井上馨残照 (「東行庵だより」平成13年冬号)

1、東行庵と井上馨

東行庵初代庵主である谷梅処(うの)は明治42年(1909)8月7日、67歳で他界した。生前、梅処は東行庵清水山に建立予定の高杉東行顕彰碑の到着を心待ちにしていたが、ついに見ることが出来なかったという。さぞ心残りであったに違いない。

ただ、亡くなる8カ月前、後継者候補として梅仙を迎えたことは、肩の荷を下ろした安堵感があったはずだ。それまでも梅処は、後継者探しで各地を回り、養女をもらったこともあったが、いずれも失敗に終わっていたのだ。

東行顕彰碑の除幕式が行われたのは、梅処の没後2年近くの歳月が流れた明治44年5月20日のことである。石が巨大だったため、制作に意外と手間取ったのだ。

この日、老体に鞭打ち東京から駆けつけて除幕の紐を引き、祝辞を読んだのは井上馨だった。井上は声涙下る演説を1時間以上も行ったので、参列させられた吉田小学校の児童たちが、次々と日射病で倒れたという。

そしてこの時点ではまだ、梅仙が居たにもかかわらず、なぜか東行庵の二は正式には決まっておらず、庵主不在の状態だった。梅仙が二代の座に就くのは、この除幕式の後の事だ。私はその原因として、井上馨の意向があったのではないかと考える。

井上は晋作が最も信頼した同志の一人である。だから晋作没後、元勲となり政財界で活躍した井上は、東行庵や初代梅処のことを特別気にかけ、何かと親身になって世話を焼いてくれた。

梅仙が後年回顧したところによると(島田昇平『高杉とおうの』)、除幕式に参列した井上は帰途、小月駅まで見送りに来た梅仙に向かい「東行庵の事について相談するからあす長府松原の小沢冨熊方まで来い」と言った。小沢家は井上の姉の縁家である。

翌21日、梅仙が行ってみると、井上は「東行庵の後嗣をきめ、お前の入籍手続を執らねばならん」「帰りにまた下関に立寄る其時は今一度御苦労じゃが来てくれ」などと言い、その日のうちに九州へと渡って行った。

井上は22日に三池炭鉱を視察、さらに別府に赴くと言い出す。周囲の者たちにとり別府行きは予定外の行動だった。しかし、別府こそが井上にとり、真の目的地だったのだという。


2、井上の別府行き

井上と別府の繋がりは、幕末にまで逆上る。慶応元年(1865)2月、藩内の反対派から生命を狙われた井上は別府に逃れたことがあった。若松屋という宿に潜伏し、灘亀という侠客の世話になったのだ。

灘亀は豊前長洲の漁師出身。若い頃、二度も殺人を犯して故郷を飛び出し、諸国流浪のすえに別府に居を定め、数百人の子分を抱える侠客の大親分としての地位を築いた。

「春山花輔」と変名した井上を一見した灘亀は、ただ者ではないと察知。そして長州の武士と承知した上で、賭場の用心棒として抱えることになる。

それから半世紀近くが経った明治44年5月下旬、福岡県飯塚の貝島太助方からの急使が別府に来て、「侯爵井上馨閣下」の来訪を予告した。

突然のことで別府の人々は驚く。幕末に恩を受けた人たちに礼を述べるのが井上の目的だという。

だが、すでに若松屋夫婦も灘亀も亡く、当時の事情がよく分からない。唯一、井上の身辺の世話をした若松屋の娘(当時12歳)ハツが存命していた。この時になりハツは47年前の亡命者「春山花輔」が、元勲「井上馨」と同一人物と知り、驚嘆する。

29日、井上を乗せた列車は行橋駅を発ち、午後3時に別府到着。井上は麻生家の別荘五六庵に入った。まず井上は千葉大分県知事や吉田別府町長などの挨拶を受け、さらに駆けつけたハツや関係者と昔話に花を咲かせる。

ハツは井上が防寒具として携帯して来た、毛布についての記憶を述べた。輸入品で珍しかった上、模様が描かれており、それを子供ながらに綺麗である、立派であると感じたという。また、親たちの会話に出てくる「奇兵隊」を、ずっと「騎兵隊」と解釈していたと話すと、周囲もドッと笑った。

井上はハツの案内で翌30日、幕末の頃に潜伏した若松屋の階上六疊の一室を訪ね、感慨にひたる。そして「千辛万苦之場」と大書した額を主人に贈った。さらに井上は、明治35年に亡くなっていた灘亀の位牌も拝す。横暴な灘亀は晩年、土地の者から嫌われ、遺骨も共同墓地に埋められ参る者も無いという。そこで井上は後日、その碑銘を揮毫し、墓を建ててやった。

