女優 有馬稲子

女優 有馬稲子(『読売新聞』西部本社版連載より)

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 「大女優」という呼称が、聞かれなくなって久しい。魅力的な若い女優さんは、たくさんいる。だが、親しみやすい半面、近寄り難いようなオーラには乏しい。かつての日本映画界は、大女優の宝庫だった。巨大な銀幕の中で、大輪の花が競い合っていた。

 そのひとり、有馬稲子さんと知り合ったのは平成29年(2017)秋、東京の企業が主催した幕末の長州藩士・高杉晋作に関するシンポジウムである。僕を含む四人のパネリストの中に、有馬さんがいた。芸能人枠で選ばれたらしい。

 「なんで私が」と言いながらも、有馬さんは事前に数冊の関連本を読破し、夏の終わりに山口県に来て、晋作の足跡を歩きまわった。その熱心な取材ぶりに、圧倒された。普段の役作りも、このように取り組むのだろう。

 昭和7年(1932)生まれの有馬さんが歩んだ道のりは、戦後史そのものである。少しでもお話を聞ききたいとの思いが、強く沸いて来た。

 有馬稲子さんは終戦を朝鮮半島の釜山で迎えた。十三歳の時である。帰国するため、実の伯母である養母とともに、密航する16トンのイワシ船に潜り込んだ。同行者は30人ほど。いつ、アメリカの監視船に見つかり、撃たれるか知れない状況下で、玄界灘を渡った。

 3日かかって下関に着いたが、その時有馬さんの脳裏に初めて「祖国」という言葉が思い浮かび、明るい未来を感じたそうだ。しかし、下関の光景は無惨なものだった。

「驚いたことに、港は空襲で沈んだ船のマストだらけだった。優に五十本くらいのマストが枯木の株のように海面からにょきにょき突き出ていて、うっかり船は近づけない。マストとマストの間を網の目をくぐるように、引っかからないように接岸するのに二時間もかかったろうか」(有馬稲子『バラと痛恨の日々』)

 「ドラマチックですね」と僕が感嘆していると、「ドラマチックですよねえ」と有馬さん。なぜかこの帰国の話が、小津安二郎監督のハートを掴んだ。あるいは華麗な風貌からは想像も出来ない、凄絶な体験とのギャップが面白かったのかも知れない。

「一回(話を)したらね、お酒飲んでいる時に、ネコちゃん(有馬さんの愛称)、またしてよって。三回くらいしたんじゃないかな」

 昭和一桁生まれの方が生きて来たのは、日本史の中でも未曾有と言っていいほど激動と混迷の時代である。戦争の中で子供時代を過ごし、時には生死に関わるような危機をくぐり抜け、ようやく平和を手に入れた。

 銀幕の中の有馬さんや同世代の女優さんたちからは背筋をピンと張り、生きてゆこうとする決意が滲み出ている。独特の凛とした美しさ、逞しいまでの存在感の秘密は、そこにあるのだと思う。現代の女優さんに、同じものを求めるのは、やはり無理があるのかも知れない。時代が人をつくるのである。

 さて、無事帰国した有馬さんは、大阪で実の両親や兄弟と暮らすが、上手くゆかなかったという。実の父の暴力に、悩まされたのだ。逃げ込むような思いで昭和23年(1948)、宝塚音楽学校に入り、翌年4月、初舞台を踏んだ。つまり今年4月は、有馬さんのデビュー70年となる。

 それから昭和26年に映画界に入り、はじめ東宝、次に松竹で多くの作品に出演することになった。(平成31年1月19日号)

(2)

 有馬さんは昭和26年(1951)から40年までの間に約70本の映画に出演した。日本映画黄金期と呼ばれた時代が、そのまま重なる。以後は舞台が主になり、映画は現在に至るまで、数本の作品に出ただけである。

 当時の日本映画は、どのように作られていたのか。有馬さんの出演作中、僕が最も好きな今井正監督『夜の鼓』(昭和33年)撮影時のエピソードを伺った。ちなみに『夜の鼓』は近松門左衛門の『堀川波の鼓』が原作で、脚本は橋本忍と新藤兼人。鳥取藩士が参勤交代に従い家を留守にした間に、妻が鼓師と過ちを犯したことから起こる悲劇を描く。

