もう一人の恋人 (「東行庵だより」平成13年春号)
1、袱紗に書かれた漢詩
東行記念館の高杉家史料中に漢詩を書き付けた布地があり、現在は軸装 され保存されている。『高杉晋作写真集』(昭和59年)では「晋作の詩と脇文」(247頁)として紹介され、平成元年の県立山口博物館企画展「高杉晋作と奇兵隊」でも「高杉晋作詩書」として展示された。
考証された形跡もないまま晋作の遺墨とされたのは、高杉家という出所の確かさに加え、左下に「如是」と刻んだ角印が捺されているからではないか。現にこの印章の実物は、高杉家史料の中に存在する。
しかし管見の範囲では、他に「如是」の印章を用いた晋作の書は無いし、筆跡も晋作のそれとは雰囲気が異なる。ちなみに高杉家史料中に印章は十一顆あるのだが、すべて晋作が使用したものかとなると、さらに検討の余地があるように思う。
さて、この度『高杉晋作史料』編纂にあたり、この布地に書かれた詩を解読したところ、次のようになった。
「別時血涙尚留痕 相思空痛鬼指 廂雲山海潮際場 懸千重菊盈密」
さらに脇文は次のとおり。
「高杉帰関過訪後、尤妓小三所贈幅紗索書于余、酔中、則剛旧作以空責弟酔準」
これによると、小三なる芸妓が晋作に贈った袱紗に、某が酔って漢詩を書き付けたということであろう。末尾に「準」とあるのが署名とすれば、木戸準一郎(孝允)の可能性が高いと考えるのだが、いかがであろうか(ただし『木戸孝允文書』第八に所収の詩歌集には見ない)。
ともかく晋作の遺品ではあるが、遺墨ではないようである。
2、小三との仲
「小三」と聞いて私が真っ先に思い出すのは、『新聞集成明治編年史』の中に紹介された、新橋浜の家女将の回顧録である。この記事の初出は「東京二六新聞」明治41年9月15日号で、ちょうど明治座で左団次が晋作に扮する狂言が上演されていた。
女将は幕末の頃、「武蔵屋の小浜」の名で知られ、晋作らの酒宴にもしばしば呼ばれたという。芝居を見た女将は、「高杉さんには其頃御贔屓に成りまして、いつも御座敷へ呼ばれましたが、あの芝居を見ますと、種々昔の事が思出されますよ」と、感慨深く半世紀前に思いをめぐらせる。
また芝居上の晋作と実像とのギャプについて、こんな風に語っているのも興味深い。「高杉さんの役は左団次さんが活発に演て居りますが、一体高杉さんは、お武士としては至極温順なお方で、何しろ三十やそこらで御病死り成られた位ですから、お酒は召し上っても余り浮いた方ではありませんでした。それでも芝居は活発にしなければ不可ますまいねえ」
さらに記者から晋作との関係を尋ねられた女将は即座に否定し、「高杉さんには其頃別に大変に惚れた芸者衆があったのです」と、ある芸妓の存在を語り始める。「ソレは矢張り、妾と一所に出ておった小三といって、さよう妾より二つ三つ年上でしたが、却々別嬪でしてね、その芸者衆が高杉さんに熱くなって、また高杉さんも大層可愛がっていらしッたのですが、その後、高杉さんはお国へお帰りになってしまい、小三さんもそれを苦にして病気になった位でした…」
この小三が、先述の晋作に袱紗を贈った女性であろう。
女将の談によれば晋作が一緒に遊んでいたのは桂小五郎と井上聞多、それに使い走り役の伊藤俊介らだったというから、文久2年(1862)後半頃、江戸での話ではないか。
そう言えば同年12月8日、来島又兵衛が桂にあてた書簡(宮内庁書陵部蔵)の中にも、こんな一節がある。「楠樹(晋作)之事、必々御油断なき様に願い奉り候。小三は思し召し次第、楠樹之事のみ煩念に堪え申さず候」
晋作は閏8月に笠間に出奔したり、11月には外国公使暗殺未遂事件を起こしたりと、藩首脳部からすれば爆弾のような危険人物であった。この手紙からも、晋作に手を焼く様子が感じられるが、「小三は思し召し次第」とはどんな意味なのだろうか。ともかくこの時期、晋作らの周囲に小三という芸妓がいたことだけは間違いないようだ。
しかし12月12日、品川御殿山に建設中だった英国公使館を同志と共に焼き払った晋作は、翌文久3年3月、京都に赴き、二度と江戸の土を踏むことは無かった。小三と再び会う機会も無かったと思われる。
3、どんな女性が好みか
以前、ある古書肆の目録に「芸妓小三」の自筆短冊が出品されていた。目録からは、小三が晋作の恋人と同一人物か否か分からなかったが、興味があったので個人で購入した。届いた短冊には「耳」の題の下、達筆な文字で和歌がしたためられていた。そして裏には「小三」の自署と、旧蔵者による「東京深川芸妓小三 名三艸子松の門ト云、井上文雄門人」のプロフィールが、細かい文字で記されていた。それによると時代的には晋作の生きた時代と重なり、同一人物である可能性が高いと思われる。以下、短冊の裏書から、芸妓小三を紹介しよう。
小三は幼少より和歌を好み、風雅の心があったが、故あって芸妓になった。一見識ある女で客を選び、風雅の心がなければ、たとえ高貴の人であっても、相手にしなかった。つねに三味線の傍らに筆硯を置き、客が望むと席上で揮毫したという。
水戸藩士武田耕雲斎らは元治元年(1864)に筑波山に挙兵した際、同志を墨田川に誘い出し、強引に連れて行ってしまった。そこで小三は、「懐母の歌」を詠み、武田のもとに届けた。武田はこれに感じ、彼らを解き放したという。
その後、芸妓を廃業した小三は歌道に専念し、一家を成し、たくさんの門人を得た。その中には、紀州侯の令嬢もいたという。短冊の裏書は「実に稀なる烈婦なり、この短冊も予が父文後、深川に遊び酒席へ招き、席上の揮毫なりと云ふ」との一文で締めくくられている。
あるいは先述の新橋浜の家の女将は、小三のその後の消息につき、次のように語り残す。「それから種々世の中が変りまして、その小三さんはずッと後、大学病院前の歯医者の何とやらさんに落籍されて、その人の本妻に成りまして、三四年前迄は達者でおりましたが、今はどうしましたかしら」
これらの史料を見ると、晋作が贔屓にした芸妓小三はかなりの教養があり、プライドも高い女性だったようだ。妻マサにしても、福岡の歌人野村望東にしても、晋作が心許したのは知性ある女性だった。おそらく愛人おうの(のち谷梅処)も表面上はともかく、そんなタイプに連なったのだと思う。
一方、晋作は頭の回転が悪い女性をわざと好んだとも言うが、何ら史料的根拠のある説ではない。芸妓小三の事を調べてみて、晋作の女性の好みの一端を、あらためて垣間見た気がした。
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