晋作と蓮根と山荘と
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長州藩内での政争に敗れた高杉晋作は下関を脱し、元治元年(一八六四)十一月四日、海路、筑前博多に逃れる。まず、福岡藩の同志と協議して肥前田代へ赴き、佐賀藩に決起を促すも失敗。失意のうちに博多に戻り、郊外の平尾山荘(当時、このような名称はないが)に十日間ほど潜伏し、野村望東の世話を受けたという。
だが、潜伏中のことは史料に乏しく、今日に至るまで虚実入り交じったイメージが一人歩きしている。特に戦前は博多の郷土史家間の「論争」の火種でもあった。一連の流れは、今春発行の『萩博物館調査研究報告』第十七号の拙稿「高杉晋作の平尾山荘潜伏」に書いたので、参照いただければ幸いである。
この間の晋作の動向を伝える史料として私が注目するのは、福岡藩士林元武(泰)の回顧談である。林は亡命中の晋作と行動を共にすることが多かった。福岡藩の弾圧「乙丑の獄」に連座して投獄されるも死罪を免れ、維新後は福岡中学校長などを務め、明治四十三年(一九一〇)七月五日に没した。
林が明治四十一年に残した回顧録(福岡市立中央図書館複製蔵、未刊)には「(博多に来た)高杉を牛町千田方に伴ひ、協議の末、野村望東尼に謀り、仝氏の山荘に移す。当時山荘には同志瀬口三兵衛あり、之を留守し居りたり」とある。当時望東は山荘には居らず、瀬口三兵衛が留守番をしていたという。これだけでも従前のイメージとは異なる。
また、山口県文書館毛利家文庫にも『筑前藩林元武君談話』(未刊)がある。こちらは毛利家編輯員中原邦平が林から直接聴取した筆記録で、時期はおそらく明治後半。晋作の山荘潜伏については、前記のものより格段に詳しい。『調査研究報告』では紙数の都合上要約した山荘潜伏の部分に解説を加え、ここに紹介する(ただし原典は話したままを速記したようで、時々主、述語などが怪しくなり読み難い部分もあるのをご理解いただきたい。また、一部表記などを現代風に改めたりした)。
(2)
まず、博多に来た晋作につき中原から問われた林元武は、次のように答える。
《石倉に宿を取っておりました。そうして二、三日してから博多の櫓門の千(仙)田雪子という、是は千(仙)田一郎と云う天誅組に加わって正義で死んだ男の妹です。それ方へやろうという評議もありましたが、『女子だけだから』というので止めて、『野村望東が居るから、彼所へ話してみよう』と言うて、小鹿の谷という所で、練塀町に野村助作がおる。それへ往って、私共は相談をした》
石倉は博多鰯町の商人石蔵卯平方。仙田は福岡を脱藩して長州軍に加担するも、捕らえられ、この年八月獄死した。
野村助作は弘化元年(一八四四)生まれの望東の孫(血縁なし)だが、元治元年七月の「禁門の変」後、禁門警衛の命を受け留守にしていた(谷川佳枝子『野村望東尼』平成二十二年)。のち「乙丑の獄」に連座して慶応三年(一八六七)八月に獄死している。
助作の祖父貞貫が弘化二年(一八四五)に致仕後、妻の望東と移り住んだのが城南に位置する山荘だった。貞貫は安政六年(一八五九)、五十四歳で没し、望東は受戒剃髪する。野村家(三三〇石)所有の山荘を利用するには同家の許可が必要だったのは当然で、こうした感覚も従来見落とされがちである。
(3)
それから林たちは野村家に行き、山荘借用の許可を求める。
《「お前方の向が岡の茶室が明ておるから、アレを貸してくれることは出来まいか。しかしこれは内々にして貰わぬと、長州へ対しても済まぬから」というようなことで、またこの方にしても、「浪士どもが来ておるということを、世間へ漏らしてもならぬ。内々貸して貰いたい」と話をすると、野村助作の妻は建部という人の所から来ておる、建部武彦の娘です。それから「あなた方の事だから、承知せにやァならぬけれども、高杉という人は年齢も若いし過激党で、何事か容易あらぬ事を企謀でる。平生粗暴などいう話も聞いておるが、どうか」と言う。「誰から聞いたか」と言うと、「瀬口から聞いた」と言うようなことで、「そんな馬鹿なことはない」「しかし新茶屋へ往ったり、柳町へ往くなどという話もしよった」「そんな細かな事に構う人ではない」などと色々話をして、かの所(平尾山荘)は関口三平(瀬口三兵衛か)が大砲を持ち込んで、大砲の打ち試しをするというために借りておった。今、関口はおらぬということで、ちょっとした数寄屋などもあり、なかなか宜しい所です。向が岡と称える所で、それから段々話をして、「それなら宜しうございます。それでは瀬口が居りますから、瀬口を用足しに附けて置く」ということになった。瀬口は足軽の隊長です》
晋作の潜伏を嫌った助作の妻は、建部武彦の娘だという。建部もまた「乙丑の獄」で切腹させられることになる、大組頭の士(七〇〇石)だった。