 26歳の有馬さんが扮する武士の妻に、同僚の別の武士(金子信雄)が刀を突き付け、関係を迫る場面がある。追い詰められた有馬さんは「待って!」の台詞を4回繰り返す。ところが一週間近く監督のOKが出ず、連日「待って!」を言い続けた。もちろん、その間カメラは止まったまま。有馬さんは精神的にくたくたになり、結局なにが良かったのか分からないまま、OKが出たという。

 あるいは浮気が発覚して、帰国した夫(三国連太郎)に何度も顔を殴られる場面がある。テスト前、有馬さんは「あなた、テストなんだから殴らないでよ」と、三国に頼んだ。にもかかわらず三国は容赦なく殴って、「あっ、ゴメン、ゴメン、気をつける」と謝る。

「また、2回目でガーン。あなた殴らないでって言ったでしょと言ったら、またゴメン、ゴメン。何回殴られたか分からなかった」

 それでも本番を終えて「やれやれ」と思っていたら、監督が「落ち着いたらまたやろうか」。それから顔が腫れて来たので、氷で2時間冷やして、撮影を再開させたという。

 僕が「いま、テストで女優の顔を殴ったら、どうなりますか」と尋ねたら、「大変ですよ、プロダクションが連れて帰りますよ」と有馬さん。ただ、当時は芸術というのは、そんなものだと思っていたとも言う。

 それでも70年の女優人生で、ここまでひどい目に遭ったことはなかったそうで、いまでも怒っている節がある。「あの大きい手で」と、憎々しげに、あちこちで話したり、書いたりするものだから、晩年、「(三国は)ン十年経ってから、殴って悪かったって言っていたみたいよ」とのこと。

 やたらと無味無臭が好まれる現代から見ると、クセ者揃いの映画界は隔世の感がある。有馬さんが映画から距離を置いた一因は、その辺りにあるのかも知れないと思った。(平成31年1月26日)

(3)

 有馬さんは昨年12月、10年ぶりにパリを訪れた。日仏友好160周年記念で開催中の「日本映画の一〇〇年」で主演作『東京暮色』(1957年)が上映されたため、ゲストとして招かれ、小津安二郎監督の思い出など語ったそうだ。

 『東京暮色』は小津映画群の中でも、ひたすら暗い雰囲気の異色作である。戦時中、ふたりの娘を残した母(山田五十鈴)が、愛人と満州に家出した家族の十数年後の物語だ。

 姉(原節子)は一見しっかり者だが、夫と上手くゆかず実家に戻って来る。有馬さん扮する妹はいかにも感受性が強そうで、母の問題で心を病み、いつも憂鬱な表情をしている。あげくは遊び人風の大学生の子を堕ろし、事故か自殺か不明のまま汽車に轢かれて死んでしまう。姉妹の父(笠智衆)は無気力、無表情で何を考えているのかよく分からない。

 有馬さんは、この作品が好きだと言う。ただ、撮影当初から、自身の役の最期が納得出来なかった。

「『なぜ私が死ぬの』ってプロデューサーに尋ねたら、『監督に聞けよ』って言われた。私も女性として未熟だったから、聞けなかったけど」

 「死にたくない」と呟き息絶える娘を、父も姉も静かに見守る。それも有馬さんは「不思議でしょうがない」そうだ。

 『東京暮色』は、近年国内外で再評価されている。有馬さんが60年を費やしても解けない謎があるように、観客の心に何か引っ掛かるものを残す、不思議な映画だからかも知れない。

 この家族が、戦争の傷痕を引きずりながら生きていることは、なんとなくうかがえる。最近、高度経済成長期をノスタルジックに捉え、美化する風潮があるが、現実はそんな甘っちょろい時代ではなかったことを教えてくれる。

 有馬さんが演じ続けた同時代人の生きざまは、もはや戦後史の記録と言っていい。

 例えば米軍基地のある町を舞台にした小林正樹監督『黒い河』(1957年)の、やくざに暴行され、人生を狂わせる女性などは鮮烈な印象を残す。有馬さんはロケで滞在した福生の町の荒んだ、猥雑な光景が忘れられないという。「娼婦だらけで衝撃を受けました。東京の街中にいたのではわからなかった世界です」と振り返る。そこにも戦争の傷痕が残っていたのだ。そういえば、松本清張原作、野村芳太郎監督『ゼロの焦点』(1961年)も、有馬さん扮する元アメリカ兵相手の娼婦が過去を隠して生きようとするも、そのために殺されてしまう話だった。

