獄中の日記があった! (「東行庵だより」平成13年秋号)

1、行方不明の日記

高杉晋作の日記は6篇が知られている。『東帆録』『試撃行日譜』『御日誌』『初番手行日誌』『遊清五録』『獄中手記』がそれだ。『高杉晋作全集』(昭和49年)では詩歌稿『甲子残稿』や交友録『観光録』も「日記」に分類しているが、この二篇は厳密な意味での日記ではない。

6篇の日記は晋作50年祭の記念出版『東行先生遺文』(大正5年)の中で、はじめてその全貌が活字になり紹介された。さらに当時、原本はすべて東京在住の晋作の孫、高杉春太郎が所蔵していたことが明記されている。

それから85年を経た今日では『東帆録』『試撃行日譜』『御日誌』『初番手行日誌』の4篇は高杉家史料として東行記念館が保管。『遊清五録』は東京の大久保利泰氏(利通の曾孫)が所蔵されている。ただ今編纂中の『高杉晋作史料』(来年マツノ書店より出版予定)では、いずれも自筆原本をもとに再校訂することが出来た。

ところが『獄中手記』自筆原本の大正5年以降の行方だけが、杳として不明だ。管見の範囲では写真の一枚も残されていない。しかも現在の所蔵先については、なんの手掛かりもない。

だからこれまでは『東行先生遺文』の活字本か、山口県文書館毛利家文庫中の写本を利用するしかなかった。たとえば近年では『高杉晋作全集』や岩波版『日本思想大系・幕末政治論集』(昭和50年)所収の『獄中手記』は『東行先生遺文』からの転載である。思想大系に収められるのだから、この日記が日本史上でも重要な位置を占めていることが分かるだろう。

出来る限り原本に当たるという『晋作史料』の編纂方針からすれば、ぜひとも見てみたい。もし市場にでも出て来たら、絶対に買い取ろうと決めていた。おりに触れて自著の中で「『獄中手記』の原本は所蔵不明」(『高杉晋作の日記』平成8年)とか、「自筆原本は現在、所蔵先不明」(『高杉晋作の29年』平成11年)とか注記して来たのも、どこかで見つかればという願いを込めてである。だが、何の情報も無く、戦災や天災で失われた可能性も否定できない と思った。

ともかく無いものは無いのだ。タイムリミットも近づいたので諦め、『獄中手記』だけは残念ながら、これまでどおり、活字と写本をもとに『晋作史料』に所収することにした。そして今年2月には、『獄中手記』の初校ゲラが刷り上がって来たのである。

2、『獄中手記』について

晋作が投獄された経緯は、おおむね次のようなものだった。文久3年(1863)8月18日、朝廷で起こった政変により失脚した長州藩では、軍勢を率いて京に上り、失地回復を行おうとする「進発派」が勢いを持つ。急先鋒は遊撃軍総督来島又兵衛であった。

元治元年(1864)1月24日、奥番頭役の晋作は、君命を受けて防府に来島を訪ね、進発は時期尚早であると説く。が、来島は聞かず、28日、晋作は京都にいる久坂義助や桂小五郎らと協議し、進発を阻止すべく、富海から船で上方へと向かった。

ところが藩政府では、こうした晋作の行動を、役目を放棄して脱藩したと見なす。君命により萩に帰った晋作は、3月29日、城下の野山獄に投じられてしまった。

この日から筆を起こしたのが『獄中手記』であり、6月21日に自宅座敷牢に移ったところで筆をおく。周囲から誤解されて罪をえたと感じていた晋作は、せめて自分の子孫だけには、その志を知ってもらいたいと願い、手記を著す。妻の胎内には、この年10月に生まれることになる子供がいた。

