晋作vs惣奉行
(1)
赤間関御手当惣奉行は弘化元年(一八四四)七月に創設され、一万石以上の長州藩主一門が就くことになっていた(以下、惣奉行と略称)。
将軍徳川家茂が孝明天皇に奏上した攘夷期限である文久三年(一八六三)五月十日当時の惣奉行は藩主一門、厚狭毛利家当主の毛利元美(能登)である。藩兵二千人のうち、大組士を中心とする六百数十人が元美の指揮下にあり、これが正規軍だった。
ところが五月十日になるや、久坂義助(玄瑞)ら数十人の有志から成る光明寺党が惣奉行である元美の制止を無視し、関門海峡に碇泊中のアメリカ商船ペンブローグ号を砲撃する。問答無用の一方的な攻撃など、国際問題に発展しかねない違法行為だ。
ところが藩は久坂たちを罰せず、戦いに消極的との理由で元美の惣奉行職を罷免して、養子(実は弟)の毛利宣次郎(親民)を後任とした。
調子づいた久坂らは、つづいてフランス艦、オランダ艦を砲撃したが、アメリカやフランス軍艦の報復を受けて敗北を喫したため、長州藩は攻から守へと、方針の一大転換を迫られる。この間、久坂らは攘夷実行を報告するため、京都へ上ってしまった。
その頃、高杉晋作は萩の松本村で隠棲中だったが、山口に呼び出され、六月五日、藩主父子の前で奇兵隊構想を提言し、認められる。
晋作は「いわゆる正兵者は惣奉行の兵あり。これに対して奇兵とせんと」(『奇兵隊日記』)と、述べたという。惣奉行が操縦出来なかった有志を再編して統率し、藩主直結の軍事力にしようと考えたのだ。「奇兵」という呼称も、その行動様式というより、惣奉行の統率外との意味が強い。
世子御前詰というポジションが与えられた晋作には、早速下関に出張して惣奉行手元役の来島又兵衛と相談し、諸事進めるよう命が出た。
七日、藩政府員の中村九郎・中村文右衛門・山田亦介・山田宇右衛門・宍戸九郎兵衛は連名で来島へ書簡を発し、晋作を出張させるが、「攘夷策略については宣次郎殿一手の面々駆引方、御自分様(来島)御示談に及び、精々尽力つかまつり候よう」言い含めていると、知らせる。異分子が送り込まれるので、惣奉行との間に摩擦が生じないよう、気を遣っているのだ。
(2)
六月六日早朝、山口を発った晋作は下関へ走り、竹崎の商人白石正一郎邸を本拠として奇兵隊を立ち上げる。
下関の大半は長州の中でも支藩の長府・清末藩が領しており、萩の宗藩の晋作は、よそ者だ。惣奉行の統率外で働こうと考える晋作は、まずは地元の有力者を取り込む必要があった。ただちに晋作は清末藩御用商人だった白石を、宗藩の三十人通という武士身分に取り立てる手続きを行っているのも、そのためだろう。
晋作は翌七日、奇兵隊編成の要点を五カ条に分けて書き出し、山口の藩政府に届けた(奇兵隊結成綱領)。その二条目には、伺いは今後、藩政府の前田孫右衛門宛てに書面で行うので、ただちに藩主に伝えて欲しいとある。惣奉行を通さず、直接藩政府、藩主とのパイプを築こうとしている点に注目したい。
これには晋作の前田宛の添状も付き、当職手元役(藩政府トップの補佐役)の前田を、藩政府の窓口にしようとしたことが分かる。晋作は惣奉行の指揮外の有志隊を創ったことにつき、「好んで異外に出候訳にはござ無く候。やむを得さるの窮策」と弁明し、上層部の理解を求める。
(3)
晋作が惣奉行毛利宣次郎に対し不信感を抱いていたことは、以上のように頑なにその指揮下に入るのを拒んだことからも分かる。藩主一門の宣次郎が西洋という新しい敵を相手に、臨機応変に戦えるとは到底思えなかったのだろう。六月六日、来島又兵衛宛てには「惣奉行の事も御用状相届かず」云々と、人事に関して何らかの働きかけをしていることも窺える。
そして下関防御の指揮は実質、晋作が中心になりつつあった。
藩は晋作の意向を重視しながら、その人事を進める。晋作が松下村塾以来の同志である入江九一を正式に部下にしたいと六月八日付の前田宛書簡で願えば、十日付で認められる。しかも藩は入江に惣奉行の軍議に出席し、腹蔵無く発言できるとの権限まで与えた。入江はこの年一月八日に、他の同志らと共に士雇に昇格したとは言え、それ以前は武士としては最下級の中間である。
