晋作の決意 (「世論時報」平成13年1月号)
2001年の「決意」
私が住む本州最西端の山口県は、江戸時代、長州藩(三十六万九千石)と呼ばれ、毛利家という外様大名の統治下にあった。
幕末、長州藩は尊王攘夷をスローガンに、幕府の開国政策に対抗する。しかし元治元年(一八六四)九月、藩内で政権交代が起こった。保守派(「俗論派」)が台頭し、それまで政権の座にあった革新派(「正義派」)は粛清されてしまったのだ。さらに幕府に対し、恭順謝罪するという一八〇度の方向転換が行われた。
十二月十五日深夜、失脚して一時、九州に亡命していた革新派の高杉晋作は、武力による保守派打倒を掲げ、下関(現在の山口県下関市)で挙兵する。
「これよりは長州男児の腕前お目にかけ申すべし」
都落ちしていた三条実美ら五卿に、晋作はそのように挨拶した後、下関を襲撃し、藩の役所を占領した。
最初、晋作には遊撃軍・力士隊の八十人しか従わなかった。ところがそのうち、傍観を続けていた奇兵隊をはじめとする諸隊、あるいは豪農たちが立ち上がり、内戦が勃発した。
戦いの結果、晋作たち決起軍が勝利して政権を奪取し、保守派は藩政府から斥けられる。その後、西洋から武器を密輸し、軍政改革を進めた長州藩は、再び幕府に対して抵抗し、やがて明治維新への道筋がつけられるのであった。だが晋作は、新時代を見ることはなかった。長州藩に攻め寄せた幕府軍を撃退した直後の慶応三年(一八六七)四月十四日、二十九歳の若さで病没したのである。
さて、晋作が最初に挙兵した際、成算があったのかと、問われることがある。
「晋作贔屓」の作家や郷土史家たちは、おおむね「成算あり」と、回答するようだ。奇兵隊の呼応も、豪農たちの支持も晋作は最初から見越しており、まさにその通りになったというのだ。それでこそ晋作はたった一人、「未来」を見ることが出来た「天才革命家」の名が冠されるのである。
しかし最近、私はそうは思わなくなった。
晋作が挙兵した時、藩政府が動かせる兵力は二千あったという。それに八十で抗するのだ。まず物理的に冷静に見たら、成算などあろうはずがない。
しかも晋作が、例えば事前に豪農たちを訪ね、根回ししたといった形跡は無い。諸隊の陣営に乗り込んだものの、挙兵に反対されたため、激情に任せて怒鳴り散らしたという史実があるくらいだ。
さらに晋作が下関を制圧した時、藩の役所の蔵は空だったという。保守派も用心して、武器も金も食糧も萩に引き上げていたのだ。そんな下調べも出来ていなかったのである。
別の用件で下関に滞在中だった晋作の旧友で筑前藩士の月形洗蔵が、見兼ねて公金百両を貸したという逸話が残る(『高杉晋作入筑始末』)。または、入江和作など下関商人たちから、当座の軍資金を借用したという記録もある。
晋作が山口矢原の大庄屋吉富藤兵衛に手紙を発し、経済的援助を乞うのは十二月二十七日である。これは挙兵から十二日も経っている。しかも吉富が応じなければ即座に斬るよう、晋作は使者に命じていたというから、かなり強引な交渉をするつもりだったに違いない。結局、吉富は軍資金を提供し、ここで初めて豪農の支持を得るのである。
あるいは、傍観を続けていた奇兵隊および諸隊が、保守派の陣営を奇襲し、晋作たちに呼応するのは慶応元年(一八六五)一月七日未明というから、実に挙兵から三週間も後のことなのである。
いずれにせよ「天才革命家」の行動とするなら準備不足で、お粗末極まりない。
内戦で晋作たちが勝ったから、計算通りになったと評すのは、安っぽい結果論に過ぎない。少なくとも晋作に成算があったことを立証する史料は何処にも見当たず、もちろん私には計画性など感じることすら出来ないのだ。
では私が、晋作の挙兵を評価していないのかというと、そうではない。最初から成算など考慮していなかったと言っているだけだ。
