『俗論派』の意見書

「俗論派」の意見書

(1)

 幕藩体制に従順だった長州藩は文久二年(一八六二)七月、尊攘論の信奉者たちが藩是を奉勅攘夷に定めるや、過激藩と化す。将軍上洛、外国艦砲撃、そして元治元年(一八六四)七月に「禁門の変」で敗れるまでの二年間、暴走は続いた。激怒した孝明天皇は長州藩を朝敵として幕府に征討を命じ、これを幕府は西国三十一藩に伝える。

 一方、長州藩では過激派が斥けられ、穏健派が政権に就き、責任者を処罰し、藩主父子を山口から萩に戻すなど、恭順謝罪する。その結果、長州征討は同年内に不戦解兵で終わった。

 ところが、これを不服とする高杉晋作らが挙兵して、内戦が勃発。慶応元年(一八六五)二月下旬、再び過激派が政権を奪う。以後、第二次長州征討を経、「明治維新」へと続く。だから勝った過激派は「正義派」、負けた穏健派は「俗論派」と呼ばれた。

(2)

 では、「俗論派」の主張とは、どのようなものだったのか。

 明治二年(一八六九)、維新に関係が深い大名家などに対し、修史の詔勅が出た。毛利家では大規模な史料編纂を行い、『防長回天史』などが生み出される。

 ところが、たとえば『防長回天史』には「俗論」側の直接的な史料が、ほとんど収められていない。「俗論」側の主張は、「正義」側のフィルターを通じて記録されるのみ。それは史観云々よりも、史料が存在しないため、そうせざるを得なかったのだろう。このため現状では、幕末長州藩史の中立的視点での叙述は、不可能とされる。政敵の史料をここまで抹消した執念、執着たるや凄まじく、戦慄すら覚える。

 しかし最近、抹消されたはずの「俗論」が直接書いた史料を、見つけた。灯台下暗し、自宅の書庫の中でである。ずいぶん以前、幕末長州藩に関する意見書や歎願書などの束を古書肆から買ったものの、当時は公私共多忙で読まずに放置し、忘れていた。コロナ禍のせいで時間が出来、読んでみたら、なんと「俗論」の史料群で驚いた。

 ここではまず、一点目の意見書からいくつかのポイントを紹介してゆきたい(読み下し。カタカナは平仮名に改めた)。原本は六丁からなり、藩主父子帰萩に触れていることから、元治元年十月初旬、藩に提出されたと見られる。署名は塗りつぶされているが、重臣の誰かだろう。

(3)

 意見書の冒頭では「妄発(「禁門の変」のこと)」のすえ、藩主父子が「一旦朝敵」となり、「近々追討使」が差し向けられるのは「御国危急存亡の秋」だとする。そして「上は太夫より下は草野の万民に至る迄、不安、寝食泣涕、痛哭の至り」とし、暴走する「正義」政権に対し、藩内官民が怒り、恐怖を感じていると述べる。

 京都進発の責任者は「三太夫以下参謀の人々」の他、「いずれ連座の罪逃れ難」い者もいるとする。その「七、八人」の中に、桂小五郎や高杉晋作も想定されていたのではないか。

 先年、岩国徴古館が公開した重臣志道安房の「手控」十一月九日の条に、「正義」幹部のひとりしとして「高杉和助(晋作)」が「切腹の部」に入っていたと、新聞でセンセーショナルに取り上げられた。その時取材を受けた私は傍証する史料が無く、評価は難しいとしてコメントしなかった。しかしいま、意見書を見ると、誰をどう処罰するかが相当検討されていた様子だ。高杉切腹はその段階で、「俗論」が示したひとつの案ではなかったか。

(4)

 意見書で非難されるのは、朝敵になってなお、反省どころか、山口を本拠に頑な姿勢を崩さなかった「正義」だ。

 藩主父子は山口に居住していた。その周囲は「正義」により厳重に固められおり、萩から「俗論」が赴こうとしても、入れようとしない。

「あまつさえ精忠の士起らん事を恐れ、山口へ罷り越し候者は厳罰申し付くべしとの令を下し、山口表においては萩より来たり候者へ、みだりに止宿を許すべからずとの命を布き候えども、人心の感ずるところ制止すべからず」

