晋作を支えた女性たち (「歴史読本」平成14年6月号)

1、小三という芸妓

高杉晋作(号・東行)は、幕末の長州藩で吉田松陰に師事して時世に目覚め、さらに文久2年(1862)4月、幕府の視察船に便乗して清朝中国の上海に渡る。そこで晋作が見たものは、阿片戦争で敗れて以来ヨーロッパ列強の支配を受け、太平天国の内乱で荒廃する厳しい現実であった。大変な衝撃を受けた晋作は、幕府の弱腰外交では日本も上海の二の舞いになると考えるようになった。

上海での危機感が晋作を突き動かしてゆく。7月14日、長崎に帰着した晋作はただちに独断でオランダ商館との間に蒸気船購入の約を結ぶ。しかし、藩政府は晋作を非難するだけで、この話は破談となった。

その頃の長州藩は尊王攘夷をスローガンとしていたが、朝廷を背景に幕府に政治的圧力をかける工作に懸命で、晋作の富国強兵論など聞き入れられない。晋作は藩のやり方に反対するあまり、閏8月には常州笠間に出奔し、11月には外国公使暗殺未遂事件を起こしている。精神状態が最も不安定だったこの時期、晋作の支えとなったと思われる一人の女性がいた。

それは『新聞集成明治編年史』中に紹介された新橋浜の家女将の回顧録に出てくる。この記事の初出は「東京二六新聞」明治41年9月15日号で、ちょうど明治座で左団次が晋作に扮する狂言が上演されていた。

女将は幕末の頃、「武蔵屋の小浜」の名で知られ、晋作らの酒宴にもしばしば呼ばれたという。芝居を見た女将は「高杉さんには其頃御贔屓に成りまして、いつも御座敷へ呼ばれましたが、あの芝居を見ますと、種々昔の事が思出されますよ」と、感慨深く半世紀前に思いをめぐらせる。

さらに記者から晋作との関係を尋ねられた女将は即座に否定し、「高杉さんには其頃別に大変に惚れた芸者衆があったのです」と、ある芸妓の存在を語り始める。

「ソレは矢張り、妾と一所に出ておった小三といって、さよう妾より二つ三つ年上でしたが、却々別嬪でしてね、その芸者衆が高杉さんに熱くなって、また高杉さんも大層可愛がっていらしッたのですが、その後、高杉さんはお国へお帰りになってしまい、小三さんもそれを苦にして病気になった位でした…」

女将の談によれば晋作が一緒に遊んでいたのは桂小五郎と井上聞多、それに使い走り役の伊藤俊介らだったというから、文久二年後半頃、江戸での話だろう。すさんだ生活の中で、晋作は小三と出会ったのだ。

しかし12月12日、品川御殿山に建設中だった英国公使館を同志と共に焼き払った晋作は、翌文久3年3月、京都に赴き、二度と江戸の土を踏むことは無かった。よって、小三と再び会う機会も無かったであろう。別れ際に小三が晋作に贈ったという袱紗が、現在も高杉家史料の中に伝わっている。

2、その後の小三

以前、ある古書肆の目録に「芸妓小三」の自筆短冊が出品されていた。小三が晋作の恋人と同一人物か否か分からなかったが、興味があったので私は個人的に購入した。届いた短冊には「耳」の題の下、達筆な文字で和歌がしたためられていた。そして裏には「小三」の自署と、旧蔵者による「東京深川芸妓小三 名三艸子松の門ト云、井上文雄門人」のプロフィールが、細かい文字で記されていた。それによると時代的には晋作の生きた時代と重なり、同一人物である可能性が高いと思われる。以下、裏書から小三を紹介しよう。

小三は幼少より和歌を好み、風雅の心があったが、故あって芸妓になった。一見識ある女で客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかった。つねに三味線の傍らに筆硯を置き、客が望むと席上で揮毫したという。

水戸藩士武田耕雲斎らは元治元年に筑波山で挙兵した際、同志を墨田川に誘い出し、強引に連れて行こうとした。そこで小三は、「懐母の歌」を詠み、武田のもとに届けた。武田はこれに感じ、彼らを解放したという。

その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念して一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいたという。短冊の裏書は「実に稀なる烈婦なり、この短冊も予が父文後、深川に遊び酒席へ招き、席上の揮毫なりと云ふ」との一文で締めくくられている。あるいは女将は、小三のその後につき、次のように語り残す。

「それから種々世の中が変りまして、その小三さんはずッと後、大学病院前の歯医者の何とやらさんに落籍されて、その人の本妻に成りまして、三四年前迄は達者でおりましたが、今はどうしましたかしら」

これらの史料を見ると、晋作が贔屓にした小三はかなりの教養があり、プライドも高い女性だったようだ。妻マサにしても、歌人望東にしても、晋作が心許したのは知性ある女性だった。おそらく愛人ウノも表面上はともかく、そんなタイプに連なったのだと思う。

なお、晋作は頭の回転が悪い女性をわざと好んだとも言うが、何ら根拠のある説ではない。小三の事を知り、晋作の女性の好みの一端をあらためて垣間見た気がした。

3、妹ミツの悲劇

晋作には三人の妹があった。上からタケ(武藤家に嫁ぐ)、ハエ(坂家に嫁ぐ)、ミツである。数年前、私は綿貫サチさんという老婦人の訪問を受け、彼女の口から末妹のミツに関する興味深い逸話を得た。以下、その話をもとに稿を進める。

長州藩は慶応2年9月、晋作を「谷潜蔵」という別人に仕立て上げ、幕府の追及から逃れさせようとした。これにより谷家当主となった晋作は、嫡男であったにもかかわらず、高杉家を継ぐ可能性は完全になくなった。

そこで晋作の父小忠太(丹治)は、すでに藩士大西機一郎に嫁いでいた末娘のミツを離縁させて高杉家に連れ戻す。そして慶応元年1月に村上家から迎えていた養子の半七郎(春祺)と再婚させ、高杉家を継がせた。

家門を守ることが、個人の幸福よりも優先された時代の悲劇と言えよう。妻を奪われた機一郎はその後、何もやる気を無くし、維新後は財産を売り食いするような生活を続けたすえ、ある日、忽然と消息を断ったという。

ミツは大正元年、東京で没。維新の英傑として祭り上げられてゆく兄晋作に対し、いかなる思いを抱き続けて来たのであろうか。何も語り残していないので分からない。「高杉晋作」という歴史上の人物が誕生する背景には、このような平凡な幸福を奪われた人々がいたのである。

ちなみに綿貫さんは大西家の生まれである。平成14年1月12日、86歳で亡くなった。ご冥福をお祈りする次第である。

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