この時から五年前の安政六年(一八五九)十月、晋作の師である吉田松陰が、幕府の「安政の大獄」に連座し、三十歳の若さで江戸で処刑されている。斬首であった。
死の直前、松陰は晋作ら門下生たちに向け「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という一首を残す。肉体は滅んでも、志はお前たちに託してあるぞ、という凄まじい「決意」である。こうして門下生たちは発奮し、その行動は激化してゆく。
松陰の教育は、「残虐な死」があって初めて完結したことになる。この点、十字架に架けられて最期を遂げることで、永遠の魂となるキリストと似ている。無論、誰にでも真似出来ることではないし、単純に美化することも危険である。しかし、こうした「決意」の表明が起爆剤となり、いくつもの歴史の転機を作って来たことは、間違いない。
八十人を率いて挙兵した晋作の「決意」は、どうもこの辺りと同次元にあったのではないかと、私は考える。
勝敗ではなく、自分自身が真っ先に、成算の無い戦いに身を投じる「決意」を見せる事が大切だったのだ。そうすれば、自分は敗れて死んでも、後の誰かが奮起してくれると考えたのだろう。また、そこまでやっても、何の反応も示さない同志や藩であるならば、晋作は生きていても意味がなかったのだ。
「捨て身」「自己犠牲」と言えば、現代では誤解されやすいが、晋作の挙兵は、ただそれだけの行動であり、計算や根回しから出た判断ではない。成算の有無など、尋ねる方が筋違いなのだ。事実、晋作は勝利の後、刷新された藩政府の椅子には、座ろうとしなかった。晋作はやはり松陰の門下生であったのだ。
我々日本国民は、二〇世紀が終わりに近づいたある日、この「決意」という言葉を、あらためて考えさせられた。野党四党の内閣不信任案と連携するそぶりを見せた、自民党加藤派会長の加藤紘一元幹事長の一連の行動である。
国民の不支持率が七、八割となった森首相の退陣を求め、さらに自民党の状況を内部から変えると「決意」を表明し、離党勧告にも応じない加藤氏に、多くの国民が期待した。
しかし結果は周知のごとく、お粗末なものだった。
加藤陣営は「不信任案に賛成した場合は除名処分にする」との方針を打ち出した自民党主流派に結局は切り崩され、内閣不信任案は否決されたのだ。
「政治を変えないと日本は変わらない」と、骨のある発言を続けて来たかに見えた加藤氏は、衆院本会議を土壇場で欠席してしまった。これは、挙兵の宣言をして走りだした晋作が、途中で引き返したようなものに、私には見えた。
加藤氏はたとえ一人になっても、出席すべきであった。否決されても、除名されても、加藤氏が一切の政治生命を奪われることになっても、やるべきだった。
加藤氏がそこまでやったら、今度は国民が放っておくはずがない。必ず政治は動いた。必敗でも、犬死にではなかったはずだ。
逆に言えば、ひとりの政治家がそこまで信念を貫き、「決意」の上に殉じたのを、誰も気に止めないような日本であれば、もうおしまいである。加藤氏の行動は、国民にとってもリトマス試験紙のようなものになるはずだった。
私を含め国民の多くは、加藤氏が「決意」を見せ、信念を貫いてくれると期待したのだと思う。そうすれば、失いかけていた政治家への信頼が、多少は取り戻せたかも知れなかったのだ。それだけに加藤氏の責任は重大だったのである。が、その期待は踏みにじられた。
しかし、救いはあった。
成算があるからやる、乏しいからやらないでは国民が納得しなかった事だ。数々の非難や怒りの声を、テレビや新聞が報じた。それは、成算もなく走った晋作の真意に共鳴する心を、日本人がまだ持ち続けていると、一縷の希望の光を感じさせてくれた。
そんな心が何処かにある限り、二一世紀の日本も、捨てたものではないと思うのだが。
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