 あるいは田坂具隆監督『はだかっ子』(1961年)の優しく知的な小学校教員役も、貧しい暮らしの子供たちに対する視線が温かく、涙が出るほどいい。

 有馬さんが女優として凄いのは、どの役にもはまり切っていることだ。だから、一貫したイメージが無い。「カメレオン俳優」の走りだと思う。(平成31年2月2日)

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 昭和36年(1961)、有馬さんは俳優の中村錦之助(のち萬屋錦之助)と結婚して家庭に入り(のち離婚)、映画から遠ざかる。だが、昭和38年(1963)の『浪花の恋の物語』からは舞台で活躍を始めた。その代表作は水上勉原作、木村光一演出『はなれご女おりん』である。昭和五十五年から平成十六年まで、二十四年間で六八四回も上演された。

 大正のころ、北陸地方を旅する盲目の三味線芸人の物語。「男とも寝るし、だらしない女ですが、心のどこかに無垢なものがある」と有馬さんが言うおりんは、脱走兵の平太郎と出会い、人間愛に目覚めてゆく。

 おりんは憲兵に捕らえられた平太郎が処刑される前、面会する。平太郎は身寄りが無いと言っていたが、母が健在で、おりんと稼いだ中から密かに送っていたと打ち明け、謝る。おりんは平太郎の誠意に触れ、「いまほど目が見えないのが、哀しいことはない」と嘆く。その場面が、とても良いと有馬さんは言う。

 エンディングは平太郎が残した大八車を、おりんが曳きながら舞台を廻る。「多分どこかで野垂れ死んだと思わせるような終わり方」である。悲惨な話のようだが、おりんの時にとぼけたキャラクターのせいもあり、十分間に一度は観客の笑いが起こったそうだ。

 有馬さんは、おりんは自分の分身だとも言う。苦手だった三味線も、猛特訓した。右膝を痛め、ついには人工関節を入れた。全国の演劇鑑賞会に招かれて上演してまわったが、九州各地や下関も訪れている。

 「どこか印象に残っている土地はありませんか」と尋ねたが、愚問だと気づいた。物見遊山的な余裕は皆無で、精神的に張り詰めた旅だったようだ。それでも佐世保の木下央子さんや下関の藤田典子さんら鑑賞会の事務局長と食事をしたこと、魚が美味しかったことなど、思い出してくれた。

 僕も7年間ほど鑑賞会に入っていた。その際、第一線で活躍し、スターと呼ばれる俳優が安宿に泊まり、驚くほど安いギャラで身命を削って地方に演劇を届けてくれることを知り、日本の芸能界も捨てたものではないと、妙に感心したことがある。

 平成3年(1991)、『おりん』の海外公演が実現。イギリスでは、日本の皇太子殿下もご覧になった。スイスではカーテンコールが8回もあり、感動のあまり楽屋まで訪ねて来た観客もいた。言語や習慣の壁を越え、心に訴えるものがあったのだろう。

「素晴らしい舞台でした」と、有馬さんは繰り返す。ただ、全編通しての映像は残っていないそうだ。残念だが、それもまたライブの良さなのかも知れない。

(5)

 22歳の有馬さんが同世代の岸惠子・久我美子と3人で「にんじんくらぶ」を結成したのは、昭和29年(1954)のこと。

 当時、日本映画界には五社協定が存在した。五大映画会社にそれぞれ属する俳優は、他社作品に出演出来ないという鉄の掟である。

 ところが、戦地から帰って来た左翼系の有能な監督たちが独立プロで映画を撮り始め、有馬さんらにも出演のオファーが来る。ぜひ出たいが、協定があるから無理。「ならば年間一本だけは、他社出演を認めさせよう」と、若手女優三人が団結し「にんじんくらぶ」が誕生した。美しく聡明な女性の「決起」を、川端康成・井上靖ら文壇のお歴々なども応援し、映画会社は要求を認める。有馬さんらはスターよりも、女優の道を貫きたかったのだろう。映画界に新風が巻き起こったのは言うまでもない。

「いまなら、二十代の女優が自分の意志で会社に楯突く行動を起こすなんて、考えられないですよね」と言うと、「楯突くつもりもなかったんですけどね。楯突いたことになっちゃったんですよね」と有馬さん。「岸さんが言い出したんです。あの人頭いいから」と振り返り、「たいしたもんですよ。若い女の子がね」と、65年前の自身を客観視して感心する。ひと世代前の映画界なら、ありえない話だろう。

