奇兵隊の植樹 (「東行庵だより」平成十四年冬号)

東行庵内には、新旧さまざまな石碑が建てられている。わりと早い時期のものと見られるのが、庵室の周囲五カ所にある高さ九十センチ程の角材型の石標である。いつ建てられたのかは、記録が無い。風化の状態などから見て、かなり古そうなことは確かだ。

それぞれ表面には「時山将軍手栽」「三好将軍手栽」「三浦将軍手栽」「福田将軍手栽」「鳥尾将軍手栽」と刻まれ、裏面は五基とも「明治戊辰之春」とある。これからすると明治元年(一八六八)春、奇兵隊幹部の植樹に添えられた石標であることが分かる。「将軍」という呼び方が、いかにも時代を感じさせる。石標が移動していないと前提すれば、四基のうち三基は木が失われ、石標を残すのみとなっている(鳥尾のはあきらかに後世に移動されている)。

一基目は庵の正面左手の「時山将軍手栽」。時山将軍とは明治元年五月十三日、越後朝日山で三十一歳で戦死した奇兵隊参謀時山直八のこと。四基のうち、これだけは傍らに木が立っている。立派な樫で、秋になると実ったドングリが辺りに落ちている。

二基目は時山の碑の前方十メートルほどに建つ「三好将軍手栽」。三好将軍とは奇兵隊参謀三好軍太郎(重臣)のこと。三好は維新後、西南戦争鎮圧などに功があり、陸軍中将に任じられ、子爵に列せられて明治三十三年十一月二十九日、六十一歳で東京において他界した。こちらも傍らにあるのは樫だが、幹が腐って裂け、朽ちている。しかし左右から二代目の新木が育つ。

三基目は「隣なき…」で始まる山県有朋歌碑右側に建つ「三浦将軍手栽」。三浦将軍とは奇兵隊小隊司令三浦五郎(梧楼)のこと。三浦は維新後、陸軍中将となり昭和元年(一九二五)一月二十八日、八十一歳で他界。山県らの藩閥政治には批判的で、「反骨将軍」の異名をとったことでも知られる。

「三浦将軍手栽」の木は失われ、古い切り株の残骸を見るのみ。地元吉田に生まれ育った斎藤一郎さん(平成八年、八十二歳で没)から以前聞いたところによると、木は松だったが枯れたそうだ。戦前の話と思うが吉田の住人はその幹を輪切りにし、置物に加工して三浦子爵家に贈ったという。

四基目は庵前庭の小高い一角、山県歌碑の背後に建つ「福田将軍手栽」。福田将軍は奇兵隊軍監を務め、戊辰戦争から凱旋直後の明治元年十一月十四日、下関において四十歳で病没した福田侠平のことだ。ここも元の木は無く、苔に覆われた切り株を見るのみ。何の木なのか、私には見当がつかない。

五基目の「鳥尾将軍手栽」は、高杉記念館跡地そばに集められた記念館建立の際の寄付者名と金額を刻んだ石標の列中に混じっている。何かの工事のおりに移動させられ、同じような形の石標群中に紛れ込んだのだろう。半分以上土中に埋まり、実は私も最近まで気づかなかった。もちろん、何の木が植えられていたのかは分からない。

鳥尾将軍とは奇兵隊結成当時、十七歳で参加した鳥尾小弥太だ。鳥尾は戊辰戦争では鳥尾隊を率いて戦い、維新後は陸軍中将、枢密顧問官などを務め、明治三十八年四月十三日、五十九歳で熱海において他界した。

山県狂介の植樹

碑銘を見る限り、五本の木は同じような時期に植えられたもののようである。明治元年春といえば、吉田村清水山麓に東行庵はまだ存在しない。同地には当時、奇兵隊軍監山県狂介(有朋)が妻トモと暮らす「無隣庵」と号す小さな家があった。そして奇兵隊は約一キロ離れた諏訪と呼ばれる地に駐屯していた。山県宅を訪れた奇兵隊の諸将が、何らかの思いを込めて植樹したのだろう。ただし現在の東行庵には、この植樹に関する記録や口碑はまったく伝わっていない。