以下、『獄中手記』から晋作の獄中生活の一端を覗いてみよう。

投獄初日に晋作は「先生を慕うてようやく野山獄」と詠む。吉田松陰の志を継ごうとする、素直な感慨だ。松陰もかって二度ばかり、野山獄に投じられたことがあった。

それから晋作は、読書と詩作に明け暮れた。読書は1日20から90葉、詩歌は1、2作だった。

4月3日の条では「人世沈浮不敢休」云々といった漢詩の後に、「余かつて支那に遊ぶ。今を去るすでに三年、昨日の鳳翼今変じて籠中の鳥となる。諺に曰く、人間万事塞翁の馬、真なるかな」ともらす。かつてはエリートとして上海を視察した自分が、いまは囚人となっている非運を嘆き、災い転じて福となって欲しいと願うのだ。

あるいは4月11日の条では、松陰に思いを馳せ、次の漢詩を作る。

偸生決死任時宜 不患世人論是非

甞在先師寄我語 回頭追思涙空垂

死と直面した晋作は、「回(松陰)先生、江戸獄にあり、予に書を寄せて曰く、死生は度外におくべし、高節天祥の如きといえども、生を偸むべくんば則ち生を偸む云々」といった、かつて松陰から教えられた死生観を思い出さずにはいられない。

また5月20日の条には、杉伯教(松陰の家兄梅太郎、民治)の求めにより、松陰の文稿を閲校している様子が「隨って誌し、隨って録す。一日の間、謄写その半ばを居る」と記されている。5月25日に晋作が獄中から杉にあてた手紙にも「先ず一応全集相整えべきと相考え候」とあり、かねてから気にかかっていた松陰全集の編纂に取り組んでいた様子がうかがえる。

生前、松陰は「著書を出版し、不朽にしてくれれば、万行の仏事に優る」(『杉民治伝』)と述べたという。だから晋作の仕事は一万回の法要を催すよりも重要な意味を持っていたのだ。

6月1日には「幽室記」と題した長い文章を書く。生死を度外に置くという松陰の言を思い出したりしながら、「余、先師(松陰)に地下に誓い、翻然として心を改む。早起して室を拂い、虚心黙語、従容として以って命の終るを待つ」と、気を引き締める。獄中の晋作は精神的に不安定な時も多く、読書したり詩文を書くことで、なんとか心を落ち着かせていたのだ。

さらに6月7日には「真の未定稿、他日の削刷を待つ」とし、七千字近い長文を書く。ここでは来島の説得に失敗した末に、上方に向かった事情等が詳しく述べられており、反省はしつつも「然れども直言直行傍如無人、身命を軽んずるの気魄有ればこそ、国の為深謀遠慮の忠も尽くさるべし」と、みずからの信念を述べている。

やがて父小忠太が周旋した甲斐あり、晋作は6月21日に獄を出て城下菊屋横丁の自宅の座敷牢に移る。「家翁欣喜出迎我」、喜んで自分を迎えてくれる父の姿を見て、晋作は涙がとまらなかった。日記は一応ここで終わり、8月3日に自宅で書いた短い跋文をもって『獄中手記』は終わる。

一方、進発派に引きずられた長州藩は、7月19日、京都で「禁門の変」を起こし敗走していた。来島や久坂らは戦場で命を散らせ、桂は行方をくらませた。晋作も、もし罪を得なければ、どんな苛酷な運命をたどっていたか分からない。四ケ国との講和談判、下関挙兵、幕長戦争の指揮など、晋作の活躍はまだこれからで、その言「塞翁の馬」は真実だったのだ。

3、自筆原本の所在

活字本や写本を基にした『獄中日記』の初校ゲラが刷り上がって来たのとほぼ同時に、長い間、行方不明だった自筆原本が、見つかった。あまりにもタイミングが良く、それはもう、奇跡としか言いようがない。

今年3月、広島大学大学院博士課程の蔵本朋依さんが国立歴史民俗博物館蔵『木戸孝允関係文書目録』中に「西南戦争関係書類」として、「投獄文記 甲子八月三日 西海一狂 一冊」という、気になる書目があることを知らせてくれた。

本当に「西南戦争関係書類」なら、いまのところ私の興味外だ。しかし私は「甲子」「八月三日」「西海一狂」といったキーワードがひっかかった。「甲子」は晋作が投獄された元治元年の干支だし、「八月三日」は『獄中手記』の跋が書かれた日だ。それに「西海一狂」が「西海一狂生東行」なら、晋作が好んで使った号である。

