未公開書簡に見る吉田松陰の獄中教育
(1)
「 幕末の長州藩士書簡を集めた二巻の巻物を購入しないか」と、山口市の古美術ブローカーから電話で連絡があったのは、平成十四年(二〇〇二)のことだった。送られて来た不鮮明な写真を見ると、吉田松陰・桂小五郎(二通)・山県半蔵・来島又兵衛・中村九郎・周布政之助(三通)・宍戸九郎兵衛ら藩政府の中枢で活躍した、そうそうたる面々の書簡十一通で、うち八通は元治元年(一八六四)七月十九日の「禁門の変」で戦死した来島又兵衛宛である。しかも、すべて見たことのない、新出史料だった。
これは、じっくりと研究してみたい。だが、これまでの経験からすると地元の行政は幕末史料はまず購入しないから、個人で買い取るしかない。ブローカー氏に尋ねたら、私にとってはかなりの高額を示して来た。しかも、ビタ一文負ける気配はない。一旦保留にして、ひと月ほど悩み、費用の算段もついたので連絡したところ、様子がおかしい。
「息子の友だちが借りて行ったから、手元に無い」とか言い出した。おそらく、もっと高い値で売れる目処が立ったのだろう。「では戻って来たら連絡を」と言ったが、案の定それっきりになった。
以来二十余年、この史料のことが気になって仕方がなかった。週に一度くらいは思い出すのだが、その行方は杳として知れない。ところが令和六年(二〇二四)秋、市場、オークションに現れ、旧知の業者を通じ、いとも簡単に入手することが出来た。この二十年間、どこをどう巡っていたのだろうか。業者も以前の来歴は、分からないと言う。しかも値は以前提示された額よりも、ずいぶんと安くなっていた。
(2)
二巻の巻物のうち、一巻の頭に置かれているのが吉田松陰書簡である。松陰と十三歳年長の来島又兵衛とは、尊王攘夷運動の同志だった。松陰は来島を「忠直有為の士」「剛強にして吏才あり」などと評している。ただ、この松陰書簡は来島宛てではない。安政二年(一八五五)八月二十五日、吉村善作・河野数馬・冨永有隣連名宛てである。形見として来島が入手し、秘蔵していたのかも知れない。『吉田松陰全集』などにも未収で、本誌で初のお披露目となる。
(本文)
弥御安静奉賀上候。
陳ハ千萬軽少奉
恐入候へ共、荒園え出来候
秋茄一籠持せ入
御覧候。被仰合御
晩供ニ御備被遺候。
匆々頓首。
八月廿五日
尚々冨永君へ象山ノ説
陣軍門伝ト云文参り居候
□□何如。
〆
吉村
河野 三先生 松下一愚人
冨永
(現代語訳)
いよいよ御安静のことと、お喜び申し上げます。少しでお恥ずかしいのですが、うちの庭で収穫した秋茄子一籠をお届けしますので、お受け取りください。晩ごはんのお供にでもどうぞ。匆々頓首。
八月二十五日
なお、冨永君へ象山(佐久間)の説陣軍門伝という著作が届きましたが、どうしましょうか。
年は安政三年(一八五六)で、二十七歳の松陰は松本村の実父宅で幽囚中だった。宛先の三人は、いずれも長州萩城下の野山獄の囚人である。吉村善作は四十九歳で在獄七年、河野数馬は四十四歳で在獄九年、富永弥兵衛(有隣)は三十六歳で在獄四年。なぜ松陰は囚人を「先生」と呼び、交流していたのだろうか。
(3)
実はアメリカ密航に失敗した松陰も安政元年十月二十四日から翌二年十二月十五日まで、野山獄に投ぜられていた。野山獄は士分の獄で、松陰の他に十一人の囚人がいた。現代の刑務所と大きく異なるのは、松陰を含む九人が、家族親戚からの希望という形で投獄されていた点である。家長が願い出れば、邪魔者を隔離することが出来たのだ。
だから裁判も無ければ、在獄年数も決まっておらず、囚人の心は荒む一方だった。安政三年当時、最年長は七十六歳の大深虎之允で、在獄は四十九年におよんでいた。新入りで、しかも最年少の松陰は年末に獄の役人へ贈り物をするための集金や、正月雑煮餅の野菜の手配など、マメに働く。あるいは病者に対しては、知り合いの蘭方医に治療法を問い合わせたり、療養費捻出のため、相互扶助的な貯金のシステムを作ったりした。
獄内では以前から、もと寺子屋師匠で俳諧でも一家を成した吉村善作を中心に、句会が行われていたらしい。河野数馬も俳句に興味があり、この二人から松陰は句作指導を受ける。そのお返しとして、山鹿流兵学者の松陰は、囚人らを相手に学問を講じ始めた(海原徹『吉田松陰と松下村塾』)。「孟子」を読み、世界の大勢を説き、外交や国防、政治を語る。やがて獄の役人も松陰の講義に耳を傾けるようになり、禁じられていた点灯を許して協力する。
あるいは尊大でアクの強い富永も、松陰の勧めにより得意の尊円流の書道を教えるようになり、後には唐詩仙絶句の講義も行う。松陰は八月二十六日、兄杉梅太郎宛て書簡で「吉村・河野および頑弟(松陰)三人志を同じ力を叶へ、獄中の風教を興し候つもりにて…外に富永子書法を以て人を誘し候。今は此の三種の内、なにかを学び申さぬ人迚はこれ無く」と知らせ、獄内が学ぶ場になったと喜ぶ。これが世界でも類を見ないとされる、松陰の獄中教育である。
その頃アメリカの獄制にヒントを得た松陰は、「福堂策」と題した一文を書き上げた。それは、獄とはいたずらに苦しみを与える場ではなく、更生のための「福堂」でなければならないとの主張である。三年を一期と区切り、志ある囚人を長として獄内で学問をさせ、矯正するのだ。
こうして囚人たちは生きがいを見つけ、獄内の雰囲気も一変してゆく。驚いた藩は病気療養を名目に松陰を獄から出し、萩の松本村にある実家の杉家で謹慎させた。ここで家族や親戚を相手に孟子の講義を始めたのが、松陰主宰の「松下村塾」の始まりである。
(4)
このたび紹介する書簡は松陰が他の囚人を釈放するため、奔走中に書かれたものだ。親類が難色を示す者には身元引き受け人を探し、生計が立つ道を考えたりする。だから秋茄子や書籍や書籍を差し入れ、励ますのだ。
その結果、安政三年十月頃までには十一人中、河野・吉村を含む六人が出獄した。翌四年七月には富永も出獄し、松下村塾の助教となる。かつて松陰は、獄中で次のように述べた(「野山雑記」)。
「人賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし。湊合して大成する時は必ず全備する所あらん」(人は賢い者も愚かな者もいますが、おのおの一つか二つの才能は持っています。そこを伸ばせば、必ず人材になれるのです)
人間に対する、絶対的な信頼である。だから松陰は囚人たちを、何としても再び社会に出したかったのだ。このような経験を経、松陰は松下村塾で近隣の武士の子弟の教育を始める。その中から高杉晋作や伊藤博文ら幕末、明治に活躍する人材を生んだことは、あらためて述べるまでもあるまい。(「第三文明」2026年2月号)
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