を取り外した時、あまりにもタケの顔が長かったのに驚いた正明は、「ギャー」と叫んで引っくり返り、そのまま遊郭へ走ったというのだ。かなり誇張された笑い話のようだが、たしかに残された晩年の写真を見ると、タケは兄晋作に似て面長である。
正明とタケが結婚した時期は定かではないが、万延元年(1860)1月に行われた晋作・マサの結婚に関する記録の中に、「武藤為(留)槌」「武藤御かもし様(タケのことだろう)
子供」の名が出てくるところを見ると、兄よりも先に結婚し子供をもうけていたようだ。
正明は天保5年(1834)2月生まれ。タケは天保12年5月1日生まれで、兄晋作と二歳違いだった。
また、萩で留守を守るマサが、下関出張中の晋作にあてた文久3年(1863)6月29日の手紙には、「武藤にも御安産相すみ、五もし様御たん生遊ばされ、御親子さまともに御折相よろしくござ候」とあり、この頃、タケが出産したことがうかがえる(ただし、これらの子供は育たなかったようで、明治になって作られた戸籍には記載が無い)。
タケの夫正明の人柄は謹厳実直だったという。幕末動乱の中では、自ら進んで危地に身を投じるような目立った動きは見られない。
義兄の晋作とは文久元年9月16日、江戸で酒を酌み交わした記録がある(「初番行日誌」)。また第二次幕長戦争(四境戦争)での軍政改革のさい、慶応2年6月20日に第二装条銃大隊二番中隊物頭を任ぜられ、芸州口で幕府軍と戦った。あるいは同年7月9日には足軽銃隊編成に功があったとして、萩の明倫館で世子より金十五両を賜った記録がある(『防長回天史』)。
義兄の晋作はあらためて述べるまでもなく戦いの最前線に立ち、慶応3年4月、29歳で病没した。晋作の葬儀や初度の法事等の記録にも、「武藤」の名が散見される。こうして正明とタケ夫婦は明治という新時代を迎えた。
2、鉄道官吏として
正明が正式に武藤の家督を継ぐのは、明治3年3月のことだ。さらに同家系図によると明治五年、三十九歳で山口を出、工務省に属す鉄道寮(明治十年、鉄道局と改称)に奉職した。鉄道畑を選んだのは、親戚の井上勝が鉄道頭だったことも無関係ではあるまい。日本の鉄道創業をリードした井上は、いまなお「鉄道の父」と称えられる男だ。
その井上が精魂を傾けた関西の鉄道は明治7年5月11日、大阪・神戸間の開通から始まった。
同日、大阪駅が開業したのだが、初代駅長の椅子に座るのが正明なのだ。ただし、いつまで在任したか大阪駅にも記録が無いようである。
国立公文館に残る明治13年の鉄道局の職員録には「山口県士族」「七等属」として「武藤正明」の名が出て来るという。大阪駅長を退いた後も鉄道官吏として各地を転勤し、明治26年に退官。36年3月14日に隠居届けを出して長男信平に家督を譲り、41年5月24日、東京原宿の自宅で75歳の生涯を閉じた。
3、タケの晩年
正明・タケ夫妻の長男信平(慶応元年8月27日生)は、父の勤務地の関係で、大阪の旧北野中学の前身を卒業している。
のち信平は井上馨の協力もありアメリカハーバード大学に留学し、帰国後は農商務省の官吏となった。明治31年5月、長野県東筑摩郡松本村の商家出身竹内武助の長女ますと結婚。37年頃から大正3年頃まで、大分県の官営牧場の責任者を務めたという。
正明没後、未亡人となったタケは実家である東京原宿の高杉家(宗家)で過ごす。同家は次男の鹿之丞が武藤から養子に入り、高杉の名を継いでいたから、タケとは二重の縁がある家だ。
また、大分県に赴任中だった信平の娘二人が大分県速見郡朝日村の小学校卒業後、この高杉家に寄宿して東京の学校に通っていた。タケはこの孫たちと、5年間起居を共にする。姉の敏子(明治33年生)は青山女学院、妹の梅子(同34年生)は実践女学院だったが、タケは「梅ちゃんは実践だから素敵だけど、敏ちゃんは青山だからね」ともらしたという。タケは下田歌子を尊敬しているようだった。
またタケは食事をいつも別室で一人済ませた。武家の出であることに高い誇りを持っていた女性で、孫を遊ばせることも少なかったという。
その後、信平が東京に戻って来たので、タケも武藤家に移った。大正5年に聴取された、高杉マサ(政子)のこんな談話がある(『日本及日本人』677号)。
「竹子は武藤に嫁しましたもので、唯今は青山原宿一七〇の一八号武藤氏方に暮してゐます。私より年上てございまして、近来だいぶ弱りました。この節眼が悪いとか申して、医者に通つてゐるさうでございます」
そしてタケは翌大正6年1月27日午前5時、武藤家で亡くなった。
時は流れて昭和55年11月、大阪駅創業100年の年。『朝日新聞』大阪本社社会部で「大阪駅物語」を取材中の記者は、永年忘れ去られていた初代駅長の面影を追ううち、晋作の義弟であったことを知る。そして、記者は当時78歳で千葉県鎌ケ谷市に健在だった信平次女で武藤を継いだ梅子を探して訪ね、その談話を紹介した。「武おばあさんは、高杉晋作の妹だけあって、しつけも非常に謹厳でした。正明おじいさんはやさしい人でお酒好き。大阪ではよく茶屋遊びもしていたそうですよ。出世にはむとんちゃくな人でした。人生を楽しむ人だったので、あまりえらくはなりませんでした」
先日、真っ盛りの桜並木を仰ぎつつ、東京都港区青山霊園にある武藤家の墓所に参った。思ったより小じんまりとした、現当主が建立した一族の合葬墓である。正面には「武藤家之墓」、裏面には「昭和四十四年四月 武藤正克建之」と銘記されるのみ。誇り高くもつつましく生きた、夫婦が眠るには相応しい気がした。
本稿執筆にあたっては、荒川捷氏(敏子の子)に資料提供など受けました。記して感謝の意を表します。
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