田代における高杉晋作

(1)

 本年(平成三十年)十月二十一日、佐賀県鳥栖市の田代八坂神社境内に鳥栖市明治維新150年事業のひとつとして、高杉晋作の詩碑が建立された。私は碑に刻まれた晋作の筆跡を提供したご縁もあり、除幕式にお招きいただき、三十分ほど記念講演を行った。

 田代宿は長崎街道の宿場のひとつで、八坂神社の鳥居は街道に南面している。文久二年(一八六二)、晋作は江戸から陸路長崎まで行き、そこから千歳丸に乗り上海に渡った。そのさい街道を往復したはずだから、鳥居の前も通ったであろう。まさか百数十年後、境内に自分の筆跡が刻まれた碑が建つとは、夢にも思わなかったはずだ(当たり前だが)。

 現在の鳥栖市の東半分、田代宿を含む基肄(きい)郡・養父郡の一帯一万石あまりは江戸時代、対馬藩の領地(飛び地)だった。対馬藩(宗家)は八坂神社の西側、現在の田代小学校あたりに代官所(御屋舖)を設けて統治していた。建物などは現存しないが、鳥栖市教育委員会が設置した説明板によると代官所は長崎街道に沿って南面し、その敷地は表間口四八間、奥行きは東八二間、西七七間、裏六八間だったという。

(2)

 元治元年(一八六四)十一月、晋作は何度目かになる田代宿を訪れた。

 同年七月、長州藩は京都で「禁門の変」に敗れ、朝敵の烙印を押された。勅を奉じた長州征伐軍が迫り、藩政府内では恭順謝罪を唱える「俗論派」が台頭したため、失脚した晋作は萩を脱して、下関から海路博多に逃れる。同行者は筑前浪士の中村円太(野唯人)と長府藩士大庭伝七だった。

 博多に上陸し、ひとまず上鰮町の対馬藩御用商人石蔵屋卯兵衛宅に潜伏した晋作は、つづいて福岡藩の同志である伊丹真一郎・江上英之進・今中作兵衛らと、田代を目指す。

 晋作は長州征伐に批判的な九州の福岡藩や佐賀藩などに働きかけ、尊攘派勢力の大同団結を画策していた。対馬藩宗家は長州藩毛利家の縁戚にあたり、以前から両藩の尊攘派は交流があった。

 田代宿で晋作に応対したのは、対馬藩士平田大江である。場所はおそらく大江の住居でもあった、代官所であろう。

 五十二歳になる大江は嘉永元年(一八五八)、田代代官を任ぜられ、この地に赴任して来た。対馬藩尊攘派のリーダー格として知られ、元治元年二月には君命で上京したが、途中、周防湯田で三條実美らに面会し、山口政事堂で時事を談じたりと、長州藩復権にも協力的だった。同年五月、京都で大江は加判役(家老職)、息子の主水は田代役に任ぜられている。もっとも、晋作が訪ねた頃、対馬藩でも内訌が起こっており、大江には長州藩のために動く余力が無かった。

 諦めた晋作は博多方面へ戻るのだが、そのさい大江に託したと見られるのが、このたび碑に刻まれた佐賀藩主鍋島直正(閑叟)あての次の七言絶句である。

「 六日田代駅

  寄肥前閑叟侯

 妖霧起雲雨暗濛

 路頭揚柳舞東風

 政如猛虎秦民怨

 今日何人定漢中」

 起・承・転句はひたすら暗い。妖霧が雲となり、雨が周囲を暗くして、未来が見えないと嘆く。世は幕府の言いなりであり、それは秦の始皇帝の暴政のようで、民は怨んでいるとも言う。そうした状況を正すことが出来るのは鍋島直正しかいないと、結句で強く訴えかける。

 晋作からの依頼を受けた大江は十一月九日、表役(副代官)五十嵐昇作とともに佐賀城下まで赴くが、ほとんど門前払いのような扱いを受ける。佐賀藩は、長州がらみの揉め事に巻き込まれるのを恐れ、静観の姿勢を崩さなかった。晋作の詩も、直正には届かなかったのであろう。

 そして大江も慶応元年(一八六五)五月、主水と共に決死隊六十余名を率いて対馬に帰るが、藩論が一変して同年十一月十一日、殺された。また、主水も父を追って対馬に渡ったが、十一月十二日に切腹を命じられ「二十あまり八歳の冬の今日迄も 君のた御為と思いつつ死す」の一首を残し果てた。

