河井継之助の評価 (『西日本新聞』平成13年8月27日)

去る八月四日、新潟県長岡市において行われた「もっと知りたい!河井継之助」と銘打ったシンポジウムに、私はパネラーとして招かれた。司馬遼太郎の『峠』の主人公として知られる河井継之助は明治維新の際、攻め寄せた長州奇兵隊を主力とする「官軍」と戦った、長岡藩の家老である。だから私の立場は、さしずめ敵国代表というところであろう。

たしかに奇兵隊を研究する私だが、河井にはつねに引かれるものを感じる。特に藩主から大抜擢され、幕末のわずか三年間で、長岡藩七万三千石を大改革する手腕は見事だ。

たとえば藩士たちの石高を百石を基準に増減し、平均化してしまう。信濃川の通行税を廃止し、交易を活性化させる。財政を立て直し、軍備を充実させ、さらには博打場や遊郭も禁じて風紀を正した。これらは、彼が断行した改革の一端に過ぎない。

ところが、慶応三年(一八六七)十二月に「大政奉還」に反対する建白を朝廷に突き付けるあたりから、私の河井に対する評価はちょっと変わってくる。続く戊辰戦争を、民衆を苦しめるものとして反対したのは良いが、明治元年(一八六八)には藩主の財宝を売却してガトリング砲など、西洋兵器を購入。五月には「局外中立」を唱えたが「官軍」に認めてもらえず、会津藩に味方して戦うも敗れた。結局、九月になり戦場で受けた傷がもとで、四十二歳で没している。

この最後の一年の河井は、どうも時流に疎いまま暴走している気がしてならない。反対派を斥け、自分の周囲を身内で固めているのも気にかかる。成功を続けたワンマンが陥りやすい、失敗ではなかったか。

さて、シンポジウムでは、長岡市長をはじめ河井ゆかりの地の首長や研究者など、パネラーが河井の偉大さを称えた。そして河井の完全なる復権を望む声も多く聞かれた。

実は長岡の一部には、河井に対する根深い憎悪の念が、現在なお残っているというのだ。河井が強引なやり方で改革を断行し、ついには戊辰戦争に巻き込み、長岡を焦土と化したというのが、アンチ河井派の言い分である。

観光客がタクシーに乗り、河井の墓所に行きたいと告げたら、「河井の墓など、参らなくてもいい」と運転手から怒られた、という話も聞いた。おそらく運転手の曾祖父あたりが家を焼き出され、以来、その家では代々、河井を憎んでいるのだろう。

しかし私は、そうした河井評が残っていることが、地元の歴史の真の魅力だと思う。長岡まで訪ねても、『峠』の受け売りのような河井評しか聞けないとしたら、うんざりするだろう。河井は屍になってなお、鞭打たれる改革者なのだ。憎悪が残っていることを知り、はじめて本物の改革の凄まじさを感じる。だから私は、アンチ河井評は大切に残して欲しいと、長岡の皆さんにお願いした。

ちなみに戊辰戦争後、困窮する長岡に届けられた米百俵で学校が創設された逸話を、本年五月、小泉首相が所信表明演説で使った。しかし、着手する前から異常に支持率の高い改革など、日本史上にあったろうか。誰からも理解される「先覚者」は、ちょっと不気味な気がするのだが。

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