山口における晋作住居

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 静岡大学教授(当時)の田村貞雄氏から、神奈川県立博物館に未発表の高杉晋作書簡が所蔵されていると教えてもらったのは、かれこれ三十年近く前のことと記憶する。後日、上京の折に同館を訪ね、閲覧、撮影させてもらった。

 それは文久三年(一八六三)九月二十七日、両親宛の長文で、巻子装である(資料番号G2203)。昭和五十年代半ば、吉田松陰の親類の家から寄贈されたとのことだった。ざっと読んでゆくと、晋作が妻マサと一緒に住む「山口私寄宿処」を説明する次の部分が、まず目についた。

「江良村静間某の処にて、格別入用の人もこれ無く候ゆえ、断然御定め候。立(竪)小路を去る事十四、五丁下ばかり、頗る御閑静の場所にござ候。家も手細く小じんまりとして、住居もずいぶんよろしくござ候」

 晋作は奇兵隊総督と政務座を兼務したりしたが、紆余曲折のすえ、九月十日に政務座専任となり、山口で勤務していた。だから山口に住んでいたのは間違いない。しかし、その場所を、自身がはっきり記した史料は、それまで見たことがなかった。この書簡により、江良村の静間家だったことが分かったのである。

 江良村は、宮野桜畠村の中の小村だ。山口市街だった竪小路から、東に一キロ余り離れているだろう。晋作はその環境を「白雲野鶴の●、朝暮は思い出され候」と述べている。また、話したいことがあるので、父に一度訪ねて来て欲しいとも言う。ただし、晋作が借りていた家の正確な場所は、いまだ調査出来ていない。

(2)

 同じ書簡で晋作は、江良村を「幽栖の処」と呼ぶ。他にも「人望に負くの男ゆえ、当分のところ、断然隠遁、身を隠し…最早、高名の心も隠佚の心も忘却つかまつり候」などとし、隠棲したいとの希望を繰り返す。閑静な江良村は、当時の心境にマッチしていたらしい。

 そして晋作は九月二十七日、政務座を辞したいと藩に申し出る。すでに「正義役人」も復権し、「京都より正義諸士帰着」して「御政事御一新、君公御上京をも御決定」したからだという。

 同日、父母宛書簡でも同じ旨を知らせている。また、父の病が快方に向かっていると喜び、勤務継続を懇願する。小忠太は世子の御奥所勤務・御内用掛、世子夫人の御裏年寄役という要職を兼ねていたが、九月三日、病身を理由に辞任を申し出ていたのだ(『高杉小忠太履歴材料』)。

 なぜ、晋作はそこまで政務座を辞そうとしたのだろう。

 同年三月十五日、晋作は京都で十年の暇を許され、剃髪して「東行」と号した。それから藩は半ば強制的に、晋作を萩に帰国させる。晋作は萩の松本村の奥地で隠棲を始めたが、六月に入るや急きょ山口に呼び出され、藩主から馬関防御の立て直しを命じられて、奇兵隊を結成した。つづいて奇兵隊総督と政務座を兼ねたりもした。

 では、十年の暇は、どうなったのか。晋作が再び藩政の第一線で働くには、この九年以上も残っている暇を、きちんと処理しておく必要があったと思われる。

 もし、藩主が暇の継続を指示すれば、晋作は再び隠棲生活に戻らなければならない。そうなったとしても、みずから願い出て貰った暇なので、誰にも文句が言えない。

 それに備えて晋作は、隠棲の場所を確保しておく必要があった。しかし、萩の奥地ではない。なぜなら、攘夷実行を名目に、藩政の中心は萩から山口に移っていたからである。「いざ!鎌倉」といった事態が勃発した時、ただちに主君のもとに馳せ参じられるよう、山口近郊の、あまり目立たない場所での隠棲を望んだのだろう。それが、江良村だったのだ。

(3)

 ところが十月一日、藩は晋作の政務座役は免じたものの、隠棲どころか新知百六十石で召し出し、大組に加え、奥番頭とした。この上書きにより、十年の暇は正式に帳消しとなったのだ。

 新知と言うから、晋作を当主とする新しい高杉家が生まれたのである。大変な栄達だ。藩主父子の信頼を確認し、感激した晋作は翌二日、両親に沙汰の写しを送り、次のように知らせた。

「私儀、是迄身命を抛ち奉公つかまつり候心底、天地に通じ候儀かと恐懼罷り居り候。此の後はなおさら生死は度外に置き、着実忠勤つかまつり候落着にござ候につき、其の段御安心遣わさるべく候」

 この喜びようを見ると、隠棲は本意ではなく、表舞台に立ちたかったのだろう。つづいて九日、申し出のとおり小忠太に御役御免の沙汰が下る。そして、世子側近の「新御殿御奥所勤」「若御前様御裏年寄」は晋作に任された。世代交替である。

 十月二日、晋作は両親宛書簡で、母ミチが近日、山口に来ると知り喜ぶ。山口は大して見物する場所も無いが、気晴らしにはなるだろうと言う。湯田(温泉)あたりに出掛けるなら、諸雑用は自分が引き受けるから早く来るように促す。

 つづく九日、父宛書簡によると、母と末妹ミツが訪ねて来たようで、母は家僕の繁作と共に氷上山(興隆寺)・大伊勢(山口大神宮)などを見物したという。しかし萩の家は女手が居なくなったので、「御閑静に入らせらるべくと愚察し奉り候。しかしながら御不自由の事もこれあるべくと、ここ元にて皆々御噂つかまつりおり候」と、父を気遣う。

 息子の晴れ姿を見た母は三十日、百合三郎(南貞助)と僕の林平を供として山口を発ち、萩に帰ってゆく。百合三郎は前年、小忠太が養子として南家から迎えた妹の子、実の甥である。晋作が別家を立てたため、高杉家の相続候補者でもあった。

 さて、そうなると、江良村では山口市街の政事堂に出勤するのは、不便だ。そこで十月終わり頃、引っ越した。今度は舅の井上平右衛門宅の離れ座敷である。

 十月三十日、父宛書簡に「井上相宿の儀仰し越され、早速引き移りつかまつり候」とし、自身も勤務で留守が多いから都合がよいと喜ぶ。また、「井上外父も此の節は廻郡(地方廻り)にて留守にござ候」と、岳父の近況も知らせる。

 この書簡の発信元は「鴻城鰐川村舎」とあるから、山口市街東南に位置する鰐石村と推測される。横山健堂『高杉晋作』(大正五年)によると六畳と四畳半の二間から成り、二畳ほどの女中部屋を増築したという。ここで晋作とマサ夫妻は約三カ月、過ごす。残念ながら私はこちらの家の正確な場所も、いまなお調査しきれていない。

 ところが八月十八日の政変後、失地回復を目指す遊撃軍が沸騰していた。元治元年(一八六四)一月二十六日夕方、君命を受けた晋作は遊撃軍説得のため山口を発ち、宮市(現在の防府市)に赴く。ここで晋作の、山口における平穏な生活は打ち破られた。説得に失敗した晋作は上方に走り、マサは間もなく萩に帰った。三月に帰国した晋作は、脱藩の罪により獄の人となる。

 なお、横山『高杉』はこの前に「宮野村」に住んだとあるが、江良のことである。両親宛書簡は『高杉晋作史料』一巻(平成十四年)に収めた。

  (『晋作ノート』60号・2024年1月)

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