『公爵山県有朋伝』上(昭和八年)を見ると明治元年一月三日、山県が奇兵隊士と共に、松を無隣庵の庭園に移植したとの記述がある。この日、吉田に不在だった三浦・鳥尾を除く三人の分は、この時植樹したのかも知れない。山県は次のような歌を詠んだ。

「 明治元年戊辰正月三日、奇兵隊の 人々と、子の日のあそひにものし て、草廬に一もとつゝ松をうつし けれは移し植てよはひを野辺の姫小松 千代もとまてはねかはされとも」

この日、奇しくも遠く京都郊外鳥羽・伏見では旧幕軍と薩長の新政府軍が衝突した。以後一年半におよぶ戊辰戦争の開戦である。

にもかかわらず、長州きっての歴戦の勇士山県は、なぜか戦いに参加せず、吉田で植樹を行っている。奇兵隊も総数の四分の一にあたる百十人が上京していたが、残りは吉田陣営に在った。「出兵の選から洩れていることは慰労の意味かもしれない」(中原雅夫『奇兵隊始末記』)と解釈するむきもある。果たしてそうだろうか。

足かせをはめられた山県

前年(慶応三年)十月十四日、討幕の密勅が長州藩に与えられた。山県狂介は急変にそなえるため、尾道方面に出兵し、待機すべきとの意見を藩に提出する。しかし自重ぎみの藩政府はこれを却下。出兵を時機尚早として反対し、割拠を唱えたのは大村益次郎だ。

藩政府が方針をなかなか決定しないのに苛立った山県は、奇兵隊を率いて上方に脱走するという過激な計画を立てる。驚いた藩政府は、家老のひとりを奇兵隊陣営に派遣し、山県に中止を命じた。これに対し山県は「命を奉ずる能はず」と返答。さらに直目附柏村数馬も上命をもって出兵中止を求めたが、山県は聞き入れなかった。

ところが山県が行動を起こす寸前になり、藩論が「出兵」に決定する。十月二十八日、藩主毛利敬親は毛利内匠・国貞廉平に上坂出兵の旨を授け、諸隊にも告示した。さらに十一月十八日には長州藩を訪れた西郷吉之助ら薩摩藩首脳との間に、三カ条からなる出兵協約が結ばれた。こうして二十五日から上方をめざし、毛利内匠を総督とする長州軍の出兵が始まる。年が明けた一月三日、鳥羽・伏見において開戦となったのは周知のとおりだ。

このように、結果的には山県の唱えた出兵が藩是となり、以後の流れをも作った。だが、そこに至るまでの山県の態度に、藩政府の要人たちが手こずらされたことは確かである。

私は藩政府が過激な山県を危険視し、彼が率いる奇兵隊主力を最初に出兵させなかったと見る。いわば足かせをはめられた状態の山県は、同志と吉田で植樹しながら、東天を仰ぎむなしく嘆息するしかなかったのではないか。

明治元年一月三日、三浦梧楼・鳥尾小弥太は吉田に不在だったと先に述べたが、彼らは鳥羽・伏見の戦いに参加していた。三浦は淀堤で負傷し、一旦治療のため帰国している(『観樹将軍回顧録』大正十四年)。三月になり上坂し、さらに北越に出征するから「明治戊辰之春」なら一時帰国のおりに植樹したのだろう。鳥尾は幕末回顧録「恵の露」(『得庵全書』明治四十四年)にその時期の動向を述べていないので、私にはよく分からない。

時山直八は明治元年一月二十七日、奇兵隊の上京準備のため、古賀四郎を伴い上方に赴むく。その足で四月二十五日、北越に出征し、戦死したから再び故郷の土を踏むことはなかった。

奇兵隊三中隊を率いた山県が下関から軍艦華陽丸に乗り組み、上方を目指すのは三月十七日のことだ。奇兵隊は四月、京都から北陸道先鋒総督の傘下となり北越方面へ向かう。水を得た魚となった山県には、総督府参謀という地位が与えられることになる。

明治元年春、雌伏の時を過ごさねばならなかった奇兵隊幹部たちは、何を思いながら、清水山麓に植樹したのであろうか。

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