晋作、筑前からの手紙
(1)
近日マツノ書店から出版予定の『久坂玄瑞史料』には既刊『高杉晋作史料』(平成十四年)・『吉田年麻呂史料』(平成二十四年)の「補遺」も収めている。この種の史料集は出版後に新たな史料が出て来るのは宿命のようなもので、こうした形で補わせていただいた。
初めて活字化される史料のひとつに元治元年(一八六四)十一月十四日、高杉百合三郎あての晋作書簡がある。百合三郎はのちの南貞助で、この頃高杉家の養子になっていた。高杉小忠太の妹マサが、藩士南杢之助に嫁ぎ生んだ子である。晋作からすると実の従弟であり、義弟ということになる。
書簡の初めの方で晋作が「拙兄は旧に依り碌々偸生(とうせい)候間、御一笑下さるべく候」と言うが、同月はじめより二十五日頃まで、九州筑前に亡命していた。同年七月十九日、「禁門の変」で敗れた長州藩は「朝敵」の烙印を押され、長州征伐軍が迫っていた。長州藩は恭順謝罪すると決め、晋作は危険を察して、逃げたと言われる。
これは晋作が亡命先から長州の義弟に宛てた、「密書」なのである。「偸生」とは、無駄に生きながらえているとの意味。つづいて「脱走」につき、次のように弁明する。
「さて、脱走の儀は、邦家の危難輔助奉りたく存じ候ても、幽囚致され候ては、とても尽力の目程これ無く候につき、やむを得ず無情の一処置つかまつり候」
晋作は主家のために働きたいのだが、幽囚されたら動けないので、「やむを得ず」脱走したと言う。しかも幽囚は「決して真の君意」ではなく、「天地神明に誓って」奉じなくてもよい命だと判断した。
(2)
つづいて晋作は、近況を少しだけ知らせている。
「此の節は筑藩に潜居、天地の周旋致しおり候。いずれ一死地を得たく、望みおり候」
脱走前、百合三郎に「大小」や「武品」といった刀剣武具の調達を依頼したようで、それらを長府の大庭伝七(長府藩士。白石正一郎の実弟)のもとに届けておくよう、指示している。
この後、十一月二十五日に晋作は下関に帰り、十二月十五日に新地の藩会所を襲撃して内戦を起こす(下関挙兵)。その際身につけていた復古調の小具足や烏帽子型の甲は、百合三郎がどこかで手に入れて来たものかも知れない。
父母のことも忘れていないので、そのうち書簡をひそかに出すと言う。また、妻マサには、同年十月五日に生まれたばかりの長男梅之進(のち東一)を「勤王の士」に育てて欲しいとか、「拙事は決して思うてくれるな」といった伝言を頼む。
これを読むと晋作は、他の家族には知らせず、百合三郎にのみ手紙を出していたようだ。しかも、「拙ここ元滞留の儀は、内輪えも御明かし下さるまじく、ただ、どこともなしに一筆届き候と御噂下さるべく候」と、口止めをしている。
追伸では「何卒勤王の為、御亡命、御尽力有りたく祈り奉り候。一身一御国の利禄にかかわり候ては相済まぬ時節なり」としめくくり、「負親去国回天誠 必竟斯心莫世知 自古人間蓋棺定 豈得口舌防嘲識」という五絶を添える。署名は「変名 谷梅之助拝」となっている。
(3)
この晋作書簡は、奈良県天理市の天理大学附属図書館の所蔵である。六年前、史料収集のため訪れた同館で、初めて閲覧させていただいた。筆跡は晋作のクセが良く出ており、疑う余地はないと思う。
現状は元治元年六月一日、久坂義助(玄瑞)が京都から藩政府に宛てた書簡と巻子に合装されている。また、大正十年十一月、伊木寿一による奥書が付く。伊木は山口県出身の歴史家で、特に古文書学の大家として知られたが、妻は晋作の孫暢子(大正二年病没)だった。
伊木は奥書で晋作が筑前に亡命し、野村望東の平尾山荘に潜伏した経緯などを簡潔に述べた後「然レバ本書ハ山荘潜伏中ノモノナルヲ知ルベシ。コノ間ノ書牘ハ未ダ他ニ現存スルアルヲ聞カズ」云々とする。十一月十日から二十日までの間、滞在したとされる平尾山荘でしたためられた書簡なのだろう。
九州の亡命先から発した晋作の書簡は従来一通も確認されておらず、その点でまず貴重である。伊木も編纂に関わった『東行先生遺文』(大正五年)の出版後に見出されたのであろう。
(4)
岩国市立博物館「岩国徴古館」に晋作の斬首が検討されていたことを示す文書が所蔵されていたとの記事が、『読売新聞』平成三十年一月二十一日号に掲載された。
記事によると、史料は二点あるという。
ひとつは長州藩重臣志道安房が元治元年十一月九日、征長軍の広島本営に交渉に向かう途中、岩国に立ち寄った際の「手控」で、藩の処分案「切腹の部」に「清水清太郎・毛利登人・前田孫右衛門・大和国之助」に続き、「高杉和助(晋作)」の名がある。
もう一点は晋作ら急進派七名の姓名が列記された「斬首状写」で、「姦吏と徒党を結び、上を欺き、下を惑わし、君恩を忘れ、度々亡命すること不義不忠の至り」と晋作の罪状を挙げ、「斬首仰せ付けられ候事」とする。さらに「出奔し、行方知れず」との貼り紙も付くという。
いずれにせよ、藩政府の中で晋作の「切腹」または「斬首」が検討されていたことがうかがえる。そんな話は、既刊の晋作伝記などには見えない。だから、特筆すべき史実ではある。
実は同記事を書いた小山田記者から昨年秋以来、何度も連絡をいただき、当該史料につき意見を求められた。
だが、晋作の「斬首」「切腹」が現実的に、どの段階まで進んでかたかがはっきりしない限り、評価するのは難しい史料だと思った。刑は執行直前だったのか、ひとつの案だったのか。「京都進発」「禁門の変」に限れば、晋作は「斬首」「切腹」に匹敵するような罪を犯しているとは思えない。本来「法」で裁かれるはずだから、取り調べが行われ、罪状が決まるはずだ。だが、晋作の裁判が行われた形跡はない。
気になるのは「斬首状写」にある「不義不忠の至り」の一節である。権力側が問答無用で個人を殺そうとする場合、こういう抽象的な罪状が一方的に使われる例が、特に幕末には見られる(例えば慶応二年一月のもと奇兵隊総督赤禰武人の斬首)。
ただ、生命まで奪われるという危機感を、晋作が抱いていたかは怪しい。先に見た筑前からの手紙によれば、晋作自身は「斬首」「切腹」に処されるとは思っていない。「幽囚」されては活動出来ないから、逃げると言っている。
結局「斬首」「切腹」という刺激的な単語がウリのセンセーショナルな史料として、新聞紙上で紹介された。しかし、問題は何も解決していないと思う。繰り返すが、まずは晋作の「斬首」「切腹」が、どの段階まで進んでいたのかを示す史料の発掘が待たれるのだ。
(「晋作ノート」42号、平成30年3月)
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