同じく十日、宣次郎が更迭され、代わりに二十三歳の国司信濃が惣奉行になった。同時に国司は老中に列せられて家老となり、さらに加判役(藩政の最高会議員)に任ぜられる。一門以外の者が惣奉行に就任するのも変則的だが、仕方なかったのだうろ。
国司は五月、光明寺党の滝弥太郎や赤祢武人を連れて筑後久留米に出張し、同藩の激派だった真木和泉らの幽閉を解くため尽力しており、久坂ら有志からも、あつく信頼されていた。
すでに惣奉行手元役の来島は山口に呼び戻され、間もなく上京の命を受ける。補佐役の席が不在となったので、十日には晋作に国司の「相談人」を命じるとの沙汰が出た。
これは、藩政府からではなく重臣浦ゆき負が発信元になっている。つまり、藩主からのトップダウンなのだ。藩としては緊急時に、これ以上晋作にゴネられても困ると考えたのかも知れない。ただ、従来の「手元役」ではなく「相談人」としたのは、惣奉行に属さないと言い張った晋作に対する配慮からだろう。少し後になるが、晋作の九月二十七日、両親宛書簡では「遁世の人」ゆえ正規軍に関われず、「やむを得ず奇兵相募り候」と、惣奉行配下にならなかった理由を述べる。
(4)
やはり十日には、国司の「用談役」に波多野金吾(広沢真臣)が就く。波多野に出た沙汰には「国司信濃相談人座の御用高杉晋作申し合わせ、御所勤」せよとある。上下関係(筆次)は波多野の希望により、晋作が上(筆頭)と決まった。ここにも晋作に対する配慮が感じられる。この日の「白石日記」には「今日迄にて奇兵隊おおよそ六十余人出来」とある。
世子は十三日、国司に発した親書で「附属中、見込これあるものは仮令下賎たりとも遠慮に及ばず挙用せしめ、軍務を熟談し、衆心一致皇国のため粉骨」するよう、わざわざ注意する。藩は晋作や奇兵隊との間に信頼関係が築けない者に、惣奉行は勤まらないと見るようになっていた。
十四日、奇兵隊は下関の東、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)に本営を移す。「奇兵隊日記」十九日条には「壇ノ浦より前田の間炮台、奇兵隊へ御委任の事」とある。少し前まで「伏兵」扱いだった奇兵隊は正規軍となり、下関防御の主戦力になった。同日記掲載の全五条から成る「法令」の一条には「諸戦士は令を伍長に聞き、伍長は令を惣督に請け、一隊一和肝要たるべき事」とあり、命令系統が明確になり、組織化が進んだ様子が窺える。
すっかりお株を奪われた格好になった正規兵はこの頃下関の西、伊崎に大組二組が駐屯していた。これは晋作の意見により強壮の百人程を精選して下関に残し、先鋒隊(のち撰鋒隊)とすることになる。さらに、京都に送るのを前提として集めた鉄砲に長けた猟師のうち、五十人を割いて晋作の指揮下に置き、下関防御に当たらせるとも決まった(『防長回天史・四』)。
二十七日、晋作が正式に奇兵隊総管(総督・惣督などとも)に任ぜられる。同日、藩は晋作を政務座に加え、赤間関詰とした。このように晋作は着任からひと月程で、藩主父子との信頼関係と有志たちの実力を背景とし、一門の惣奉行を駆逐して奇兵を正兵化するなど、下関防御の大半を掌握してしまった。
ところが八月十六日夜、奇兵隊士が先鋒隊の屯営である下関の教法寺を襲い、ひとりを殺すという事件が起こる。これにより政務座役と奇兵隊総督を兼務していた晋作は、政務座役の方を免ぜられ、奇兵隊総督専任となった。事件により奇兵隊総督を免ぜられたとする書籍をいまだに見かけるが、八月二十八日に沙汰が出ており、晋作も父小忠太に「奇兵隊総官のみ、仰せ付けられ候よう御沙汰」があったと、手紙で知らせている。
奇兵隊総督を免ぜられたのは、八月十八日に京都で起こった政変と関係する。京都政局から駆逐された長州藩は九月一日、晋作の奇兵隊総督を免じた。そして下関から引き上げさせ、山口の藩政府に戻す。こうして奇兵隊から離れた晋作は、奥番頭役に就き、新知百六十石を受けるという栄達を遂げたのである。
(「晋作ノート」66号、2026年1月)
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