瀬口三兵衛は藩の奥坊主だったが、早くに父母を失い、家業を継ぐを好まず、二十一歳で軽卒となるが、いくばくもなく退隠。望東から歌の手ほどきを受けていたという。やはり「乙丑の獄」に連座して斬られている。
(4)
林たちは、山荘に起居していた瀬口三兵衛に晋作の世話を頼む。
《私共の方から飯など食わして置たが、どうも足らぬような様子で、彼を使うことにして、「マア、長くとは言わぬ。四、五日のことで、宜しうございますから、貸して貰いたい。そうして賄いも香の物でも、何でも宜しかろう。滞在中のお世話でもやって下さい」というように頼んで、ようやく承知をした》
晋作の山荘潜伏は結局、十日ほどになったが、当初は四、五日を考えていたようだ。そして、いよいよ晋作が山荘に移る。
《高杉も来て見ると「見晴らしも好い、極く宜い所だ」と云うて大気に入り大層歓んで、寒い時分だから炉に火を焚いて瀬口と二人で瀬口が若党のようになって働いておる。「蓮根が嗜きだから、蓮根を食わそう」などと取り持っておる中に、望東尼という婆々の話も出て、望東尼の方でも「そういう人なら面白かろう、いっぺん伴れて来て下さらぬか」という話もあり、高杉も望東尼の神の遣身の大和魂などという歌を見て、しきりに大和魂の歌を詠んでおったが、無論慷慨家であったのです》
晋作が蓮根好きだったというのも、初耳だ。生活感があって面白い。そしてここに初めて、望東が登場している。望東は当時、練塀町の野村家で暮らしていた。望東ありきで、山荘が潜伏先に決まったのではないようだ。山荘で起居する晋作に、望東が興味を示す。一方、大隈言道門下でもあった望東の歌に晋作も興味を持つ。
《それから高杉が「これは筆力といい、慥っかりしたものだ」などというようなことで、そのうちに望東尼が来て話をする。「あなたも練塀町へお出でなされ」と云うて伴われて来る。その時に洗蔵(月形)もやって来たが、洗蔵や私どもが中へ立って往き来きするようになったのだが、「高杉という人はなかなか愉快な人で、チヤンコは出来ておるけれど、英雄だ」などという話が度々出て、それから懇意になった。逢って見ると豪い男だから、望東尼も大いに悦んで、歌を詠んで見せる。高杉も「こういう詩を作った」と云うて聞かせる。酒を飲んだりして、二、三回も往来しておると、高杉も毎日暇だから話に出掛ける。そのうちに、「あなたみたような人物は一度も未だ妾は見たことがなか」と云うので、大はまりにはまり込んで来た》
最初は望東が山荘に晋作を訪ねたように読めるが、交流の大方は練塀町の野村家で行われたようである。山荘から練塀町(現在の地下鉄桜坂駅あたり)までは、徒歩二十分くらいか。これを晋作はたびたび往復して、望東と交流を深めたのだろう。
その後晋作は帰国して挙兵し、内戦のすえ政権を奪い、第二次長州征伐軍を相手に戦ったすえ、慶応三年四月、下関で病没した。享年二十九。望東は「乙丑の獄」で玄界灘姫島に流されたが、慶応二年九月、脱獄して長州藩に迎えられ、翌三年十一月、三田尻で病没した。享年六十二。
(6)
ただし、林の回顧録にも引っ掛かる部分はある。晋作が山荘潜伏後に田代へ赴いたとするのは、林の単なる記憶違いだろう。問題なのは、林らが薩摩の西郷隆盛を山荘に連れて来て話したとか、そこへ酔った晋作がやって来て「芋掘男め」と怒鳴り散らした話が出て来ることである。
福岡藩士が尽力して、西郷と晋作を山荘で会談させ、それが薩長提携に繋がったと紹介したのは、「福岡県士族」の江島茂逸が著した『高杉晋作伝入筑始末』(明治二十六年)が最初だと言う。しかし検証の結果、今日では「創作」の域を出ないとされる。史料を見ると西郷は広島などにおり、山荘での会談は物理的に無理があるように思える。
福岡藩は慶応元年(一八六五)の「乙丑の獄」で人材を枯渇させるなどして、「維新のバス」に乗り遅れてしまう。そこで、明治維新における福岡の功績を強調するため、山荘での会談という「創作」が生まれたと考えられる。以後一部の福岡人たちは政治的思惑もあり、頑なに「創作」を「史実」として主張し続けた。福岡出身の政治家金子堅太郎にも語らせ、小学校の「修身」の教科書にも掲載されたことは『調査研究報告』の拙稿で述べたとおりである。
そうした中、林が山荘での会談を否定することは難しかったのだろう。それが林の限界だったのかも知れない。ただ、晋作の山荘での生活、望東との交流の部分は特に政治的意図が感じられない。元来、歴史編纂が目的の取材なのだから、林も誠実に対応したのではないか。当時を具体的に語る史料として重視して良いと、私は考える。
(「晋作ノート」55号、2022年5月)
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