 「俗論」は自分たちを「精忠の士」と呼ぶ。それでも「俗論」は変装して山口に入ろうとした。その目的と、その苦労を次のように述べる。

「愛国愛君の輩、悲憤激昂に堪えず、刀鎗を恐れず、利害を顧みず、国の為、身を忘れ、上は朝敵の御冤名を一洗し、社禝保全の策をなし、微衷を天地の間に貫かんと欲し、ひそかに山口に到り、あるいは農屋に宿し眠を、牛犢に伴い、あるいは商家に到り、愍を売児に乞い、昼伏夜行、苦心つかまつり候由のところ…」

 苦労している「愛国愛君の輩」とは、「俗論」のことである。そこへ藩主一門で岩国領主の吉川監物(経幹)が登場し、形勢が一転する。

「天意の感ずるところか、さいわいに監物様御出に相成り、誠に暗夜に燈を得、瞽者の明を得るが如し」

 吉川の出現により「俗論」は憤発し、数百人が山口に入り、「奸吏御一新、弊政御改革」を目指す。長州征討に加わった薩摩藩の西郷隆盛は後日、吉川を窓口として「俗論」に恭順謝罪を説き、「正義」を斥けようと企てる。

 吉川は藩主に「壮烈過激の者はすでに妄発にも及ぶべきところ、鎮静罷り在り候よう精々御説得」する。こうして「正義」から「俗論」へ政権交代が行われ、藩主父子は萩に帰ってゆく。その様子を、次のように述べる。

「夜は白み、御一新の期相待ち候中、良知の感発するところか、天譴の容れざるところか、清太夫(清水清太郎)は脱走、麻田(周布政之助)は自殺、これより奸吏の勢い自然日に御減じ、ついに御帰城に立ち至り」

 周布の自決は九月二十六日で、「奸吏」である「正義」が失速してゆく。これを、天罰のように言う。そして「匹夫匹婦に到る迄、感泣つかまつり候」と、民衆までが危険な政権の崩壊を喜んでいると述べる。意見書は、「俗論」が民衆の支持を得ていると、繰り返す。

「二州の人民、目を拭いて維新の御政事渇望つかまつり候。先だってより歎願申し上げ候通り、御一新の御処置、御恭順の基本にて…急速に御処置これありたく願い上げ奉り候」

 「正義」から「俗論」へと政権が移ったことを、「維新」「御一新」と呼ぶ。「維新」「御一新」は「正義」の専売特許ではなく、むしろこの時期は「俗論」が使っていたことも意外である。

(5)

 意見書には「かの奇兵隊ども」の処置についても、述べられている。「俗論」は奇兵隊を、必ずしも「正義」の側とは見ていない。むしろ「正義」と結び付き「乱を企て候も計り難き」なのが、危険なのである。すでに「正義」の中には、奇兵隊に逃げ込んだ者がいるとも言う。だから反撃を恐れ、「正義」の処罰を早急に行う必要があると説く。

 後日、高杉晋作は諸隊と結び付き内戦を起こすのだが、それを「俗論」はすでに予測し、危惧していたことが分かる。では、いきなり奇兵隊を解散させるのかと言えば、それは違う。兵士たちにも生活があり、追い詰めてはかえって危険だとする。

「進退相窮まり申すべく相迫り候ては、窮鼠猫を食み候道理…解散致し候ては、処々に潜伏し、奸徒に誘われ、東集西会、いかほど御政道の御妨げに相成るべくも計り難く…」

 だから、馬関攘夷戦争の論功行賞もきちんと行った上で、次の懐柔策を提唱する。

「利害篤と御説得の上、命を用いぬ者は早々厳罰仰せつけられ、改心つかまつり候者は、これまでの通り差し置かれ、しかるべき人物惣督にして紀律厳粛に仰せつけられ候はば、かえって他日の御役にも相立つべくと申し、兎も角も御一新相成り候えば、諸隊の儀はいかようとも相成るべきと存じ奉り候」

