晋作と有吉熊次郎

晋作と有吉熊次郎

                     

晋作の従僕になる

 『せつ御日誌』(『高杉晋作史料・二』)は長州藩主世子の小姓役として初出仕した高杉晋作の日記であり、萩で沙汰を受けた文久元年(一八六一)三月十三日から始まる。当時世子毛利定広(元徳)は江戸に在ったため、晋作は御前での作法などの研修を済ませた後、七月十日、江戸へ向けて旅立つ。日記にはその間の萩城下における晋作の日常が淡々とした筆致で記録されており、興味深い。同僚の若手官僚らと勉強会を開き、その合間を縫うように、松下村塾の同志が来談した。

 頻繁に訪ねて来ているのが、有吉熊次郎である。五月十日の条「夕飯後、有吉熊二郎来談、大小の金具頼む」とあるのが、日記に登場する最初。つづく五月二十四日、六月十三日にも訪ねて来る。有吉は江戸で学びたいと望んでおり、晋作に相談していたらしい。

 六月十七日の条に「夜有吉来る、余に従い東都に遊ぶを請う、すなわちこれを家君(父小忠太)に請う」とある。晋作は有吉を従僕として江戸に連れて行きたいと、父小忠太に許可を乞うた。そして翌十八日の条には「家君、有吉を従えて江戸行くことを許す。すなわち有吉を召してこれを告ぐ。有吉は喜んで帰る」とある。

 六月二十四日、二十五日、七月三日、四日、七日の条も有吉が来訪したとあるが、何を話したか具体的な記述は無い。六月二十六日と推定される有吉あて晋作書簡があり(『高杉晋作史料・一』)、もし、「二十一回先生(吉田松陰)詩稿」を持っているなら、「拝借つかまつりたく存じ奉り候」と頼む。

 七月八日の条には「朝飯後、尾寺・中谷・作間・有吉暇乞いに来る。有吉のこる、皆去る。夕飯後、有吉と荷する。有吉去る」とあり、旅支度を手伝わせている。翌九日の条には晋作に藩から旅費が支給された旨が記され、つづいて「七月十日出足、金壱歩弐朱と六匁とを熊次郎に渡す」とある。もっとも有吉に金銭を渡したとの一行は、原本では抹消されている。

 晋作は十日早朝、萩を発ち、三十日、江戸に到着し、世子小姓役として勤務した。七月十日から十月二十四日までの『初番手行日誌』(『高杉晋作史料・二』)が伝わるが、この間、連れ歩いたであろう有吉の名は二度しか見えない。

 ひとつは、九月二日の条「熊次郎少し病む」。いまひとつは、十月一日の条「今日より有吉、有備館へ入込させる。固屋借り、文吉なる者置く」である。有吉は念願かなって、長州藩上屋敷内の有備館に入れたのだ。有備館は天保十二年(一八四一)、村田清風の建議により設けらた、在江戸藩士の文武修養所である。

松陰に師事する

 有吉熊次郎は諱を良明、字は子徳という。天保十三年(一八四二)生まれというから、晋作より三つ年少だ。長州藩無給通士有吉伝十郎の弟である。『萩藩給禄帳』(昭和五十九年)によると父は有吉忠助といい、安政二年(一八五五)当時の家禄は「弐人高弐拾壱石五斗」だった。忠助没後の安政五年十月十五日、嫡子で十九歳の伝十郎が継いでいる。

 有吉家の住居は、萩城下ではない。『防長風土注進案』(刊本は九巻、昭和三十九年)の三田尻宰判内、佐波郡新田村(現在の山口県防府市新田)に住む「御諸士様六人」中に「有吉忠助」の名がある。

 次男坊の有吉は、学問で身を立てようと志した。以下、猛勉強の軌跡を海原徹『松下村塾の人びと』(平成五年)などを参照しながら、辿っておこう。

 新田村から萩城下に出て来た有吉は嘉永六年(一八五三)十一月および翌年六月の素読試でそれぞれ扇子五本を賞されている。当時は、藩校明倫館の小学舎に在籍していた。つづいて小学舎三科の第二である論孟中庸科から、第三の五経小学科へと進む。

 松陰に師事するようになったのは安政四年五月ころとされ、一時期は松下村塾に寄宿した。安政五年六月十九日、松陰が久坂玄瑞にあてた手紙には「近来の勉強家は岡部の外、有吉熊次郎・木梨平之允等なり」とある。こうした師弟関係につき『松下村塾の人びと』には「熊次郎はかねて学問で身を立てたいと思っていたらしいが、平生何よりも読書人を嫌い、有用の学を高調した松陰らしからぬ動きではある。おそらく明倫館中に蹶起を支援する人びとを得ようとし、熊次郎にいわばそのオルグを期待したのではないだろうか」とある。面白い推察だが、果たしてどうだろうか。