この時点では書名も違うから、まさか『獄中手記』自筆原本だとは思わなかった。せいぜい、木戸か他の同志が作った写本だろうと思った。というのも、晋作の手紙に「弟投獄詩集御同藩石川(清之助)氏へ御用立置き候」(田中謙助あて)とあるように、同志に回覧していたらしいのだ。しかし一見しておく必要を感じたので歴史民俗博物館の許可をいただき、国会図書館所蔵のマイクロフィルムから紙焼きにして送ってもらうよう、申請をした。

やがて届いた紙焼きを見て、私は腰が抜けるくらい驚いた。そこに写っているのは、まぎれもない、おなじみの晋作の筆跡なのだ。表紙の署名も「西海一狂生東行未定稿」となっていた。

早速、紙焼きの『投獄文記』を活字本の『獄中手記』と比べると、詩などの細かい推敲の跡まで、ちゃんと一致する。これは『獄中手記』と呼ばれている日記の自筆原本である可能性が高い。ただし六月七日の条に書かれた長い文章だけが、なぜか全文無かった。

ともかく(大変なものが出て来た)と思った。私の興奮は、おそらく高松塚の壁画や、稲荷山古墳の鉄剣を発見した時の考古学者の興奮と同等、あるいは、それ以上だったかも知れない。

これは一刻も早く実物を見たいと思い、調査の手続きをとった。そして6月14日午後、大雨の降る中、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館にお邪魔して、『投獄文記』を手にとってじっくりと拝見させて頂くことが出来た。

『投獄文記』は縦18・4センチ、横12・1センチ、表紙を含め26丁からなり、若干の虫穴がある。晋作自筆であることは疑いようがない。私は写真やメモを取りながら、深い感慨に浸っていた。

ただ、自筆原本を確認したことで、次の3点の疑問が残った。

まず、表紙に記された晋作自筆の書名が『東行先生遺文』や毛利家文庫写本に付いている『高杉晋作獄中手記』ではなく、『投獄文記』であること。この表紙の存在は、これまで知られていない。このことから、かつて高杉家所蔵だった『高杉晋作獄中手記』と、この『投獄文記』が同じ本だったのかという疑問も残る。無論、違う本としても『投獄文記』の方が、自筆のオリジナルであることに間違いはない。

また、なぜ6月7日に書かれた21丁分が無いのか。製本の糸を解き、この部分を丁寧に外して「別冊」を作ったというなら、まだ話は分かる。しかし原本を見ると、何者かが刃物で乱雑に切り取ったことは明らかで、数ミリほど残った綴じ代部分には所々、晋作の文字が残っており、痛々しい。

最後は、いつ、どんな理由で『投獄文記』が木戸家の所蔵になったのか。昭和59年と62年の2度にわたり、同家が歴史民俗博物館に寄贈した1333件もの膨大な史料群の中の一点に過ぎず、『投獄文記』だけの記録は同館にはないようだ。寄贈の時点で誰も注目しなかったことも、今日まで「西南戦争関係書類」と分類されていたことからも察しがつく。

ともかく『投獄文記』の確認で、晋作の日記6篇全てを原本から再校訂することが出来た。それに晋作の強烈な思いが込められた『投獄文記』が、異郷ではあるが国の施設で大切に保存されていることと、未来へと伝えられるであろうことに深い安心感を覚えた。

私にとっては十余年をかけた『晋作史料』完成直前の大慶事である。そして、晋作の事を伝えるべく建てられたはずの東行庵の機関誌で、こうして大慶事をお伝え出来るのは、何よりの幸せだ。晋作も、三代にわたる庵主も、そして心ある読者の皆様も、私同様に喜んでくれていると思いたい。

ようやくここまで漕ぎ着けた。後は史料集をきちんと完成させ、「万行の仏事に優る」までである。

最後に調査にご協力下さった国立歴史民俗博物館の皆さん、蔵本朋衣さんに感謝申し上げます。また調査は奇兵隊士研究所の事業として行ったことを付記しておきます。

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