 恩情を持って接し、自分たちの味方に取り込もうと考えたことが、うかがえる。ただ、実際は十月二十一日に、いわゆる「諸隊解散令」が出るから、思惑どおりには進まなかったのかも知れない。もっとも、その後も力任せの解散が行われなかったのは、こうした懐柔策が生きていたからではないか。

 この部分を読んで思い出されるのが、赤禰武人総督をはじめとする奇兵隊幹部のことだ。「しかるべき人物」だった彼らは、「俗論」との話し合いを進めていた。ところが調停は、「正義」の官僚高杉の挙兵でぶち壊しとなる。再び「正義」が政権に返り咲いた暁には、ひとり罪を被せられた赤禰が「不義不忠」として、処刑された。

(6)

 十月三日、藩主敬親が、翌四日、世子広封が、山口から萩に帰って来た。意見書では「御両殿様御帰城に相成り、諸士中はもちろん、匹夫匹婦に至る迄驚喜残らず歓声四隣に相徹し」と、萩の住民の歓びを伝える。だが、再び山口に移るのではとの危機感は、強かったらしい。

 そこで、山口は攘夷のために移ったのだから、列強との間に和議が成ったいま、もう戻る必要は無いとする。さらには山口が地形的に要害には適さない理由を、いくつか挙げる。

 そして「俗論」は、山口に藩庁が移ったため、困惑する萩の住民の「人心」にも気を配る。三百年来の歴代藩主の墓も一旦捨て、従う家臣も墳墓を捨てるのは「実に人情の忍ばざるところ」だという。あるいは民衆も、商売が成り立たなくなったり、田畑が荒れたりして困窮しているとし、「これより州郡凋弊、流離、破産、盗賊盛んに行われ、恐らくは百姓愁怨、ついに争乱におよぶべく」と、一揆の勃発を予測する。

 そして「俗論」の意見書の結論は、次のようなものである。

「社禝長久の策を求め、下は万民安堵の基を相建てられ、御両殿様、尊王の御大義再び天下に伸ばしなされ候期、伏して企望奉り候」

 意見書を読み、まず気づくのは、どこにも幕府に恭順謝罪するとか、幕府に従うなどとは述べられていないことである。藩内を改革して天皇に恭順し、再び尊王を実行すると言う。「尊王」のリセットを行うのだから、天皇に恭順謝罪するのは当然なのである。

 ところが、たとえば「正義」側の中原邦平『井上伯伝』(明治四十年)では「一意恭順謝罪を旨とし、唯幕府の命之従ふ…故に吾々武士道を重んずる者は、臣子の分として決して一意恭順謝罪説に同意する能はざるなり」などと、「俗論」は幕府に尻尾を振った政権として語られる。「俗論」は言っても無いことを、言ったように記録され、悪印象を持たれのではないか。

 それに、長州征討を命じたのは天皇だ。「幕長戦争」ではなく、天皇対毛利の戦いなのである。それでは不都合なので、後年編まれる「維新史」は幕府対長州という構図を、やたらと強調する。その影響は、現代の学校教科書にも残っていると言えよう。大体、この時期の朝廷と幕府を分けることは出来ない(その分断のため、以後あらゆる権謀術数が巡らされるのである)。

 また、「正義」は民衆の支持を集めており、内戦の勝因もそこにあると評されることが多い。確かに支持者もいただろうが、果たして朝敵になるまで暴走した政権が、どこまで民の支持を集めていたかは疑問である。

 この意見書は、萩博物館高杉晋作資料室で十二月初旬まで展示中である。また、他の史料も含め、萩博物館調査研究報告で順次翻刻する予定である。

   (『晋作ノート』59号、2023年9月)

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