 ただし、有吉も過激な松陰の傍観者ではなかった。同年十一月、松陰が老中間部あき勝暗殺を企てたさい、十七人の血盟者のひとりとなっている。つづいて下獄を命じられた松陰の罪を問うため、重役宅に押しかけた八人の門下生中にも有吉の名が見える。だが、そのため家囚の身となり、親族一同から松陰との絶縁を迫られてしまう。『送別詩歌集』には、大獄に連座した松陰の江戸行きを見送る有吉の詩と歌三首が収められているが、これが永訣の言葉となった。

京都に死す

 文久元年(一八六一)十二月二十二日、藩は有吉に「航海術修業」を命じる(末松謙澄『防長回天史・四』大正十年)。翌二年五月十一日には攘夷の不可を説くべく、水戸藩に赴く長州藩重役周布政之助に坂上忠助らと従った(『防長回天史・三』)。同年十一月、晋作・玄瑞らが江戸で攘夷貫徹を誓った「御楯組血盟書」にも名が見え、十二月十二日には同志十数人と共に御殿山英国公使館を焼き討ちしている。

 将軍家茂上洛中の文久三年三月、晋作らの一団が鷹司関白邸に押しかけ、「将軍の去留と朝議の決とを聞かざれば、肯て退かず」と迫ったことがあった。『防長回天史・四』に出ている二十人の中に、有吉の名が見える。もっとも、尊攘運動一辺倒ではなかったようで、『奇兵隊日記』にはその名は見当たらない。

 八月十八日の政変後、山口で久坂義助(玄瑞)・堀真五郎らが八幡隊を結成するや有吉も参加し、幹部になった。同年冬に上京し、元治元年六月五日の池田屋事件に遭遇するも、虎口を脱して藩邸に逃れたという。同月十一日、桂小五郎の久坂あて書簡に「さて五日の一条、有吉帰山、委曲御伝言つかまつり候に付、御承知下さるべく候事と存じ奉り候」云々とあるように、急使として山口に帰り、藩政府に事件を報じている。

 つづいて七月十九日、京都で起こった「禁門の変」で生命を落とすが、堀真五郎『伝家録』には「八幡隊中有吉熊次郎・弘勝之進ハ鷹司邸内ニ於テ屠腹シ、金子久之進ハ同邸門前ニ於テ戦死シ、小河友槌・阿武鞆輔・土田萬之助ハ生死不明ナリ」と述べられている。

 野史台『維新史料・九一』(明治二十四年)所収の有吉略伝では「鷹司邸ニ詣ル時ニ小瘡ヲ患ヒ、頗ル行歩ニ難ム、敵兵ノ逼ルニ及ヒ戎衣ヲ解キ、其僕ニ託シ、還テ母ニ遣ヲシメ、自ラ刎ネテ死ス」と、その最期を伝える。似たような記述が萩原正太郎『勤王烈士伝』(明治四十四年四版)の略伝にも見えるが、従僕の名は「新吉」とあり、「みづから首をはねてうせぬ」との凄まじい描写になっている。享年二十三。

その没後

 有吉没後につき、触れておく。残念ながら晋作が有吉の死を悼んだような詩歌や文は、管見の範囲には無い。その霊は周防の秋穂二島朝日山(現在の山口市)に設けられた八幡隊の招魂場(現在の朝日山護国神社)に合祀され、霊標が現存する。墓所は京都市東山区の霊山で、久坂らと並び墓碑がある。

 『維新史料』には有吉が「戎衣」、つまり軍服を従僕に託し、母に届けるよう指示したとある。この、有吉の形見の実物の所在を私は知らない。もっとも、故郷に届けられたのは確かのようで、「有吉熊次郎良昭所用之兜及腹巻」を日本画家の平福穂庵が描いた一幅が私の蔵書中にある。

 それを見ると有吉の兜は桃型で、奇しくも高杉晋作が下関挙兵のさい首から掛けていたという兜と良く似ている。描かれた時期は定かではないが、平福は明治二十三年(一八九〇)十二月、故郷秋田県において四十六歳で没するから、それ以前ということになる。

 画には明治二十七年四月二十九日、東京において、有吉の「同窓」として品川弥二郎が讃を添えている。それには「僕(従僕)此の二品を携え帰国」とあり、『維新史料』の記述を裏付ける。つづいて「嗣子復介」が絵を描かせ、品川に讃を求めた旨が述べられ、「就死如帰、留此二品、忠烈戴天、生気凛々」との感慨を誌す。

 品川は有吉と親交があり、「禁門の変」でも共に戦った。有吉が品川に贈った詩書扇面が、京都大学付属図書館尊攘堂史料中にある。ちなみに有吉には明治二十四年十二月七日、正五位が追贈された。跡を継いだという「復介」についても気になるところだが、よく分からない。

 有吉の曾孫が、『恍惚の人』『複合汚染』などで知られる作家の有吉佐和子(昭和五十九年、五十三歳で没)だという。インターネットで「有吉佐和子」を検索すると、そのような解説が散見される(もっとも、それ以上の詳しい記述は見当たらなかった)。佐和子の父は横浜の銀行マンだった有吉眞次、長女は作家で大阪芸術大学教授などを務める有吉玉青である。

   (『晋作ノート』47号、2019年10月)

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