奇兵隊の神様になった松陰

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 奇兵隊が開いた桜山招魂場(さくらやましょうこんじょう)を前身とする桜山神社(下関市上新地町)には、祭神の名を刻む角材型の霊標(れいひょう)三百九十一基が六列で整然と並ぶ。その最前列中央が二段の台座上に据えられた「松陰吉田先生神霊」で、他の三百九十基の台座は一段だから、一基だけ突出して見える。

 もっとも、松陰の霊標がいつ建てられたのかは、はっきりしない。明治四十一年(一九〇八)出版の『防長遺芳』に掲載された桜山招魂場の写真を見ると、松陰の霊標は現状のものとは異なり、しかも台座は一段で他の霊標より若干小さく見える。当地は大戦中の空襲被害を受けたようだから、現状のようになったのは戦後ではないか。

 内戦のすえ武備恭順(ぶびきょうじゅん)の藩是(はんぜ)を定めた長州藩は慶応元年(一八六五)七月四日、各郡に一カ所ずつ招魂場を設け、その地域出身の戦没者を祭るよう命じた。こうして設けられた二十の招魂場の大半は山口県各地に形を変えながらも現存するが、松陰の霊標があるのは桜山のみである。たとえば久坂玄瑞や吉田稔麿などの霊標は、桜山と八幡隊の朝日山(山口市)の二カ所に建つ。ビッグネームにもかかわらず、松陰の霊標が複数建てられなかったのは、すでに神格化が進んでいたのも一因だろう。

 「安政の大獄」に連座した松陰は安政六年(一八五九)十月二十七日、江戸で刑死した。万延元年(一八六〇)後半頃から、門下の久坂は江戸で諸国の同志に松陰の遺墨を見せたり、配ったりしながら急進的な尊攘運動のシンボルに祭り上げてゆく。

 文久二年(一八六二)十一月には久坂たちの努力が実を結び、幕府から大赦令が出て松陰は復権を果たした。これにより長州藩は翌三年一月、松陰の遺骸を小塚原から世田谷若林に改葬する。つづいて四月からは「尊王士気」を「鼓舞」するため、松陰の遺著を藩校明倫館で読ませたりした(『防長回天史・四』)。

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 他の招魂場で特別扱いされている者がいるとすれば、それは隊の創設者、開闢総督(かいびゃくそうとく)である。たとえば御楯隊の桑山(防府市)では御堀耕助、遊撃軍の峨眉山(がびさん)(光市)では来島又兵衛の霊標が別格である。この理屈に従えば、桜山の中心は高杉晋作のはずだが、晋作の霊標は他の兵士と同規格である。

 なぜ、桜山に松陰が祭られるのか。松陰の功績はともかく、戦死者を祭るという桜山の本旨からも、ずれている気がする。

 松陰は文久三年六月に結成された奇兵隊とは、当然ながら直接の接点はない。元治元年(一八六四)七月、四国連合艦隊との戦いを前に奇兵隊幹部の赤祢武人(あかねたけと)・山県狂介・福田良輔ら二十一名が団結を誓った血盟書の前文には「癸丑(きちゅう)(嘉永六年〈一八五三〉)以来、国家危急の義につき、松蔭(ママ)先師の素志を以って君公を輔翼奉(ほよくたてまつ)り、皇朝復古の義につき血印同盟に及び候」云々とあり、自分たちが松陰の志の継承者だと述べる。長州における「松陰」のブランド力は、すでに絶大だった。

 ただし、それ以外では奇兵隊六年余りの歴史中、祥月命日(しょうつきめいにち)などに松陰に関する祭事が行われた形跡は見当たらない。『奇兵隊日記』の人名索引を見ても、松陰の名は無い。志を継ぐと言いながら、これでは松陰をどの程度敬っていたのか分からない。

