伝・晋作書簡 (「東行庵だより」平成13年夏号)
1、本と一緒に晋作書簡
平成5年初夏のある日、栃木県立博物館収蔵庫で、私は一通の高杉晋作書簡と対面した。同館の石川明範さんに聞いたところによると、『維新史料聚芳』(昭和11年)という本を古書肆から購入したさい、本と一緒に古書肆から売りに出されたものを購入したのだという。
本と一緒に売っていたというという「不思議な話」に戸惑いながらも、私には書簡の筆跡は、晋作本人のもののように思えた。よく見かける贋作の類いとは、趣が異なる。写真に撮らせてもらい、後日晋作の筆跡を見慣れた人に見せたが、やはり私と同意見である。
田村哲夫先生のお力添えのもと、全文を解読したが、特に内容に矛盾も見当たらない。編纂中の『高杉晋作史料』に入れるべきか否か、大いに悩んだ。しかし私には、不思議な出現をしたという以外、外す理由が無いのである。『高杉晋作史料』には入れようと決めたものの、不可解な思いは、どうしても拭いきれなかった。
2、書簡の内容
ここで、問題の晋作書簡を読み下しで紹介しておこう。
「御翰拝読候。先日は計らず怱卒申し出、後悔罷りあり候。実は久坂より何たる事も申さず候ゆえ、呈書つかまつり候訳にござ候。其の方、御降恕遣わされるべく候。御調の分、御入金員数相分かり候はば仰せ越されるべく候。御恵投の外は御入金相明り居り候由、それにても宜しき候はば、早々御贈りつかまつるべく候。員数の処御聞かせ、早速頼み奉り候。かれこれ面倒の儀申し出、愧じ入り候。御笑下さるべく候。先ずは御断りかたがた、匆々かくの如くござ候。頓首拝白。
十一月六日夜
東行拝 千束老兄 」
宛て名の「千束」は山県小輔(狂介、有朋)。晋作が「東行」の号を用いている事や、文中に「久坂」が出てくる事から見て、「十一月六日」なら文久3年(1863)しかない。
山県は同年6月の奇兵隊結成時は病気療養中で不在だったが、9月ごろから隊に所属したことが分かっている。奇兵隊で何かを作った費用の支払いにかんする、隊側の山県と藩政府にいた晋作との間の、事務的なやりとりと考えられる。
3、同じ書簡
さて、平成12年1月になって、この晋作書簡について再び考えざるをえない出来事が起こる。
東京の古書肆から送られて来た目録中に、なんと、あの晋作書簡と瓜二つのものが出ているではないか。それは、たくさんの古文書の写真が並ぶページの中で、「伝高杉晋作書状幅」のタイトル付きで紹介されていた。ただし、後半の「員数の処御聞かせ…」以後の部分しかなく、「断簡」を掛け軸に表装したものに見える。
ともかく現物を見たかったので、個人で注文し、約一ト月後に手に入れることが出来た。
まず、栃木県博で撮った写真を取り出して比べるが、一見同じものに見える。印刷ではないかとも、疑った。現代の「点」を集めたオフセット印刷ならすぐ分かるが、明治の頃の精巧なコロタイプ印刷だったら、紙も古色を帯び、一種の風格が出ているから、なかなか判別が難しい。
そこで、掛け軸と写真を対比すると、ほんの少しではあるが、字の角の筆の形が微妙に違っていたりして、それぞれが手書きであることが確認出来た。
筆跡も内容も特に問題なし、しかし同じものが二つあるのはおかしい。実は古書肆が目録で「伝高杉晋作書状幅」と紹介していたことが、最初から気にかかっていた。「伝」と付けたのは売る側に、真筆という自信がないからに違いない。そのため値段も、えらく安い。私がこれまで購入して来た晋作書簡のン十分の一である。
なぜ「伝」と付けたのか。そのへんの事情が知りたくて、古書肆に直接手紙で尋ねてみた。しばらくして届いた返事には、こんな事が記されていた。
店主はこの軸を、一年ほど前、業者間の市で落札した。晋作の真筆を見たことはなかったが、「それはなにか偽物にしては筆の運びがなめらかで力強く感じたからです。時代もそれなりに合致しそうですし、表具も今出来のものとは違って見えました」というのが、札を入れた理由だという。
しかし家に持ち帰り、じっくりと見た店主は、「とても文章の始まりがなく、途中からのようで又自信が失くなりました」と、だんだん不安になったようだ。迷ったあげく目録に写真を掲載することで、「専門家の方の目で確かめて頂こう」と考え、「伝」を付けて公表したのだという。
「『伝』をあえて付けましたが、確たる証拠があった訳ではございません。私の不勉強の至りで、品に自信がなかった故です」。店主の手紙を、私は繰り返し、読んだ。生き馬の目を抜くといわれる業界で、こうした誠実な商売をしている方に出会えた事が、何より嬉しかったのだ。
4、史料収集の一方法
いまのところ私は、これらの晋作書簡は、いずれも「写本」ではないかと考えている。
どこかに晋作自筆の実物があり、誰かがその上に薄葉紙を重ね、写し取ったのではないか。筆跡と内容がおかしくないのも、複数存在するのも、それで説明がつく。旧蔵者が本の間に挟んでいたのも、あくまで資料と承知の上で扱っていたとすれば、不可思議な感は拭える。
そのように私が考えるようになったのは、薄葉紙に写しとられた維新関係者の書簡を、山口県文書館において沢山見たからである。
たとえば「両公伝史料」中の「九一八 防長諸名家手翰梶山竹二郎所蔵」などは、吉田松陰や篠崎小竹などが月性に送った書簡が、巻紙にそのまま写しとられている。あるいは「九一九~九二四 防長諸名家手簡の内(一)~(六)木梨胤子所蔵」も、杉孫七郎はじめ野村素介・木戸孝允・前原一誠ら元勲の書簡を、巻紙に写し取ったものだ。写本であることは、紙の継ぎ目を見ると、あきらかである。書簡ごとに継いであるのではなく、紙が無くなると継いでいる。管見の範囲では他にも、こうした写本がいくつか存在する。
写した筆には勢いがあり、一通ずつ分断され、表具されていたら、私などは「真筆」と見まちがいそうだ。「両公伝史料」は公爵毛利家編纂所で、昭和四年から二十年の間に収集されたという。この間、筆勢までも写し取る技術者が、編纂所にいたのだろう。
文書館に残るこれらの写本は、写真も気軽に使えず、コピー機も無かった時代に、こうした史料収集方法があったことを教えてくれる。晋作の書簡を筆写したのが同一人だったかは分からないが、こうした写本ならば、史料的価値はあると言えよう。
『晋作史料』には「写本カ」との注記を付け、この晋作書簡を紹介するつもりである。あわせて写真版も掲載する予定だから、読者の方はご自分の目で確認いただければと思っている。
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