31日夜、井上は大分県知事をはじめ地元の名士や関係者を招き、不老泉の三階楼上で宴を張る。最初、町側は井上の歓迎会を考えていた。しかし井上はこれを辞し、別府は恩誼ある地だから、自分から招いて昔日の誼に報いたいと希望したのだ。

こうして井上の別府訪問は、盛大な歓迎ムードの中に終わった。「侯(井上)の年来夢寝の間に往来して居つた別府は、侯の此訪問に由つて、最も趣味ある歴史を作り、且つ精神教育上最も大なる感化を世に及ぼす名誉の根元地となるに至つたのである」と、随行した門司新報社長は述べている。

3、出て来た位牌

その後も井上の別府訪問は、美談として地元で語り継がれてゆく。昭和8年には井上の潜伏した若松屋の二階建が別府市に寄贈され、市公会堂敷地に移築保存されることになった。その際には別府市長平山茂八郎の撰文による碑が建てられ、市役所から『別府潜伏時代及其前後の井上侯』という百頁足らずの記念誌が出版された。

ただ、ここでひとつの素朴な疑問が沸いてくる。なぜそこまで気にかけながら、井上はもっと早くに別府を訪れなかったのか。もう少し早ければ若松屋夫妻にも灘亀にも直接会って礼が述べられたはずである。いくらなんでも半世紀の間には機会もあっただろう。

その疑問を解く鍵が次の梅仙の回顧談中にある。井上は別府からの帰途、再び下関に降り梅処を呼び出した。「大分県へ行かれてお帰りの時、馬関(下関)の大吉楼から電話が来て呼寄せられて私がお伺しますと、大分県で知事を煩わしてお前の身元を調べたが結構ぢやから早速入籍の手続をしろと云われて、本きまりに師匠(梅処)の跡を継ぐことになりました」

梅仙は大分県宇佐郡北馬城村岩崎の生まれで、末広善七の長女だ。表沙汰にはならなかったが、井上が半世紀ぶりに別府を訪ねたもうひとつの目的は、大分県知事を使っての、梅仙の身元調査にあったのだ。

梅仙が梅処の跡である東行庵庵主と谷家当主の地位を継ぐ意味は大きい。谷家とは、晋作が幕府の追及から逃れるべく、藩命を受けて谷潜蔵と改名したことで始まる家である。八組に属し百石が与えられた。

この谷家を継ぐことは、ただの墓守りではない。晋作の末裔になり、高杉家の最も近い親戚になることなのだ。だから慎重に選ばねばならなかった。

その重大さを知るだけに井上は、自分が梅仙本人に面接し、さらには身元調査までしなければ納得しなかった。後継者決定を待たしていたのだから、当時の庵の運営に、井上の影響力が絶大だったことが分かる。そして、梅仙の人となりを認めた井上は庵主と谷家当主の地位を許すのだった。

いまから数年前、晋作は仏弟子ではないから今後ここには祀れないと、晋作たちの位牌を東行庵の仏壇奥から出され、戸棚に仕舞われてしまったことがあった。その時、仏壇から出された中に、表に「世外院殿無郷超然大居士」、裏に「大正四年九月一日」と記された高さ24センチ、黒塗りの古びた井上の位牌があった。これは梅仙が作らせたに違いないと私は感じた。

梅仙が二代庵主として生きた大正・昭和前半は、決して平穏な時代ではない。その上、井上や山県有朋が亡くなるや、庵の運営に別の力が介入し本旨や秩序が歪められることも出てくる。

梅仙の談話には東行庵維持のために井上たちが作り、地元の有力者に任せていたはずの財団が「今は如何様になっていますか、会計報告が十一年間も発表されませんので解りません」といった、ひどい話も出てくる。

それでも梅仙は「私は師匠として(梅処に)歓化を受けたものであり、せめて師恩に酬いるには東行庵を永く保全し東行先生の名を涜さぬよう精進する事を念じております」と言い、昭和34年7月9日、82歳で没。そして庵は梅仙の養女の三代玉仙に引き継がれ、隆盛の時代を築いてゆく。

梅仙を知る人は苦労の人、忍耐の人だったと評す。そんな梅仙が井上の位牌を祀り、精神的な支えとしていたのは理解出来る気がする。

いまも井上の位牌は戸棚の中にある。私は井上の肖像写真を引き伸ばし、額に入れて位牌に添えておいた。もし井上の霊魂がここで見守ってくれているなら、私も話したいことが沢山ある。

0コメント

  • 1000 / 1000