(3)

 晋作が田代を訪れた日については、諸説ある。『甲子残稿』の一部と見られる晋作自筆の詩稿(このたび碑に刻んだ)では、題部分が「六日」になっている。これを信じるなら、元治元年十一月六日ということになる。

 だが、十一月九日、福岡藩の今中作兵衛が同藩の月形洗蔵にあてた手紙には「然るに谷・白(晋作=谷梅之助・大庭伝七=白石逸平)ここ元(田代)へ参り掛け、宰府(太宰府)へ立ち寄り候につき相待ち居り申し候ところ、漸く昨日着」云々とあり、こちらを信じるなら、晋作の田代着は「八日」ということになる。

 この点につき『鳥栖市誌・三』(平成二十年。宮武正登執筆部分)では「一旦、6日に両名が田代に到着してから…太宰府に出かけ、田代に戻って来たことは考えられる」との折衷案を示しながらも、今中あるいは晋作の勘違いなどの可能性も否定出来ないとする。あるいは「十日」に対馬藩の小宮謙礼以下七名が、太宰府で商人体に身をやつした晋作・大庭に会ったとする文献(賀嶋砥川『対馬志士』大正五年)もあり、決め手に欠ける。

 確証があるわけでは無いが、『甲子残稿』の「六日」は晋作の単純な誤記ではないかと私は思う。他にもたとえば『甲子残稿』は下関の白石正一郎宅に入ったのを「十一月一日」とするが、『白石日記』には「十月二十九日」とある。あるいは下関を発つのが『甲子残稿』は「十一月二日」だが、『白石日記』では「十一月一日」になっている。

 以前私は『甲子残稿』は晋作が後日整理したものと見ていたが、最近はほぼリアルタイムで書いたのではと考えている。晋作は時間に関しては大らかなところがあり、「履歴草稿」(『高杉晋作史料・三』)などは大胆にも年を間違えている箇所が複数見受けられるほどである。

(4)

 田代を去った晋作は福岡郊外の平尾山荘で野村望東の世話を受けた後、「存亡危急」の瀬戸際に立つ長州藩に帰ってゆく。もっともこの頃の晋作は、活動資金の不足に悩んでいた。

 月形洗蔵は家蔵の『資治通鑑』を売却して得た若干の金を、福岡を発つ晋作に与えたという。あるいは、福岡藩の早川養敬(勇)は藩の用心金から百両を借用し、挙兵した晋作に与えたともいう(江島茂逸『高杉晋作伝入筑始末』明治二十六年)。

 さらに、晋作の活動資金を田代代官所の公金から用立てていたことが、このたび鳥栖市立図書館で展示された代官の日記十二月六日の条に記録されている(『諸大名通路考鑑之部』)。

「長州藩谷梅之介・野只人・里見次郎・佐々木太郎・加藤新太郎しめて五人、長州当時の形勢筋、列藩へ内々打ち合わせ、旅用金不足難渋の義申し出、金四拾両御手当下され候事」

 里見は紀州脱藩、佐々木は長州藩士。長州藩が諸藩と交渉するため、四十両を与えたというのだ。手配したのは、平田大江であろう。すでに晋作は下関に帰っているから、使者が田代まで受け取りに来たらしい。

 だが、いくら平田大江が家老とはいえ、晋作らに与える目的で堂々と公金を引き出せるものだろうか。この点につき同日の賄方(財務担当)の日記に、次のような記述がある(『御両役考鑑之部』)。

「御国周旋方多田荘蔵金四拾両御手当下され候段、御家老中平田大江殿より御達しの事」

 つまり大江は対馬藩の外交官である多田荘蔵へ活動費を与えるとの名目で、四十両を引き出したのだ。前者が「本音」、後者が「建前」であろう(このような史料が、まだまだ眠っているから楽しい)。

 こうして福岡や対馬の同志の経済的援助を受けた晋作は十二月十五日、長州藩政府打倒を掲げて下関で挙兵。内戦のすえ勝利し、藩是は武備恭順の「待敵」となった。

 本稿執筆にあたり鳥栖市教育委員会の久山高史・島孝寿両氏にご教示いただきました。あつくお礼申し上げます。

              (『晋作ノート』44号、平成30年12月)


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