高杉晋作の実像を追って (「朝日新聞・西部」平成14年5月11日夕刊)
幕末長州藩で奇兵隊を結成し、幕府と戦った高杉晋作(号・東行)は、慶応3年(1867)4月、数え年29の若さで下関において病没した。同年10月には大政奉還、翌年9月には「明治」と改元されたから、新時代を眼前にした死であった。
晋作は、数多くの人間ばなれした逸話を持ち、英雄・武勇伝として扱われてきた。しかし、裏をのぞけば、逸話や奇矯な行動にはちゃんと理由があり、周到な準備がなされたはずで、それを探りたかった。以下は、私が自ら設問し、出した回答の一部である。
少年時代、なぜ剣術修行に精出したのか。15、6歳の頃、江戸に赴いて「黒船騒動」を体験し、発奮したことが分かった。
万延元年(1860)、関東・信州・北陸方面の遊歴日記が、栃木県壬生でなぜ突然中断するのか。私は実際に壬生に赴き、関係者の子孫から晋作が地元の剣士に何度も試合に敗れたという話を聞いた。日記中断は、この精神的ショックとかかわっていると考えた。
文久2年(1862)、幕府が品川御殿山に建設中のイギリス公使館を、同志と共に焼き払ったにもかかわず、捕まらなかったのはなぜか。それは当時の幕府が、朝廷から建設中止を求められるという苦しい立場に立たされていたからだ。犯人不明で処理した方が、都合がよかったのである。皮肉にも晋作は命をかけ、幕府を救っていたことも分かった。
元治元年(1864)、藩内の政争で敗れて九州に走ったのは、なぜか。反撃のため佐賀・福岡藩の軍事的支援を取り付けようとしたからだ。しかし実際は、晋作のために都合よく動いてくれる藩などなかった。
慶応元年、イギリス密航を企てたのはなぜか。幕府の頭上を飛び越え、下関を国際貿易港として世界中に公認させようと企んだからだ。ただし長崎で英国公使代理に拒否され、計画はあっけなく頓挫する。
慶応二年、長崎でオテントーという小さな蒸気船を、独断で購入したのはなぜか。船にはアームストロング砲三門が搭載されていた。晋作はかつて上海視察の際、熱心にアームストロング砲を見学し、その威力に驚いたことがある。何としても欲しかったのだろう。
このように、周囲の目を驚かせた晋作の行動の不透明な部分を、「史料」を基にひとつひとつ解きほぐし、具体的に説明した。その結果、慎重である一方、失敗を繰り返す、人間臭い等身大の晋作像が見えて来た。
しかし一つだけ、「史料」だけでは分析出来ない晋作の行動があった。幕府に恭順した藩政府の打倒を掲げた、元治元年12月の下関における挙兵だ。やがて尻込みしていた奇兵隊などの同志も立ち上がり、豪農は軍資金を提供し、晋作たちは内戦のすえ藩の政権を奪取することに成功した。この挙兵は明治維新へのターニングポイントとも評され、古くは「回天義挙」と呼ばれた。
さて、晋作は本当に成算があって80人を率い立ち上がったのか。そうした問いに対し、「晋作贔屓」の作家や研究家は「成算あり」と回答するのがつねのようだ。同志の呼応も、豪農の支持も、最初から晋作は計算しており、その通りになったというのである。それでこそ晋作はただ一人で「未来」を見た、「天才革命家」の名が冠されるのだ。
ところが冷静に考えたら、成算があったことを裏付ける史料は何も無い。晋作が立ち上がった時、藩政府が動かせる兵員は二千もいたという。それに80人で戦いを挑んだのだ。成算などありえないと、私は思う。
たとえば、挙兵前に晋作が豪農や豪商を訪ね、軍資金を調達したような話は無い。襲撃した下関の藩会所の蔵が空だった史実から見ても、事前の調査が不十分だったことは明白だ。晋作が山口の大庄屋に手紙を発し、経済的援助を乞うのが挙兵から12日後。奇兵隊などが呼応するのは実に、3週間も後の話しだ。いずれにせよ「天才革命家」にしては、あまりにも杜撰で、お粗末である。
しかし、私は晋作の挙兵を評価したい。勝つからやる、負けるからやらないだけでは、人の心は動かせないのだ。晋作には自らが真っ先に危地に飛び込む決意を示すことしかなかったのだ。単純に美化するのは危険だが、成算を度外視した「決意」の表明がこそ、数々の歴史の転機を作って来たことは確かだと思う。
0コメント