 『奇兵隊日記』を繰ってゆくと、第二次長州征討さ中の「小倉口戦争一件」慶応二年(一八六六)十月二十七日の条に「朝五ツ時、相(合)図の砲声を聞き招魂場に相揃い、大隊火入、調練相済み、神拝の上、各隊々々素の屯所へ引き取り休息の事」とあるのが、気になった。奇兵隊は同年八月一日の小倉落城以来、小倉城下を占領中である。それでも前日に関門海峡を渡って下関に帰り、松陰の祥月命日に桜山で演習を行っているのだ。ただし日記には、この日を選んだ理由が述べられていないから、単なる偶然かも知れない。

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 小倉城下を占領した奇兵隊が、本陣としたのは城下東のはずれに位置する、足立山の広寿山福聚寺だった。黄檗宗の名刹で、小倉藩主小笠原家の菩提寺である。

 福聚寺は慶応二年八月二日、兵火に遭ったが、本堂と庫裡は焼け残った。僧侶たちは退却し、奇兵隊が入って約半年過ごす。驕(おご)る兵士たちは寺を荒らし、住職が塔頭の禅喜庵に隠していた本尊釈迦如来座像を見つけて、首を落としたりした。『奇兵隊日記』の「足立在陣(慶応三年一月一日~三月二十八日)」を見ると、英彦山(ひこさん)の「賊僧」を捕らえて処刑したり、力士を集めて庭で相撲大会を催すなど、実に荒っぽい。

 兵士の無法ぶりは、幹部たちを悩ませた。平成のはじめまで存命だった奇兵隊士中原右衛門七の息子白藤董さんから聞いたところによると、ある日、軍監山県狂介は兵士たちが奪って来た品を出させ、庭に集めて見せしめのため焼いたという。あるいは三十数年前の小倉には、乱暴狼藉を働いた奇兵隊士の虚実入り交じった逸話が、恨みをこめて語り継がれていた。

 敗れた敵を、さらに痛め付けるなど武士道に反する行為である。しかし奇兵隊の半分は武士身分、残り半分は庶民だ。そこで武士ではない者に武士道を教え、武士らしく振る舞わせようとする。ここで登場するのが「松陰」だ。何より松陰は、武士道を究めた山鹿流兵学師範である。

 私の蔵書中に、奇兵隊文官の長三洲(ちょうさんしゅう)が足立山陣営で大書した、松陰の「士規七則」後半部分がある。軸装されており、本紙だけで縦一三〇、横五九センチという大幅である。サイズから見て奇兵隊が陣中に掲げ、兵士教育に使ったものだろう。もとは双幅のようだが、前半部分が現存するのかは分からない。

 テキストとなった「士規七則」は安政二年一月、松陰が従弟玉木彦介の元服に際し、武士道を七カ条に分けて簡潔に説いたものだ。松陰没後、門下生は松陰直筆を直接板に貼り、文字部分を彫り込んで版木を作り印刷、流布させた。直筆には松陰の魂が入っているとの、宗教的理由からである。だから各所に伝わる「士規七則」は白黒逆転の印刷が多い(山口県内では、いまなお小学校校長室などに額装して掛けているのを見る)。

 内容はあまりにも有名なので全文は掲げないが、この三洲書は「人古今に通ぜず…」「徳を成し材を達するには…」「死して後已むの…」の後半三カ条に、まとめの「右士規七則、又約して三端と為す…」の一文が続く。そして「右、松陰先生士規七則、丙寅(慶応二年)十二月廿三日敬書于北豊足立山中陣営互帳深処 三洲生」とある。

 こうして松陰の説く武士道は、武士ではない兵士たちの精神的支柱になってゆく。維新後、国民皆兵のスローガンの下、徴兵令で集められた兵士に武士道を注入するため、やはり「士規七則」が使われた。陸軍士官学校の教科書にも、全文が掲載されている。松陰は昭和二十年の敗戦までは大日本帝国の軍人を鼓舞し続けた「神様」であり、奇兵隊陣営の「士規七則」と桜山の霊標は、その出発点に位置すると言えるだろう。

     (「晋作ノート」56号、2022年9月)

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