 半面、いまの若者や日本の将来には不安を感じることも多いと言う。昨秋、ハロウィーンの夜、渋谷で若者が暴れ、他人の自動車をひっくり返して歓喜する姿をテレビで見た有馬さんは、嘆く。「世の中に対して不満があるのなら、解決するために正面から取り組んで、一直線に進んで欲しいと思うんですね」。

 理想のリーダー像を尋ねたら、戦後、吉田茂の側近としてGHQとの折衝にあたった白洲次郎の名を挙げられた。有馬さんは白洲とは、パリで知り合ったという。のち、京都の錦之助と暮らす家に訪ねて来たてくれたので、手料理をふるまったこともあるそうだ。

 いま、有馬さんは横浜郊外のケア付きマンションで、ひとりで暮らしている。毎日4000歩の散歩を欠かさず、年に数回、朗読劇の舞台をこなす。昨年末はパリの日本館で『良寛さまと貞心尼』を語った。お元気で活躍されていることは、この国にとっても幸福なことだと思う。

 有馬さんの原点のひとつは13歳の終戦時、釜山から16トンのイワシ船で下関まで帰って来た体験だ。すさんだ風が吹く下関の闇市で、高価な薩摩芋の天ぷらを買い、明日からの暮らしに不安を覚えたという。

「苦しい時に必ず引き揚げの時のことを思い出しますよ。ひょとしたら死んでいたかも知れない瞬間を生きたんだから、頑張らなきゃって、しょっ中思いましたよ。映画に入ってからも、苦しい時は一杯あったから」

 戦後日本を牽引し続けて来た「大女優」のひと言は、昭和一桁生まれの子供世代である僕にとり、どんな映画の名台詞よりも身が引き締められる思いがした。(平成31年3月2日)

付記

 有馬稲子さんから昨年10月と本年1月の二度に渡り、いろいろなお話しを聞かせていただいた。録音は5時間以上におよぶ(その上電話で何度もお話しを聞いた)。その中から、選んで書かせていただいたのが、以上の記事である。有馬さんは、記憶力が抜群に良い。早口でいろいろな話をして下さる。私の亡くなった両親と同世代であり、そんなことを考えながら聞いていると懐かしいようでもあり、感無量だった。それだけに、お話のごくごく一部しか紹介出来なかったことが残念でならない。すべては私の非才のせいである。

 有馬さんの代表作「おりん」は、原作者水上勉みずからが書き下ろした朗読劇バージョンもある(CDもあり)。だが、おりんの故郷福井県小浜市では一度も上演されていないと知り、残念に思った。そこで、以前からお世話になっているもと小浜市長の村上利夫さんに相談したところ早速ご尽力くださり、隣町ともいうべき大飯町の水上勉生誕100年の記念行事として、本年10月26日(土)に実現していただけることになった。

 有馬さんには、いつも無理ばかり聞いていただき申し訳ないと思っている。そしてついに「おりん」の舞台を生で見たいという、最大の我がまままでお聞き届けくださることとなった。いまから楽しみで仕方ない。

 本当にありがとうございます。

付記2

 有馬さんは「にんじんくらぶ」の名称の由来を、昨年出た樋口尚文さんとの対談本の中で、確か「赤くてかたいから」と話しておられたと記憶。左寄りで、真面目ということだろう。

 ただ、にんじんくらぶ発足時、「スターサイン入りこけし 有馬稲子」というこけし人形が発売されており、その栞には、ルナールの小説『にんじん』が名称の由来だと書かれている。

「現代は資本主義の世の中であり、映画産業は巨大なマスコミの一翼となっています。そこには個人の力では動かすことのできない鋼鉄の歯車のような機構があります。この組織の中で良心的映画人が真に芸術の光を求めて生きて行こうとする姿は正に『にんじん』に出てくる主人公の少年と同じではありませんか…」

 さらに、有馬さんのこととして、次のようにある。

「美ぼうと明朗、あくなき芸術への探求心が彼女の身上ともいえるでしょう。

  有馬山いなのささ原風ふけば

     いでそよ人をわすれやはする

 皆さんと共にネコチャンの健闘を心から祈りましょう」

 

春風文庫

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